■ ■■■■■ ■ 日刊 こならの森 ■ ■■■■■ ■

* * * *  *  * * * *
東武佐野線沿線CITY-GUIDE 〔カテゴリーからお入り下さい〕

こならの森109号

2008-04-27 | 101号~200号
       ■こならの森109号■1997.5発行

C・o・n・t・e・n・t・s

表紙 「たちあおい」

■こならの森6月号■

おぞねとしこのポエム…水すまし……3p
その他の情報…/猫バス33……4p
結婚(誕生)…田代さん…5p
現代国語………6p
知らんの5つの市/……ペペローニ……7p
インターネット………8-13p
歴史講座第1回 上林遺跡………14-19p
インフォメーション97………20-23
JC・JOURNAL………24-25p
海棠市子の映画評……………26p
書評・絵本紹介………………27p
協賛店マップ………28-29p
新・こならの森から…………………30p
■■■■■■■■■■■

【本文抜粋記事】

歴史講座第1回

 上林遺跡


 考古学というのはロマンがあっていいねと言われるのですが、確かに夢を追いかけるそんなところがあるかも知れません。しかしそれには原則というか基本そういうものが一応あるんです。

遺跡は土の中に埋まっている。

 考古学イコール穴掘りというふうにお考えだと思いますが、実は昔の人々の生活や歴史を中心にして研究するような歴史学的研究と、もう一つは骨とか、この近くで言うと葛生人とかいう化石のようなものを対象にして研究をする人類学的な考古学。大きく分けると二つある。私がやっているのは、その中の歴史的なものです。

遺跡とはなにか。

 一言で言うと、昔の人がいろいろな形で地表面にその土地を利用した跡が残される。つまり人々が過去に残した様々な土地
利用の後、それを遺跡という。
 佐野では分かっているところだけでも403カ所遺跡がある
と言われている。
黒土が埋まるようになったのは今から1万年前。もっと古い時代は赤土、火山灰が積もっていた。縄文人は、黒土のさらに下の層まで土を掘って竪穴式住居、あるいはお墓をつくった。
 人が土地に手を加えて、使用した後が土の変化などによって確認出来る、そうしたところを遺構という。それが集まると遺跡という。一つだけでも遺跡になります。
 佐野の歴史は、今まで1万5千年くらい前まで分かっていた。新都市の調査があって、2万5千年くらい前まで分かるようになった。どうして分かるのか。黒土でも土の色の違いもあるし、赤土でも土の色に微妙な変化がある。変化がでてくる。それがバームクーヘンみたいになってたまってくる。ですから、ある部分ではこれが何千年前だとかということが科学的に分かるようなものがある。一番てっとり早い方法は放射性炭素、C14、そういうもので年代を調べる。炭素の中には放射能を含んだものがある、それを植物なりが吸収します。それが炭になったりして、砂時計のようにだんだん減って来る。それと同じで半減期というものがあって、だいたい5千4百年くらいです。そのようにして、中の放射能の減り具合を調べると、だいたいこれは何年前だと分かる。そんなふうにして年代を調べる方法があります。
 もっと古い時代は、ガラスの中に含まれているウランの原子の減少を科学的に調べる。後は、地磁気の変化、北極とか南極、これは地球が出来てから今までずっと同じところにあった訳ではない。変化して行くんです。我々の一生のうちにはそんなに変化しない。何千万年のうちの地磁気の変化によって調べる。地球の歴史などはそういう方法によって調べているようです。
 新しい時代では、土器に模様がついていたりして、その模様の変化によって弥生式土器、縄文式土器とか言っている。

