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東武佐野線沿線CITY-GUIDE 〔カテゴリーからお入り下さい〕

こならの森 11号

2008-03-19 | 創刊~100号

       11号1989年3月発行

●目          次●

看板娘・カラムコラム………1
トピックス……………………2
タイムスリップ〔橋その@〕4
【特集】バイリン・ガール…6
その1
ヒストリー・トリップ………10
マン&ウーマン・トピックス 10
若き芸術家の世界……………14
美容と健康・ストレッチング16
危険な道路をぶっとばせ……17
サークル紹介・海外旅行入門18
ブックス・テン絵本の紹介…19
インホメーション……………20
アウトドアースポーツ………22
僕の好きなMONO…………28
ぐるめーる・オープン情報…25
協賛店マップ…………………26
結婚しました…………………28
街角の肖像・芝居三昧………29
センチュリーラン・コーヒー30
こなら通信・購読者名簿……32


【本文抜粋記事】

●フリー・トーキング
「バイリン・ガー」ルについて

出席者
▲Nさん。英語、タイ語。二つ合わせても?バイリンガルとはいえない、とは本人の弁。
■Kさん。中国語。最近では、中国語の方が日本語よりうまいとうわさされている。
●Nさん。英語、タイ語。(タイ語は、習い始めて一年)
★司会・編集部。日本語もろくに書けないと言われている。


★まず始めに語学を始めたきっかけということから、順に語って頂きたいのですが。

■私はちょうど大学進学の時、先生にこれからは中国語をや ると良いよって言われたんですね。単純な性格ですから、すぐに乗ってしまったという 感じですね。

★普通は英語をやった方がいいですよっていいますよね。

■私は余り英語が得意じゃなくて、どうせ語学をやるんなら新しく始められるものと言うことで中国語を始めました。
▲漢文とか好きだったんですか。
■中国語は漢文とは離れて考えた方がいいですね。日本でやる漢文の授業とはまったく違いますね。学校の授業でも孔子の論語とかあると最初から中国語読みでやったりとか、先生によっていろいろですけれど。
 
▲日本で中国語を習おうと思っても教えてくれる人はいないんじゃないですか。

■そうですね、この辺ではないですけれど、けっこう(東京とかでは)留学生とかが多くて、彼らはお金持っていませんから、アルバイトという感じで教えてくれるんです。私は週に一回、一年くらい教わりました。

●元もと、中国大陸に興味があったんでしょうね。なかったら、先生が中国語って言ってもそ うは、思わないでしょう。
 
■そうですが、とにかく外国語がやってみたかったのと、(英語なんかよりもずっと)手頃だと思うんですよね(笑)。
 日本語を知っていれば誰にでも出来るような気がして… ……。
▲発音が難しそうな気がしますが。

■発音だけマスターすれば、後は、熟語でも日本語と同じで、例えば『中国人』という言葉が日本語では分かりますよね。でも、英語では、チャイニーズという全然別な言葉に直さなければいけないけれども、中国語はそれをそのまま、『中国人』と発音すれば、中国語になってしまうから楽なんです。だから、日本語で考えて後は組み立てだけ。

▲表示文字は同じですものね。
●でも、日本で使っていない漢字とか、逆もあるんでしょう。
■そうですね。また、日本から漢字が逆輸入した例もあるんです。皆さんは英語がかなり出来るんですか。
 
●簡単な日常会話だけですね。私は語学は自分と全く無縁だと思っていたんです。学生時代は社会福祉が専攻でしたので、あまり関心はなかったですね。ただ、卒業旅行に月並 みにハワイに行ったら、なん となく言葉が通じたんですね。その時に向こうで友達が出来て、それで手紙を書きたい、意志を伝えたい、話をしたいという気持ちから、どんどん膨れ上がっていったんです。いずれ向こうに住みたいとか、向こうで何かやってきたいとか、語学を勉強するというのは目的じゃなくて手段でしかなかったですね。

■でも言葉が通じた時というのはうれしいですよね。やっぱり勉強していて良かったなと。 
★西原さん姉妹は、最近タイ語を習っているということですが、どうですか。

●まだ習いたてで、バイ・リンガルというより1.2・リンガルという感じですね。

■タイ語の話す順序は英語みたいに動詞が先に来るんですか。
●発音は基本的に英語と同じかな。日本語よりは英語に近い。でもまた独特ですね。
  タイ文字というのは記号だから本当に難しいんです。

■中国語の場合は、主語の次に述語がきて、英語と同じですが英語ほど細かい規則がないので、適当に思いのままにしゃべっちゃえばいいんです。(漢 字で)書いてあるものを読むのは、誰でもできるんです。向こうの新聞などをみても何 なく意味が分かりますよね。  
▲日本語でも他の国の人が習うとなると、難しいんでしょうね。
●小さい頃に、なぜ日本語に漢字が入っているのかというのを、紙を節約するためだと思っていたのね(笑)。それで、先生に聞いたら意味を付けるためですよって教えてくれたのね。

■先生も困った子だなと思ったでしょうね。

▲私は、英語はしゃべりたいと思いながらも努力していないんです。学校で勉強していた時点ではただの文字だったんですよね。記号というか。それで、生活に密着していないというか、会話として密着し ていないから押し寄せてくるものが無くて、本の中に書いてあるものだけというイメージしかなかったんです。
 
★語学の取得の方法というのは皆さんはどうでしたか。
 
●英語については、ラジオ講座をしっかりやりました。一番いいと思います。毎日あるし自分の好きな時にできるし、安いし、私の場合それを毎日三種類くらいやっていました。
  私は毎日やらないと、一日一日忘れていくというのを感じるんです。単語でも昨日覚えたのを、今日忘れている。そいうことすごくあるでしょ、だから毎日毎日それを、やっていかないともったいないとういう気持ちがあって、頭からこぼれていくのがもったいないという感じでなんですね。そして、テープに取ったものを繰り返し繰り返し、通勤時間に聞きました。それくらいしないと、入ってこないん ですよ。この年になると(笑)。
■この年なんてね~。

▲でも子供だったらもっと違うでしょう。

■それはそうですね。でも子供も四、五才が言語能力が発達する時期というか印象づけという印刷機能があってその時に覚えさせるともう一生忘れないということですね。

●あとは、とにかく使うことですよ。

■聞いて分かるけれど、じゃべれないというのは使い慣れていないという事ですからね。とにかく体で覚えなくてはだめですよ。中国語も日本人は比較的聞くというのは弱いんです。聞くとすぐ漢字に変換してから意味を取る。けれど、他の外国人は漢字を知らないから音で全て判断できるのでかえっていいんです。日本人はなかなか覚えられないみたいですね。

●最近タイ語を勉強していて、英語と比べてみると英語って中学からやっているので一通りは知っている。だけど、変に知っているがために、それで話そうなんて思うと凄く萎縮するし、間違ったらどうしようなんて考えたりして、かえって話せない。

▲文法、文法で教わってきているから、単語のブツギリをやってはいけないんじゃないかと思ってしまう。

●恥ずかしいけれどなんでもいいから間違ってもいいから、口に出してしまえばなんとかなると感覚的に覚えるまでには、時間がかかりますね。なぜそう思ったかというと、タイ語を勉強して全く一から、全然知らない訳でしょう。そうするとなんでもいいから口に出せる事がうれしくて文法とかは関係なかったし、外国語を勉強するってそういうこ となのかなと思いました。  自分が間違っている事さえも分からないから(笑)、全然恥ずかしくないんです。

■中国語も文法が無いなんて言いましたけれど、確かに厳しい文法はないんです。助詞とかは無いし、だけど自分で適当に言っていることもありますね。
 言い回しは、中国人なりにも規則的なものがあるので自分の言ったことを、向こうの人は、向こうなりに言い換えてくれたりしてくれますね。でも、言い換えられてもあまり気になりませんものね。
 ところがテストでは一つ間違えるとゼロですものね。

●私の高校の時の先生が、おな かが一杯だというのを、ネイティブスピーカーに聞くと「アイムフル」って言うでしょう。でも、その先生は、『マイ ストマック イズ フル』っていったんですよ(笑)。高校 の現役の先生がですよ。それを、平気でみんなに教えていてたんですよ。
 
★語学のマスターのポイントというは、どうですか。
 
■やはり五感、体を使うということですか。
 
▲その言葉を話す友達を探すというのもいいんじゃないですか。
■自分の気持ちを通じさせたいというそういう事ですからね。
●覚えても、それを使って体に返すみたいなことですね。テキストの中では出来ても、実際の会話の中では、難しいですよね。でも一回使うとより良く身につくんですね。それで、間違って覚えていたとしたら、使った中で相手に直さ れますからね。

▲英語の場合で思うんですが、話す時にネイティブスピーカーだとぶつ切り英会話でも萎 縮して、しゃべれなくなるこ とがあるんですね。そういう私と同じ人がいるとしたら、アジア人の話す英語というの から入ったらすんなり行くような気がします。安心出来るというか、チェックされそうもないというか(笑)。

■国民的に感覚が似ていると同じような単語をつかいますでしょう。中国人と日本人、欧 人からみると似ていますよね。日本人は「疲れましたか」。と聞かれると「いえ、そんなことはありませんよ」って答えますよね。中国人もそうな んですよ。『レイダマ』というと『プレプレ』「疲れていませんよ」っていうんですよ。同じ事をアメリカの女性に聞い たら「もちろん!」という答えが返ってきたんです。これは、国民性だなと思いましたね。韓国人と中国人では同じ顔形をしていても、全然違いますね。かえって中国人の方が日本人に近いところがあります。広い国だから大陸的なおおらかさで、例えば第二次世界大戦とか、残留孤児とかも心が広いというところがあります よね。でも、韓国の人は許さないですよ。悪い事は悪いとはっきりしています。
 この後、話はさらに進んで、気がつくと中国で、猫や犬を食べてしまったという体験談やトイレの各国の事情という話になり、今まで以上に熱の入った激しいディスカッションになったのですが、紙面の都合でご紹介出来なくなりました。この続きは、近いうちに又ご紹介いたしますので、ご期待ください。 

■でもタイに行こうというきっかけは。

▲元もと奥地で仕事をしてみたかったんですね。行ってみたいという気があっても、体がどんな風に気候とかになじむか試してみたかったんです。そんな時にタイの奥地に行くという話があって、行ってみたんですね。そうしたら、やはりショックを受けましたね。想像していたものとは、温度とか、臭いとかが違っていたんです。もちろん、行く時には、覚悟を決めていきましたから思った程でもなかったんですが、かえってタイから戻って来て日本のスーパーに入った時の方が凄いショックだったんですよ。
 あまり奇麗にパッキングされていていろんな物が並んでいるでしょう。だから、逆カルチャーショックだったと思いましたね。
 タイの僻地教育振興会という所のボランティアグループについていったんです。そのグループ自体が僻地の子供達に文房具を送ったり、古着を送ったり、そういう事を手渡しでやっているんです。でも、結構危ない所を通るんです。それで、タイの陸軍が同行するんですね。子供達にハイとか言って手渡すんですが、そのそばでは陸軍が銃を構えて見張っているんですよ。
 そういう所へは女の子ひとりで、行きたいと思ってもいけないですよね。だから、いいチャンスだと思いました。そこで初めて、生活するレベルの所で外国人と接した訳です。でも、全然タイ語なんて分からないし、一緒のボランティアグループの人は英語が話せるんですが、私はそれさえも良く通じなかったですね。
●人と人がいて、何とかコミュニケーションを取りたい。けれど出来ないから、その手段として会話が生まれたという感じですね。だから最初は一生賢明だったと思います。



こならの森 10号

2008-03-18 | 創刊~100号

       10号1989年2月発行

●目          次

看板娘・カラムコラム………1
フォトメッセージ……………2
タイムスリップ〔橋〕………3
つれづれインタビュー………4
写真特集・成人式……………6
マン&ウーマン・トピックス 10
ヒストリー・トリップ………12
スターウオッチング…………16
街角の肖像・芝居三昧………17
サークル紹介・海外旅行入門18
ブックス・テン絵本の紹介…19
インホメーション……………20
アウトドアースポーツ………22
結婚しました…………………24
ぐるめーる・オープン情報…25
協賛店マップ…………………26
僕の好きなMONO…………28
美容と健康・ストレッチング29
センチュリーラン・コーヒー30
こなら通信・購読者名簿……32




本文抜粋記事

●カラム・コラム
 東京の某デパートがピカソとルノアールの絵をセットにした福袋を五億円で売り出したそうだ。実際の値は八億円で三億円はオマケだと言う。この値段は我々には関係のない金額だが、つまりは客寄せのイベントだから、本当にスゴイのは実は金額なのではない。売り方がモノスゴイのだ。当方は美術史に暗いからピカソとルノアールの組合わせがどうなのか、当の作品がどうなのか知らない。しかしこの二作を福袋にしてしまうという発想はモノスゴイ。古来売買する品にはその物に応じた売り方買い様というものがある。件のデパートはそんな事にトンチャクしない。
 近年欧米での日本人の名画買い漁りがヒンシュクを買っているが、この件も同様の反応を受けるだろう。しかしこのデパートの態度にはそんな趣味人の奇麗事を物ともしないスゴミとでもいうようなものがある。値の付くものは要するに商品であって、それ以外の意味は断じて認めまいとでも言いたげな、成り上がり者のスゴミとでも言うべきものだ。これは八億円のシナモノであって三億円はオマケである、どうだスゲエだろう、文句があるか、という所か。ほとんどアッパレである。
 欧米人の趣味だの伝統だのをケトバすようなこの態度には、我が商業国家ニッポンの精神が如実に表れているようだ。惜しむらくは全く無自覚に行われているらしい事で、本当の所、この無自覚という所が一番目覚ましくかつモノズゲエ所かも知れない。


こならの森 9号

2008-03-17 | 創刊~100号
       9号1989年1月発行

看板娘・カラム・コラム・・1
Like a 富士山・・・2
タイムスリップ・・・・・・3
特集・食文化について・・・4
若き芸術家の世界・・・・・10
ヒストリー・トリップ・・・14
トピックス・・・・・・・・16
僕の好きなMONO・・・・18
ブックス10・絵本の紹介・・19
インフォメーション・・・・20
アウトドアー・スポーツ・・22
結婚しました・・・・・・・24
美容と健康・・・・・・・・25
協賛店マップ・・・・・・・26
センチュリーランinハワイ・28
サークル紹介・芝居三昧・・30
街角の肖像・・・・・・・・31
こなら通信・会員名簿・・・32