地球の誕生から人類が 出現するまで。

 46億年とか50億年とか言われている地球の歴史。そういう中で、人類が出現したのはたった500万年前。アウストラロピテクス(猿人)という人達が出現しました。そして180万年前まで続いた。その後は、ジャワ原人とか北京原人とか言われる人達がだいたい今から20万年前くらいまで住んでいたと言われている。猿人というのは、アフリカ大陸で見つかっている。そして、ジャワ原人とかはそれぞれ見つかった地名がついている。アフリカからジャワとか北京とかヨーロッパといったとところに人類が拡散した。あちこちに渡って行った。どういう理由かは分からないが、考えられるのは気候の変化です。
 だいたい110万年前くらいにアフリカの方からジャワの方に人が移って行ったのではないか。ジャワのスンダーランド、あの辺りは氷河期になると陸地になった。ですから、アフリカの方から陸地づたいに人が移り住んだ。
 最近の話ですと、宮城県の方に50~60万年前くらいには、人が住んでいたと考えられている。骨は見つかっていません。住んでいた人達の使っていた石器が見つかっている。地表面のそんなに深くない所から出ているので、本当かという人もいるようですが、火山灰の科学的な測定などから50年前くらいの  ものだと考えられる。
 今から20万~4万年前くらいまでの人はネアンデルタール人(旧人)という人達だった。
 4万~1万年前くらいまで、ホモサピエンスといわれる、クロマニヨン人という人達が出現する。
 500万年前までの気候の変化は分かりませんが、だいだい200万年前まではおおむね分かります。そして暖かい時代、寒い時代の変化があった。寒い時代は地球の中でも暖かい所へ人が集まって住むようになる。間氷期といわれる時には寒いところまで行った。
 佐野の上林遺跡というのは、ビュルム氷期と言われる、今から約7万~1万年前までの時代だった。どうして寒かったのか。平成5年でしたか冷夏の年がありました。フィリピンにあった火山が大噴火して、地球の気候が大きく変化した。火山灰が地球を覆ってしまえば、太陽の光は差し込まなくなってしまう。何年もそれが続けば、寒い時代となる、そんなふうに考えられる。
 ビュルム氷期の中でも、本当に寒い時と、ちょっと暖かい時があった。寒い時を亜氷期、暖かい時を亜間氷期といっています。 何万年前かの花粉が残っていて、それを分析するとその時にどんな植物が生えていたのか分かる。2万年前はヨモギだとかシダとかいう植物が生えていた。火山灰が降り積もったから、草や木は生えていないだろうと思うと、必ずしもそうではなかったようです。少しは低い木が多少生えていた。
 今から2万年前というのは、ビュルム氷期の中の3回目くらいに寒くなる時期で、一番寒くなった。この辺の気候は北海道の札幌と同じだった。年間の平均気温で言うと7~8度低かった。年間平均気温が1度違うと大変なんです。それが、7度も違うんです。したがって、そういう寒い時期ですから、氷河が地球のかなりの部分を覆いこみます。水が凍ってしまうわけだから、固まらない水は少なくなって海面が低下していた。ということは、陸地が広がって行く。そんなことで、中国と朝鮮半島日本が陸続きになります。

日本列島の植生

 関東地方の気候は、植生からいうと、冷温帯の針葉広葉樹林といわれる。今の北海道の方の植生ですね。東北地方だとか、中部山岳地方のこの時代の気候というのは亜寒帯針葉樹林。北海道の方までツンドラが広がっている、そんな状況になっていた。
主な火山帯の分布について。
 上林遺跡を掘って行くと、赤土が堆積しています。そこで確認できる火山灰で一番有名なのが、赤城・鹿沼軽石層、いわゆる鹿沼土といわれるものです。薄くしか堆積していません。3万1千年くらい前に赤城山が噴火したときの火山灰だと言われている。九州の姶良火山が2万5千年前くらいに大爆発をした。それで今は鹿児島湾となってい るカルデラ湖ができた。その火山灰は、仙台くらいまでの日本を覆っていますから全国展開です。
 上林遺跡からでた石器は、AT(姶良・丹沢火山灰)よりも下から出ている。そこで鹿沼土の下からも石器が出ないかと掘ってみたんです。でも出なかった。そこから出たら大変なことです。どうやって発表しようかな、遺跡を残せと言うことになったら大変だ。そんな事も考えていました(笑)。幸いというか、残念というかみつからなかった。栃木県ではあまり見つかっていないんです。鹿沼土の下からというのは………。