【特集】
食文化について考える
 
農文協関東支部
係長 香川通男さん

 郷土の「食」という観点から、先頃『栃木の食事』という本を出版された農文協の関東支部係長香川道男さんにお話を伺った。

◆初めに栃木県の『食』という点で、特色や他と違っているところは、どういうところですか。
 わりと豊かな土地がらで、昔から飢きんもあまりなかった。ただ海がないということで、川魚など川の利用という点が大きかった。鬼怒川と渡良瀬川と那珂川とわりと大きな川がありますが、その流域によって食事の特色も出ています。それと山間と平場と、北と南を分ける里芋文化ですね。
 西那須を中心にして、開拓地がわりと多かった。そこに里芋などが植えられたわけですね。あとは葛生の山間などもそうですし、田沼なども戦後の開拓なんですね。米が出来ないものですから、里芋とかそば、仙波そはなどは有名ですよね。
 面白いのは栃木県の中でも足利は食生活の面で他と違っているということです。『しもつかれ』を取っても佐野や館林、邑楽郡あたりまでは作るみたいですが足利は作らないんです。体質に合わないというんです。

◆ある足利に住んでいる人は栃木県だとは思っていないと言っていました(笑)。極端な例でしょうけれど。
 
 そうですか、この「栃木の食事」なんかも売れていないみたいで(笑)。佐野とか、栃木と比べて農業人口が少ないせいもあると思いますし、紹介されているものなども、作られていなかったりしてなじみがないみたいですね。書店さんや、農家の人に話しを聞いてみてもそうらしです。

◆話は変わりますが、編集方針といったものをお聞かせ下さい。
 私共はもともと農林省の管轄の社団法人で、生産の問題をずっと取り上げてきた訳です。
 今、出版の柱というか分野としては『衣・食・農・思』という四つの分野を大きな柱にしてやっています。『思』は思想ということもあるんですが、教育という事を意味しているんですね。農村だとか農家でやってきた自然の問題などを取り上げていくなかで、今一番侵されているもの、矛盾が一番出ているものを追っていっているんです。農業も本来、安いとか高いじゃなくて、その土地で採れたものをどうやってその地域の人が食べるかということが基本にならなければいけないし、教育だって、教育産業じゃなくてやはり自分の子供を育てていくという事だと思うわけです。

◆宮沢賢治の世界みたいですね。
 そうですね。だから食べ物も商品化するものじゃなくて、今はもう全部工場化していますが、本来システム化されてはいけないものだと思うんですね。
 家庭の味だって、その家々で違っていたし、料理人の方がやる料理とはまた違ったものだった。それが今はもう外食産業だとかそういうものに、侵されている。だから四つの柱でやってきているなかでも特に『食』の問題というのは、健康の方にも衣料の方にもつながっていく重要なものなんです。
 それから教育問題のなかでも一番、食べ物というのは歴史だとか地域の事を考える上で大きな柱になるだろうし、自然教育という意味でですね。教育が抱えている問題をみていく場合でも食べ物というのが一つの入り口になっていくんじゃないかと思いますね。

◆学校給食といったことですか。
 そうですね、給食だけじゃなくて食べ物がどういうふうに出来ているのだろうか、最近の新聞に出ていましたがニワトリの足が四本だとかってのがありましたね。そういう自分達が食べているものがどういう過程で出来ているのか、もう離れてしまっていて、本だけの勉強になっているような気がします。
 また、体験学習というものが広がってきていますよね。文部省の体験学習というものだけじゃなくて地域の人と一体になって学ぶものという事でやっているんですが、そういうことがこれから大切になっていくと思いますね。

◆先ほど話しにでました、『栃木の食事』という本についてお話し願いたいんですが。

 大正から昭和初期にかけて、主婦だった方、現在は七十才から八十才くらいですが、その方達を取材し聞き書きという形で当時の食事というものを編集していったものなんですね。普通の本と作りかたが違う点は、ひとりの方が全部書くというのではなくて、編集委員が三年掛かりで掘り起こし、実際に再現しながらやっていくということですね。百名くらいの当時主婦だった方に話を伺いました。
 ただ、記憶がしっかりした方でも、けっこう忘れてしまっている事が多いんですね。行事のことなどとか。だから一回聞いたことを整理して、分からない所を再調査する。という事で何回も訪問するんですね。
 上河内町を担当されていた高橋さんがこう言っていました。この本に出てくる花塚さんと言う方は湯津上村の村長さんの家のおばあちゃんなんですが、この場合もやはり最初は仲良くならないと、普通の調査みたいなことではなかなか出てこないみたいで、何回か通って、やっと話す気になってもらったという形みたいです。
 次世代に残す本という事で、そういう性格のものにしていきたいですね。また、こういう本が読まれて活用され、それこそ学校とか一般の婦人のグループとか、農協の婦人部などの料理コンクールとかがありますよね、そういうようなところで現代的にアレンジして地域地域でそういうものを復活させてくれればと思っています。学校などでも給食などに取り入れたりとか、まあそういう動きはありますよね。給食に郷土料理の日というのがありますけれどもね。

◆それは、その土地の忘れられた物を出すということですか。
 やはり地域によってやり方が違うみたいですね。決まった物、例えば有名な『しもつかれ』を出すとか、そういうことを高崎などではわりと良くやっています。PTAでアンケートを取ったり、郷土料理とはどういうものかというところから始めて、給食を通してお母さん方に考えてもらおうという活動ですね。本来はそういうものだと思うんです。 ところが今は親と分離して、親が面倒くさいから学校給食にするみたいなことになっていますが、親自体も子供が給食で何を食べているのかに関心を持って、家庭の食事にも反映していく、そういうものになっていかないといけない。給食は三回のうちの一回ですから、後の二回は家庭なわけですからそこがしっかりしないと、昼だけ一応栄養的によいもの取っても良くならないと思うんですね。

◆栃木の食事料理ブックみたいなものが出来るといいかもしれませんね。

 そうですね例えば、ばあちゃんとね、「このドジョウの卵とじというのどう作るの」とか、当時はどうだったとか家族でその話が出たり、はたまたじいちゃんの自慢話がでてきたりとかすれば家族をつなぐようなものになるんです。
 今のパック入り食品では、みんな味が同じですから、そこから話はなにも広がらないですよ。 農業問題でも、生産者と消費者の対立関係みたいなことになっていますけれども、本当はそうじゃなくって、やぱり農家も安全ないい物を届けたいと思っているし、消費者もそこは一緒なはずなんです。それが安いとか高いとかという事だけになってきている。

◆これからは『食』というものがどういうふうに変化していくとお考えですか。

 今の流れとしても、反省というものがなされてきていると思います。ただ今の食品は手っ取り早いものが多いですから、これをすぐ止めるというような事は難しい。ただ郷土料理そのものへの欲求が強くなってきていますから、これからは伸びていくと思います。一方で外食産業の方も郷土色とか、おふくろの味だとかで作ってきますからね。 同じものは出来てくると思うんすね、郷土料理のパックとかね。それとはべつに、料理人の方が各県の食事を買って勉強します。やっぱり郷土料理も飽きられてきていますから、なんか新しいものを作っていかなければならないし、原点というか庶民の味というかそういった意味で専門家がこの栃木の食事を注目している。料理の良い所と言うのは、農業もそうですけれども、工場の労働というものは決まった物が生産されてくるけれども農業というのは分からないですよね。毎年どうなるか分からないし、自分が手をかけたらかけただけ実ってくる。料理だって出来ないという人はいないけれど下手な人と上手な人とは違うし、また次回作れば違うし、今度はこうやって工夫してみようかとか、そこがやっぱり楽しみだと思うんです。

◆最近は、グルメブームという事ですけれども、味噌とか醤油あるいは豆腐といったものでは、昔ながらの手法で添加物を一切使わいないといったものがうけていますね。

 ある程度、年輩になると、自然に体がそういうものを受け付けないようになるんです。インスタント食品みたいなものの類ですね。だけど子供達や若い人達はそういうものにずっと汚染されて来ているから、本当の味というのが分からなくなってきている。

◆みそ汁のだしにしても、『〇〇だし』とか言って、簡単に取れるものだからちゃんとしただしを取らなくなって来ている。
 やはり、小さい頃に食べた物というのは基本ですね。ところが今の子供は「これが本物の味だ」と言っても分からないですよね。保育所などでも、食べ物の事を見つめていこうということが出てきていますね。やはり、小さい時の味覚というものを大事にしたいですから。
 それから今、子供のアトピーを取りあげていて、単行本も出しました。群馬大の松村先生という方に書いてもらったんですが、これが農文協の六十三年度のベストワンなんですね。年間百点くらい出版するんですが、第一位がそれで、『食品添加物とつきあう法』というのが第二位、『国産小麦でパンを焼く』が第三位なんです。
 埼玉で行われた農産品フェステバルで、本の即売会があったんですが二十代から三十代の女性の方は殆どといっていいほど手に取って読んでいました。数字上は分かるんですけれども、実際に反応を見てみるとすごいものだなと、思いました。そういうことで悩んでいる方や、回りにそういった問題をもっている方とかそれぞれですが、潜在的アトピー性皮膚炎の子供は、統計で乳幼児の今四割くらいだということですね。それだけ問題になっているということですね。
 あらゆることを使って教育家はそういうことを訴えていかなければいけないと思いますよ。次の国産小麦なども農家を守ることだし、パンにしたって自分の所で焼けるし、日本の小麦がまずいということじゃないんですね。そういうことで、活動してきたものですから、今年の小麦の生産も百万トンを二十年ぶりに突破したんです。

◆国内産小麦が注目されたといことですね。

 やはり、やる人も少しづつ出てきていますし、農文協も増収の技術を雑誌などで訴えていこうと思っています。国内で作れるんだということと、やっぱりそれを喜んでくれる消費者もいるんだと言うことを訴えていくということです。

◆グルメブームの火付け役と言われる『美味しんぼ』というコミックが売れていますし、最近ではTVで放映されています。グルメブームの中で『食』というものが注目を集めていると思いますが。

 わりと、マンガなんかからしても食べ物の問題というのが一番関心が強い。だけどどこから、どういうふうにしていくかということが分からなかった。そこへ、アトピー性皮膚炎の問題がでてきて身近な問題として若い人が関心を示すようになったということですね。しかも、三十年代からですからね、アトピーというのが出てきたのは。

◆花粉症もそうですね。戦前はなかったし、なんか戦後になって高度経済成長期をむかえておかしくなってきてしまった。

 輸入農産物の問題もあるだろうし、食品添加物の問題も大きいだろうし。そういう意味で、栃木の食事は、大正から昭和初期の食事ということなんですね。この時期は昭和の二十年代とも、高度経済成長の三十年代とも違う。自然の中で、地域もそんなに物が流れているという時代じゃないですから、地域で取れた物を使っていたわけです。
そこに原点を見ようということは大事な事だと考えますね。

◆グルメブームも行き着くところは昔ながらの味ということが言えますね。
 今日は、どうもありがとうございました。


こならの森 8号

2008-03-16 | 創刊~100号
     1988年 12月発行

C O N T E N T S
1p  看板娘/目 次 
2-11p [特集]年末年始情報
12p  タウン・スナップ/人物紹介
14p つれづれインタビュー
16p 僕の好きなMONO18p としこのポエム 美容と健康
20P 結婚しました
22p タウンウオッチング 
24p きままにアウトドアー
26p 「センチュリー・ラン」
28p 情報コーナー

本文抜粋記事

「街角の肖像」 その3

 イカした車は、殺風景な街角の風景の中にも庭石のようにしっくりとおさまってしまうものである。『イカす』というのは、私の価値感だが、ちかごろやけに目立ってきた『みこし』っ面のラジエーター。あれはいただけない。車自体の存在を誇示するあまり、周囲の景観を損ねかねない。車はやはり車であって、脇役に徹してこそ、イカすのである。

23p
サークル紹介     
「安蘇史談会」
 毎月、第一木曜日(城北地区コミュニティセンター)と第三水曜日(植野地区コミュニティセンター)を会場に、安佐の歴史愛好家が集まる。現在、会員は三十代から六十代まで二十名ほど。このタイプの会としては、異例な、『史談』という百五十項にもおよぶ会報を年に一回発行している。また、年に一度功名な講師陣を招いて歴史講座を開催するなど、幅広い活動は各方面で高い評価を得ているようだ。 毎月の例会では、盛んな意見交換がなされ、情報交換の場となり充実した時を過ごすとか。そのためか皆例会日が来るのを楽しみにしている。ほかにも日帰りの見学会などを行い会員の親睦、交流もかかせない。郷土を愛する人は、どなたでもぜひ参加して欲しいとのことだ。入会希望の方は@24・3232(大高)か@23・0581(京谷)まで



こならの森 7号

2008-03-15 | 創刊~100号
     1988年 11月発行

C O N T E N T S
1p  看板娘/目 次 
2-5p [特集]それぞれの秋………
8p  タウン・スナップ/人物紹介
12p つれづれインタビュー
14p モータースポーツ
16p タイムスリップ
20P 結婚しました 
22p タウンウオッチング
24p 僕の好きなMONO
26p 「センチュリー・ラン」
28p 情報コーナー