上林遺跡

 上林遺跡からはいろいろな石が出ています。一番簡単なものはチャートという種類で、この辺の山で取れる羊羮みたいな石で珪岩といっています。そういう石がたくさん出ています。それで石器を作っている。それから、だれが見てもすぐ分かるのは黒曜石、ガラスみたいな黒い透き通った石です。これも大きく分けると二つある。一つは、ガラスのようなもので割ると鋭い刃ができる。もう一つは中に気泡が入っていて中はぶつぶつになっている。その他には、流紋岩と言われているものも出ます。ただ、地質の専門家にこの石の名前を聞いたら、私たちが考えていた石とは違う名前をいわれた。凝灰岩です。凝灰岩というと大谷石です。大谷石ほどもろくはないのですが、溶結凝灰岩、そういう種類の石がたくさんあると言っていました。さてこの石がどこから取れるのか、この辺でも取れますが、石器になるような質の良い、キメの細かいものというのはあんまりない。そういうもの一番取れそうなところは、栃木市の国学院栃木へ向かって行く途中に、向山という小さな山があり、その山頂辺りに良質のチャートが取れます。さらに奥に星野遺跡がありますが、その奥の山からもやはり質のいいチャートが出ます。また、三毳山でも取れるという話もありますから、必ずしもそこから運んで来たものではないかも知れない。でも、栃木までは10キロあたり、星野までは数十キロ。歩いて行く、そして担いで来るんでしょうか。
 黒曜石で良く知られているのは栃木県の高原、あそこから取れるのは石は質の悪い、気泡をたくさん含んでいる石です。質のいい黒曜石は長野県です。和田峠とか、霧ヶ峰、麦草峠そんなところや伊豆です。戦後になって分かったのが箱根。みんな火山に関係している所です。どう考えたって100キロ以上は離れている。ちょっと聞いた話では足尾あたりでも黒曜石が取れるという。私も確信がないんですが。もし、足尾で取れたとすると、足尾まで行ったのか、あるいは渡良瀬川がこっちの方まで流れて来ている訳だから、足尾の山の奥から、川づたいに石が流れて来たのか。
 凝灰岩そういうものも足尾にはあると地質の先生から聞いております。頁岩(けつがん)、これはこちらの方にはあまりない。東北の方ですね。流紋岩という石も取れない。これを石器の材料にしているのは、県北から八溝にかけてです。真岡の磯山遺跡などはそうです。
 そういうふうにして石の原産地が各地にあります。この近辺から取れそうなのはチャートくらいなもので、後はどこから運んで来たのでしょうね。物々交換でしょうか。
 群馬県の岩宿遺跡では、ナイフ型石器や石斧が出てくる。これは、旧石器時代でも後期旧石器時代です。今から3万年前くらい。クロマニヨン人がいたころが、旧石器時代。ネアンデルタール人(旧人)がいた頃が中期旧石器時代、もっと古くジャワ原人が住んでいた時代が前期旧石器時代といっています。その中の、後期旧石器時代。 栃木県はどういうわけか、ナイフ型石器を持たない時代が何代か続きます。
 3万年から1万5千年くらいまでは、ナイフ型石器が占めるような時代です。一番下の方を加工したものや、小型の小さな石器がでてくる、その頃を槍先型尖頭器、槍の先になるようなそういう石器が出て来ます。上林遺跡も第一文化層というのはその時代です。第二とか、第三は、ナイフ型の一番古いものとか、局部磨製石器というものがでてきた時代です。もっと新しい時代になると細石器という幅が5ミリぐらい長さが2、3センチの薄い石器がたくさん出て来ます。骨とか、木かなどにはめ込む組み合わせ式の石器です。ちょっと歯がこぼれたりすると、こぼれた歯の部分だけ、取り替えがきく、スペアがきく。昔の人は頭がいい。そういうふうにして使っていた。この時代というのは、それと大きな槍とか、あるいは石刃と言われているものが見つかっています。

機能が形態を決定する。

 石器はなにかをするために作られた訳です。例えば人を殺すため、動物を捕まえたり解体するため、そういう何らかの目的があった、その目的に併せて形が作られなければ、合理的な働きをしないでしょう。昔の人はそうしていた。逆に言うと、石器がそういうふうに変遷するということは、昔の人達は自分たちが生活して行くための対象物、獣であったり、木の実であったり、草であり、そういうものが変化して行った、と言うことが言える。
 3万年くらい前にあった石斧がその後使われなくなってしまう。2万年くらい前だと小型の石器になってしまう。1万2、3千年くらい前になると、組み合わせ式の石器が使われるようになる。気候の変化に伴って、動物や植物層が変化をします。それに合わせて人が生活して行くために獣を捕ったりするための道具を変化させていった。そんなことが分かる。