本文抜粋記事

つれづれインタビュー
「シルクロードをゆく」米田 司さん


◆シルクロード以外にもたくさん旅行されたそうですが、初めてに海外へ行かれたのはいつ頃ですか?
◎最初が二十八才の時で、三か月間でした。二十三年前ですか立教大学のコーカサス遠征があったんですね山登りの。僕は旅行も好きでしたが、山岳部でしたしからなにより山が一番好きなんですね。
◆どれくらいの日数だったんですか。
◎三か月くらいで人数は八人くらいでした。それで、その時に、テルブースという山があったんです。黒海とカスピ海にはさまれた山脈の中なんです。それで山登りが終わって帰りに天津山脈に寄ったんですね。天津山脈にアルマータとかフルンデとかがあるんですが、それを旅行したのが一番最初なんですよ。
◆二回目の時は。
◎その翌年に二十五日間くらいでしたが、今度はエルミタージュとかレニグラードを回ったんです。ソビエトを半周くらいしました。もうレニグラードは、最高に奇麗な街ですよね。
 それで、帰ってくると一週間して、アメリカへ行ったんですよ。その時はおもしろかったですよ、社会主義の国から、すぐに自由主義の国へいったわけですから。いろいろ見方が変わって良かったです。
◆パスポートとか、ビザ等や共産圏に入る事の制約というのはどうでしたか。
◎最近は緩くなったけれど、その頃は(今でもそうなんですけれど)日ソ・ツーリスト・ビューローというのがあって、ようするにソビエトの代理店で、そこへ申し込むわけですよ、自分のスケジュールを言うわけですね。
 中国も同じで、それを本国に送って向こうから許可が下りるんですね。そうすると行って良いことになるんですよ。
 その後、個人でも行けるようになったので、息子達とかひとりで行くようになりました。  三年前くらい前にダイリという街へ行ったんですよ。マルコポーロ東方見聞録を読んで、そこに出てくるダイリという街へ行って見たいと思ったんです。 そのあとレイコウという街へ行きたかったんです。楊子江のほとりにキンシャコウという街があるんですよ、そしてそこへ行くとギョクリュウセツザンという六千メートルの山があるんですよ。僕はその山が見たいわけですよ、そこで交渉するんですが、そこまでビザをとっていなかったのでいくら言っても駄目だったですね。
 最初、シャンハイからコウシュウへ行って、コンメイへ行ったですね。それで、ガイドと運転手を雇って三人で行ったわけですね。約六百キロあるんですよ。途中、途中休みながら行くと、そこで青年商店というのがあるんですね。いっぱいあるんです。それで青年商店というのは何かと思って入って行くと、なんて事はない普通の商店なんですよ。ガイドに聞いたんですね。そうしたら、待業青年がやっている商店だっていうんですね。
 聞いたことありますか。
待業というのは仕事を待つということで、ようするに仕事がないやつだというんですね。おやじさんから金貰ってそれを持ち寄って、ペキンとかシャンハイから物を仕入れてそれを売っているんだというんですね。「これじゃ、資本主義とまったく同じじゃないか」というと、そうじゃないというんですね。そういう連中は職がないから待っているわけですけれど、食わなけりゃならないからやっているわけなんですよ。
 「就職はどうするんだ」と言うと・・・たとえば、堀米町から何人、若松町から何人というぐわいで割り振りが来て、試験やるんですね。それで、受かれば採用される。
 「いつも試験に落ちる奴はどうするんだ」というと、ドブ掃除とか、セメントの袋折りとかそういうのにしかならないというんですね。
 「そんな馬鹿な話ないんじゃないか」と言ったら「努力していないからしょうがない」というんですね。
このあいだの映画、敦煌じゃないけれど昔から試験制度が発達していますからね。そういうふうになっているんです。
 そこにいた彼は、夜になると独学のすすめなんて本を読んでいるわなんですよ。そして、日本の案内文を書いているんですね。それを約して書くわけなんですけれど、間違ってたら直してくれなんて私の所へくるわけなんですね。ものすごい、勉強家でね。
 あとで、待業青年の話をシャンハイで聞いたら五十万とも百万ともいうんですね。それも、シャンハイ地区だけなのかはっきり聞かなかったですけれど。あまり、良い顔で教えてくれなかったですね。
◆一番印象に残る街とかは?
◎やっぱり自分で一番初めに入ってた国が一番好きですよ。たいがいそういう風に言うんじゃないんですか。ソビエトなんか堅い国だと思うじゃないですか、それが、まったく明るいんですよね。音楽とか、そういった文化がね。あと、キムチなんかもありますね。向こうのキムチは甘かったですがね。それから《うどん》。中国が発祥地でしょう。けっこういろんなものがあるんですね。
 コーカサスなんかもどこでも同じでしょう都会を見る分には、例えば、ペキンだってシャンハイだって・・・。都会見たんじゃおもしろくないですよ。田舎ですよねやっぱり。特に、パキスタンとか、インドの北とかへ行くとそこの人は、彼らなりに生きていて、また僕たちの文明とかいうのを拒否しているようにみえますよ。ただ、そこに万年筆が入った、ライターが入った、車が入ったというよう話であってやっていることは(昔と)同じでしょう。見かたが個人個人で差がありますけれども・・・。
資本主義の社会だとどうしても儲かると思えば、道路を作って入れるとかしますね。
◆後の事など考えずに、とにかく通せば便利というぐわいですね。
◎ええ、そういう意味でかなりインドなどは変わって来ていますよね。これからも、中国などは、シルクロードへたくさん人が行くようになると変わるんじゃないかと思いますよ。一番心配しているのは敦煌です。あまりに人が入るんで、壁画などがそうとう傷むんじゃないんですかね。だから、話によるとこれからはレプリカを作ってそれを見せるようですね。作家の井上靖が一番奇麗だと言った菩薩など、見せないんですね。だから僕らはガイドにチップはずんで、中は暗いですから懐中電灯で(みんな明るくして見るんじゃないです)見たんです。みんなそれで見るんです。それも、朝が一番がいいっていうんですよ。扉が締まっているでしょう、そうして日が差しますね、それで見る壁画とか、仏像が一番いいんだっていうんです。僕らは朝早く行ったんですが、分からなかったですね。
 とにかく敦煌は圧巻です。
◆シルクロード中では最高ですか?
◎ええ、すごいですよ。本で読んだり写真で見たり、テレビで放映したりしましたが、行ってみたらさすがと思いました。あとは、たいしたことないですよ。 佐野でも、ユネスコ主催でシルクロード展をやるそうですが期待します。うまくいけばいいですね。 
 次回につづく


こならの森 6号

2008-03-14 | 創刊~100号
     6号 1988年 10月発行

C O N T E N T S
1p  看板娘/目 次 
2-5p [特集]国際交流してますか
8p  タウン・スナップ/人物紹介
12p 韓国語・英語・日本語 教室
16p 結婚しました
16p つれづれインタビュー
18p きままにアウトドアー
20P タウンウオッチング 
22p 玄人語り「小森好子さん」
24p きままにアウトドアー
26p  僕の好きなMONO
28p 情報コーナー

本文抜粋記事

■特集 国際交流してますか

真の国際人として

 現代は正に国際化社会であると言われているが、国際人と言うと外交官を思い浮かべる昔と違って、しばしば外国へ出掛ける人のことまでを言うそうである。おまけにそれが今やファッションと化している。どうも外国旅行をすれば国際的になれると信じこまされているようだ。手取り足取りのお任せ旅行では、三六〇度のパノラマスクリーンの中にいるようで、これでは英語を話す必要性も国際交流をするチャンスもない。
 佐野市でも在住する外国人が百人以上にもなるという。もう今や一部の人がやっていればよいという段階ではなく、日常的な感覚と態度で付き合えるようになる必要があると思う。
 海外旅行は本人に取って大きな収穫となる重大事件だが、国際理解という観点からみるとほんの一部分にしかすぎない。自己の考えで外国人と交流して行くことではないだろうか。自分自身の問題として。

ホームスティのすすめ
 国際化とか、国際理解などとむずかしく考えてしまうのが一番いけない。難しくなるばかりだから、もっと身近に国際交流を考えてみるとホームスティをして直に肌で触れ合うという事が一番。それも、海外へ出て行く時間も余裕も無いという向きには反対に受け入れを・・・。とは言っても最初は大変そうに見えるので殆どの人が断念するようだ。しかし、そうも言っていられない時世。一億総国際人の今では、当たり前に成りつつある現象だろう。特に、国際交流とか、国際化をなどと口にする人はぜひともチャレンジを。 外国青年招へい事業とか海外派遣友の会とかいう団体があり一年のうち、とにかく何かやらなければいけないと日頃思っているのでそういう人達となかよくなるのも一手。 年に一度は県や国あるいはその他の団体からホームスティの受け入れのお誘いがあり、何かやりたいと言っている言葉とは裏腹に断るのに賢明な人達ばかりだからきっとチャンスがあるはず。だが今年の佐野市のように、県全体で二十五名なのに、四名も名乗りを上げるなどと言う時には無理かもしれない。
 うちは家が狭いからとか、言葉が通じなくてという人でも、(たいがいそういって断るのだが)大丈夫。こんな人の例もあるのだ。2LDKのアパートにホームスティできた夫婦と自分達夫婦の計四人で二週間も生活したとのこと。それも、両夫婦の部屋はふすま一枚だけというありさま。プライバシーもへったくれもない。さすがにこの時ばかりは、疲れ果てたらしい。(お陰で「こならの森」創刊が一カ月延びてしまった。)

食事
 「米国人というけど、まさかお米は食べないでしょう。」とか、「お刺身は駄目なのよね。」とかあれやこれやと悩むのがこれ。しかし、ここは日本だと居直ったほうが得。言葉にしても、だれか分かる人を探して来なくてはなどと、《過保護》にするのが一番いけない。日本に来るなら日本語を勉強するのが当たり前、下手な英語で通じなかったら後はもう知らない。おまえが悪いと思うぐらいでないと、長期戦には絶えられない。
 近所の人の中には、カルチャーとか、国際理解にはまず英語とか言って(何も分かっていない)英会話を習っていて、話すチャンスに飢えている人が一人や二人はいるはず、そいうひとにまず目を付けて置こう。
 話がそれたが、まずお米のごはんを中心に据えよう。一人だけ違った料理を作るなどというのでは面倒だし、第一なにしに来たのか全く分からなくなってしまう。それでも駄目だと言うのなら、コンビニエンスがある。 そして、団らんの時間は、やはり日本茶を出すのが正式なやり方と思う。

風呂
 短い間なら問題が無いが(入らなければいいのだから)長期間になると、ややこしい。ちゃんと説明しておかないと大変なことになってしまう。欧米人は一度浴槽に入ると水を抜いてしまう習慣だから、次に入ろうと服を脱いで飛び込むとけがをするどころが、空焚き。なんて事に成りかねない。そこまで行かなくてもポリ浴槽をダメにした例もある。

宗教
 信仰を持っているひとなら問題はないが、多くの日本人はこの宿命に泣く。
 宗教を聞かれて、仏教とまで答えたはいいが、そのあとそれなのに何故神社へいくのか?と聞かれて、唖然としたと言うことを良く聞く。先方からすれば、信じるものがないと言うことは人間と見なさないという人もいるくらいですから。日本人の宗教感についてしっかりと説明出来るようにしておきたいもの。



こならの森 5号

2008-03-13 | 創刊~100号
     5号 1988年 9月発行

C O N T E N T S
1p  看板娘/目 次 
2-5p [特集]かくして夏が終わり
8p  タウン・スナップ/人物紹介
12p 韓国語・英語・日本語 教室
13p 結婚しました
16p つれづれインタビュー
18p としこのポエム 美容と健康
20P タウンウオッチング 
22p 僕の好きなMONO
24p きままにアウトドアー
26p 「センチュリー・ラン」
28p 情報コーナー


本文抜粋記事


■僕の好きなMONO

 「ジッポー」

 第二次大戦後ジープとジッポーをG・I達が持ち込んだといわれる。現在はライターといえば百円ライターつまり使い捨てライターの時代であり、日産二千万個とも五千万個ともいわれ近頃はやりのDRYな使い方がされている様だ。それに対しこのジッポーライターは半世紀以上もの間、デザイン、機能を変えることなく世界中で愛好されている。百円ライターはタバコ屋さんで売っていて喫煙具というイメージであるが、このジッポーは生産される四〇パーセントは企業マークやメッセージに利用されているというたとえば、クラブ、サークル、結婚記念、事業記念、有名人等はロゴやメッセージを入れ名刺がわりに作るという、実用性はもとより耐久性に優れている為に年月と共に価値が高まる様である。このライターを買うと必ずケースの中に保証書が入っていて永久保証を明記して有り何回、修理しても無料である。このシステムはデザインや機能を半世紀も変えなかった様に現在も守り続けている実にトラデショナルなのだ。売りっぱなしほったらかしの日本企業とは違うところだ。(例えば清涼飲料自転車等、吉沢輪業の自転車は違うが。)洋服でいえば、Jプレスやブルックスの様に、一つの洋服を買って本人が着て、子供が着て、孫が着るJプレスは国内ライセンスでオンワードが作っているから、だめだろうしブルックスの354は大同毛織ニューヨーカーだから無理だろうがブルックスのウオンメークはブレザーでも十万円前後するけど今でも大丈夫だろう・・・・。
 洋服の話はともかく、ブルックスに通づるものが有る。創立当時の修理の為に所有者は1セントたりも費す事があってはならないという社の誓いは守り続けられいる。ある人は二十年間ジッポーを愛用していてこの間三度、修理してもらい、四度目の修理の修理の時に1ドルを同封してジッポー社に送った。修理を依頼されたジッポー社は、ゴールド・ジッポーと1ドルを送り返したという。永久保証というシステムがジッポーという名を広め、第二次大戦時G・I達のおかげでアメリカから世界中に広がった、その後も朝鮮戦争やベトナム戦争で大いに使用された、そして多くのエピソードがある様だ。三十数年前のジッポーにオイルを入たらジュパーと赤い炎がついたとか、魚の腹から出てきたジッポーが一発で着火したとか、ベトナム戦争で胸ポケットに入れていたジッポーでベトコンの弾丸を食い止めたとか、ヘルメットの中でスープを暖めたとか、実にこのライターには話題が多い。これは故障が少なくいつでもどこでも確実に火のつくライターだからだろう。このライターの誕生は一九三二年アメリカの大恐慌の事、オーストリア製のライターから始まる。タバコを吸おうと友人のライターにづいた。そのライターは火をつける事にカバーをはずす使いにくい代物だった。友人は動けばいいと答えた。このことからこのライターは生まれた。まずケースを持ちやすい長方形に変えちょうつがいでカバーを付け、芯の部分を風よけで囲んだ。これからウインドライターと言われる様になる。近頃ジッポーに似た物が多く出ているがこれらは差し詰めコピーライターとでも言うのだろうか。
  
 僕はタバコは吸わないが、スポーツトレインの赤・白・黒のデコイをデザイン化しロゴの下に山を配したライターが気にいっている。スポーツトレインといってもピンとこない人もいるかと思うが一三年、四年前のアウトドアーブームの時の原点の店といってもいいと思う。当時の、マンパやディーパックなんかほとんどこの店から広まった様なもので、間口はあのボートハウスと同じで、一間位しかない小さな店で青山墓地のところにある店なんだけれども・・・。楽しい小物がいっぱい有って、今でも覚えているけれども、店の軒先にほうきの先の部分みたい物が一本あったので聞くと、その物体はその日の湿気によって天気が分かるそうなのだ。なんでもアメリカインデイアンの一部が利用していたそうだ。でも自分にはどうしても普通の枝切れにしか見えなかった。その店であの頃めずらしかったバードコール等を買ったものだ。この店のオーナーは後に、黒沢映画の「影武者」に出た人と言えば分かる人も多いかもしれない。その店のライターが数個は有る様だ。百円ライターがタバコならジッポーはアウトドアー、ジッポーのオイルの臭いが嫌いでオイルに好みのコロンを入れて使うなんて人がいる様だがやはり、このライターはIT WORKSがいいと思う。