 やっと来ました上林遺跡。地表面から20センチくらいのところを掘るとローム層が出て来ます。一番最初のローム層の中には黄色軽石層がかすかにあります。1万3千年から、1万4千年前。この辺りから、第一文化層と言われる石器文化が見つかった訳です。第一文化層と言われる石器文化層は、尖頭器を中心とする文化です。岩宿遺跡を見つけた相沢さんが発見したのも尖頭器でした。赤土の中から、その岩宿と同じような作りをした尖頭器が見つかっている。
 岩宿遺跡もいくつか文化層がある。その中の上の方の石器文化と同じような作り方、見るとそっくり。そういう槍が見つかっている。
 岩宿の槍というのは、先が少し割られている。おもしろいことに、長野県でも岩宿でもこの上林でも同じ形なんです。
 赤土の中でも、よく見ると火山活動が活発だった時期は、本当の赤土なんです。火山活動がおさまって、木が生えたり、草が生えたりそういう時の火山灰というのは少し腐食土が入るから黒っぽくなっている。亜間氷期、そういう時が黒っぽい火山灰、赤土である。その黒っぽい火山灰の中から第三文化層の石器が見つかっている。その石器というのは、ナイフ型石器で第一文化層の石器というのは黒曜石や頁岩が中心となっている。第三文化層の石器は、質の良い黒曜石です。第一文化層は質の悪い黒曜石、それとチャートです。それが主流を占める。そして、第二文化層、第三文化層というのは一番東の越名沼に近い方からたくさん見つかっています。第一文化層というのはもっと奥まった方で見つかっている。
 いろいろな石が出ているが、あそこでは取れないような石が出ている。
 上林遺跡というのは佐野が新都市を造るということで発掘が始まった。東北自動車道と国道50号線、これからできる北関東自動車道、こういうふうな交通の要所に当たるところです。昔ですと東山道、あるいは日光例幣使街道、そういうふうな東北からみちのくへ行く途中の交通の要所に佐野はあります。そういう意味合いがあってあそこに新都市を造る訳です。交通の要所、物流の拠点です。それは、2万5千年前からそうだったわけです(笑)。
 上林遺跡の調査は、1月の末で終わりました。全部掘りました。遺跡の調査というのは、予算とか期間もありますが、いったん掘ってしまうということは、人々が残して行った歴史が消えて行くことだからできるだけきちんと調査をして記録に残さなければいけない、ということが私たちの基本的な考え方です。
 上林は赤土の中にある石を発見して行く作業でした。ですから、石を拾ってしまうと、その後には赤土しか残らない。遺跡を残しておけばそれにこしたことはない。確かにそれはそうです、でも、佐野市の新都市を作るための用地ということになっているので、遺跡を残すのと、佐野市の新都市を作って行くのとどっちが大切なのか、私は皆様に考えていただきたいと思う。 遺跡をそのまま残すと計画を変更しなくてはいけないし、費用が何千万もかかる。その金を出て来た石器の調査とかあるいは、石を見ただけでは理解できないこともあるので、状態なりを模型にするとか、説明板を作るとかそういうことの方に使った方が、一般の市民の方たちには喜ばれるかなと思います。そんなことを私個人としては考えています。
 どちらがいいのでしょうか。
 さらには石器の原料をどこから持って来たのか、それをはっきりとさせたい。原石を運んで来て、あそこで割って、石器を作っているんだ。ですから、割った石の残りかすを集めると元の原石になってしまう。大きな石の塊のあるところが抜けている。なぜ抜けているのか、石器として使ってしまったからです。ですから、使ってしまった石がどこかにあるはずです。越名の方かも知れない、堀米の方かもしれない、あるいはもっと遠く栃木の方かもしれない。そういうものが見つかるといいなと思っています。つまり、そこで石器を作った人、材料を運んだ人、それからその石器を家族のために近くの山へ行って鹿や猪を必死になって取った人の行動や生活の様子が分かる。勝手に想像できるんだからロマンでしょう。資料整理をこれからやるんですが、そういう中で分かるといいと思います。これから、いろいろなことが発見されるかもしれないと頭の隅にでもいれていただくとありがたいと思います。  






最新の画像もっと見る

コメントを投稿