こならの森 4号

2008-03-12 | 創刊~100号
     4号 1988年8月発行

C O N T E N T S
1p  看板娘/目 次 
2-5p [特集]夏だアウトドアー
8p タウン・スナップ/人物紹介
12p 韓国語・英語・日本語 教室
13p お店紹介
17p 結婚しました
19p 美容と健康
20P タウンウオッチング 
22p 僕の好きなMONO
24p 「センチュリー・ラン」
28p 情報コーナー


本文抜粋記事

【美容と健康】

老いを楽しむ 
 リズム体操指導者 山田喜美江

 健康ですか
  「健康」 とは、誰もが望む 「幸せ」 の条件だが、私の元にもいつまでも動ける健康で美しいからだ作りを目指し多くの御婦人方が集まって来ます。
 「無理は禁物」 私は常に、指導の中でこう申し上げています。手抜き、多いに結構だとも・・。 何故ならば、 人間のからだはよく出来ていて、 手入れをしながら使うと手入れどおり動いてくれるものだし、 その反対にかなり無理な行動をしても 「恒常性維持機能 (ホメオスタシス)」 が働いて復元する様になっているからだ。 だが、 年とともに、この機能作用も低下し、 若い気だけではどうにもならなくなる。 では老若の違いはと言うと、おかしな言い方ですが、若いうちには、複雑な老年を生きる資格も才資もないのです。自分の体の自由がきかなくなったり、記憶力が悪くなったり、美しい容貌の人が醜くなったり、社会的地位を持っていた人がそれを失わなければならない事によって、後に唯残るのは、自分の気力と本当の徳の力だけというような事になったら若者らはとうていそれらを耐える力は無いと思われるのです。そしてそのような老年の条件の中で、多くの人はその人なりに成長します。つまり幕末の儒学者として名高い佐藤一斎によれば、三十才迄は視、さらに進んで五十才迄は観、その上に年輪を重ねて七十才迄は察の時期ではあるまいかとのべ、更に察の時期にその天命を知り、心鎮かな境地に達し、人は皆 「見るな視よ、そして観よ、察せよ」 と言志四録で書きしるしている。なんの事はない、昔も今も健康の価値感と、骨組みは変わらない年相応に人に率直に、自分に正直に、心も体も健康に・・・・・だと思う。




創刊3号

2008-03-11 | 創刊~100号
     創刊3号 1988年7月発行

表紙の人 右から亀田さん、武藤さん、米山さん

C O N T E N T S
1p  目  次 
2-5p [特集]東武佐野線沿線を行く
6-7p タウン・スナップ/人物紹介
8-9p 僕の好きなMONO
10p つれづれインタビュー「佐野らーめん会会長」
12p ミサコ&クリサナのタイ語・英語・日本語 教室
13p お店紹介
14p 協賛店マップ
17p 結婚しました
18p アウトドアー
20P 漢方
21P 美容と健康
22p 芝居三昧
23p コーヒータイムその3
24p 職人語り「土鈴」山口壬三さん
26p 「センチュリー・ラン」3回 作・大川 圭吾
28p 情報コーナー
32p こなら通信


■本文抜粋記事

つれづれインタビュー
佐野らーめん会会長
古沢幸一さん

当時はらーめんが五〇円だった
◆お店はいつごろから始められたんですか?
『古沢』 三七年の八月四日に金井上町に開店しました。当時はらーめんが五〇円だったんですが一〇円引きで三日間サービスしましてね。
◆それじゃ開店から大忙しだったでしょう。
『古沢』 エエ、マァそれがうけたんですが、出前が出ちゃうと、とにかくどんぶりがたりなくなっちゅうわけですよ。今日売って儲かった分で五〇枚買ってくるか、三〇枚買ってくるか・・・(笑)。本当に忙しい開店時期でしたが、無我夢中でしたからね。
◆修業時代の思い出は?
『古沢』 そうですねぇ四年間修業しましたが、昔の主人ていうのは、なかなか手をとって教えてくれないんですよ。出前がほとんどで、それがない時でもネギの皮むきとか、メンマ切りとか、スキがないんですよ。メシ食うひまもないくらいでしたから。
◆まともには覚えられないですね。
『古沢』 そう、ネギ皮をむきながら、そっとそばぶちを盗み見して(笑)、その内「覚える気があるか」と聞かれましてね、それでも昼間はできないですから。
◆というと?
『古沢』 朝の八時から夜は十一時まで仕事でしょう、その間は給料もらってるわけですから、そばぶちなんてとんでもないわけで、仕事の後、主人と若い衆の白衣と前掛けを洗濯して、残り火にメンマをかける。早くても家に帰るのが一時くらいになっちゃうんですよ。そして朝は、五時ごろから起きだして八時ごろまでに店でそばをぶちあげる。それで段々慣れてきたんです。
◆そうした修業時代の経験から、ズバリ古沢さんのらーめん哲学はなんですか? 
『古沢』 やっぱりお客さんの声ですね。お店のお客さんより出前のお客さんの方がハッキリ言ってくれるんですよ。
◆今日のスープはどうだったとか。
『古沢』 そうそう、店のお客さんはどんぶり下げに行くと必ず直に跳ね返ってきますからね。
◆ところで古沢さんがらーめん会を始めたられたキッカケは?
『古沢』 会の話しが始まる前に、組合の親睦旅行で喜多方へ行ったんですが、あちこち食べ歩きして、いろいろみてきまして・・・・。
◆らーめんの先進地ですね。
『古沢』 エエ、そこでこれからの自分達の商売のことやまちづくりを考えさせられましてね。そんな時に、たまたま市長さんから市の活性化に役立つ目玉は無いかということで、商工課長さんを通じてお話しがあったんです。それではということで、仲間が発起人になって会議所さんや、商店連合会、観光協会が前向きに協力してくれて、会づくりの話しがもり上がったわけです。
◆最後に古沢さんのが佐野市に望むものは?
『古沢』 そうですね、佐野の人がもっと開拓者精神というか冒険心をもってほしいですね。結果を怖がって、何もしないのではなくて、前向きにやってみる。そういう事がよくても悪くても、地元の活性化につながると思います。
◆その通りだと思います。今日はどうも有難うございました。


創刊2号

2008-03-10 | 創刊~100号
       創刊2号 1988年6月発行
表紙の人
駒場 賢一さん・佐智子さん

C O N T E N T S
1      目   次 
2-7   [特集]いい結婚がしたい
8-9    スナップ
10p   人物
11p   タウン・ウオッチング
12    ミサコ&クリサナのタイ語・英語・日本語 教室
13p   こなら百景/タイムスリップ
14p   看板娘=田中
15p   としこ ピーナツ
16p   モーター・スポーツ
17p   芝居三昧
18-19p アウトドアー
20P   漢方
21P   美容と健康
21P   コーヒータイム 2回
22   「センチュリー・ラン」2回 大川 圭吾
24    お店紹介
27P   結婚しました 
28-29P 佐野市文化会館情報/
30-31  行事カレンダー
32P   協賛店・会員一覧


特集記事
 いい結婚がしたいと考えるのは誰しも同じだが、思った事を実行に移すのは容易な事ではない。一口にいいと言っても千差万別で抽象的ですが、ともあれ結婚前の人には憧れを、結婚を控えたカップルは参考に、そして、既婚者と婚期を逃した人(失礼)にはやっかみを込めて探ってみましょう。
 式が終わるとたいがいの人は、「結婚なんて一度でたくさん」「なにがいいかって、 そりゃーやらないのが一番いい。」と冗談ともつかない感想をもらす。
 しかし、そう言ってしまえばおしまい、話にならないのでまず「こならの森」流結婚式の提案をします。(あくまでモデルプランですのでこうすれば[いい結婚]という事ではありません) さてその前に、 通らなくてはいけないのが結納というもの。  そして、「身代金」とか「保釈金(箱入り娘を箱からだしてもらうための)」といわれている結納金だ。 ひと頃は、 給料の三倍というのが相場でしたが、聞くところによるとだいたい二〇〇万円くらいが満足な数字とか。決してこれでなくてはいけないと言うことではないが、これ以下だとあげる方も、貰う方も対外的に公表しないようだ。
一口に二〇〇万といってもボーナスもつぎ込み、まるまる一年ただ働きという数字。だが雑誌などをみるかぎりは東京あたりの相場が五〇万円くらいという。ある人は、給料の三倍ということをまにうけてそのままの金額を払ったということだが、後で花嫁はもとより回りのひとからのひんしゅくをかったとのこと。きちょうめんすぎてもいけないが、見栄をはって限界を越えるのもどうかと思う。
 次ぎに挙式だが、形式はどうあれ、より多くの人に見守られてを原点に披露宴の最初にもってくるのはどうだろうか。当然、厳粛ななかに執り行う事が前提。 当初花嫁はキリスト教式で、 ウエディグドレスが絶対着たい。テレビドラマのように海外でやりたいという願望が強いが、具体化してくると日本人であることに回帰するらしい・・・。


 県内有力首長を祖父に持つ人の場合。結婚当時二二才。恋愛結婚、現在二児の父。
[結納]有名旅館において執り行う。両家合わせて五〇名ほど出席。古式に則り行われ、会食も含めて六時間近い日程。これだけでも、ちょっとした結婚式・披露宴のようだ。結納金の額は平均の二、三倍を越える。ダイヤの婚約指輪は新郎が買い求めたものとのことで、そう高価ではないとのこと。
[挙式]
一般的な神前式。
[披露宴]
県内でも最大規模を誇るホテルにて四〇〇名近い出席者。(一人では自分の席がみつからず、一度席を立つとなかなか自分の席へ戻ってこれない)
 各地の有名政治家をはじめ、助役以下の職員が一堂に列席。来賓、恩師他のあいさつが延々続き、乾杯に至るまでに一時間近くかかる。ドライアイス、スライド上映、ビッグサウド、レーザー光線、テクニカル照明など考えられる全てのものを使った豪華な演出。余興も盛りだくさんで、三回のお色直しをはさみ延べ四時間の大宴会となった。 最後に、ホテル前に停めてあった純白のオープンカーで出席者に見送らながら駅まで向かって終わり。料理もさることながら引き出物も豪華、ひとりあたま二万円前後するとしてしめていくら、と計算したくなる。ちなみに衣装代だけでも百万円は越えているとのことだ。
[新婚旅行] 
今までと打って変わって香港五日間と実に質素。この辺が二人の本音かもしれない。
 出来る限り、親のお金をあてにせず、二人でためたわずかばかりの資金で手作りの結婚式を目指した。さて、結果は・・・・。

創刊号

2008-03-09 | 創刊~100号
創刊号(1988年5月発刊)

表紙の人 飯塚典子さん
■表紙撮影協力 ヘアータイム「M」

創 刊 号  C O N T E N T S
1      目 次 
2      [特集]安佐ぐるっと一周峠越え
6      フラッシュ・ショット さくら さくら
10     タイムスリップ「安佐の駅」
12     ミサコ&クリサナのタイ語・英語・日本語 教室
13     サークル紹介「レッツ・ダンス」
14     タウン・マップ「らーめんマップ」
16     おぞね としこのポエム たんぽぽ 
17     タウン・ウオッチング 丸ポスト
18     アウトドアーのコーナー
20     お店紹介&ぐるめーる
22     「センチュリー・ラン」大川 圭吾
24     モーター・スポーツ 
       美容と健康 珈琲タイム
26     インフォメーション 
       私たち結婚しました。境沢
28     佐野市文化会館情報/
30     情報カレンダー
31     協賛店・会員一覧


■本文抜粋記事■

きままにアウトドアー

こいでも、こいでも 痛快エッセイ

「今日はカヌー屋さんです。」
    中村 公也

 「カヌー?このあたりでやる所あるの。危なくないの。あんな凄いことやる気しないね。」
 店から一歩外に出ればこんな会話がほとんどですね。カヌーが今ブームになっているようですがまだまだ一部の雑誌や数少ない人達の中だけの話です。
 テレビからの影響がかなり強いし、スポーツ競技の分野に属するのでしょうか放送されるものはかなり高度なスラローム競技ばかりですから、無理も無いことだと思います。
 そんな訳ですから当然我が「滝川カヌー」のドアを開けていただけるお客さんは大変少ないことになります。早い話、・・・・・・・お金になりませんね。 来ていただける方はお客さんなのですが、自分自身に店主としての自覚がありませんので、数少ない「仲間」であると思って接しています。
初めてカヌーというものにふれた時、初めてカヤックに乗った時に今までに無かった何とも不思議な魅力が感じられたのです。
 動機は不純です。何度も都内のカヌーショップを見て回る内に、あるカヌーショップの店主ととても気が合ってしまい、店主いわく 「飯は食えないが、おかずぐらいなら何とかなるョ。」この一言でカヌー屋になってしまいました。人生って簡単ですね。
 カヌーに乗りたい一心で、「カヌー屋になれば毎日カヌーに乗れる」軽薄としか言いようの無い動機です。 (次号につづく)
 「前からやってみたいと思っていたんだけれど・・・・。」 そんな「仲間」が店に来るたびに、まず乗ってみてから「話をしましょう。」と言う段取りになってしまいます。時間があれば近くの渡良瀬川まで付き合ってもらいます。「面白いか、面白くないか」本人に判断してもらう事にしています。だから初心者にはカヌーが欲しいと言っても一度乗って貰ってからでないと売りません。
 私自身カヌーに惚れてしまったせいか、この素晴らしさをいろいろな人達に知って貰いたいと思っている。だから、一時の流行や興味本意のスポーツではなく、日常生活の中の遊びの一部としてカヌーを定着させたいと思っているのです。
 「遊び」で良いと思っています。そして、「楽しくなければ」やらなくていいと思います。
 仲間どうしのツーリングやイベントをと言う声もそろそろあるのですが、今はまだそこまで考えていません。今は地道にいろいろな人達にカヌーと出会える機会を広げたいと思っています。
 第一に身体障害者の人達に、特に車椅子の生活をしている人達に、何とか利用してもらえないものだろうかと思っています。
 最近の障害者のスポーツもテニス、バスケット、ソフトボールなど多方面にわたっていますが、その多くはハンディを背負ったままの、障害者同志のガラス越しのスポーツだと感じます。 ごく限られた障害者の人達にしか出来無いかも知れませんが、車椅子を操る人一倍強い腕でバドルを握り、川を湖を、そして激流を、魚のように、水鳥のように健常者とハンディを背負うこと無く自由にカヌーを操ることが出来たならきっとそれまでの視野から「新しい世界」を感じ取れると思うのです。
 同じ目の高さから同じ感激を自然に共に分かち合う事が出来たならきっと素晴らしいはずです。