■ ■■■■■ ■ 日刊 こならの森 ■ ■■■■■ ■

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東武佐野線沿線CITY-GUIDE 〔カテゴリーからお入り下さい〕

こならの森 26号

2008-03-27 | 創刊~100号

     26号 1990.6発行

表紙 武道館のところにあったアパート

2p…看板娘
3p…トピックス
5p…としこの童謡詩
5p…カラムコラム
6p…結婚しました
7-18p…特集「マウンテン・バイク唐沢山」
19p…モーター
19-20p…危険な道路15
20p…ヘリスキー
21p-24p…インタビュー山野井武夫さん
23-24p…コーヒー
25p…芝居三二十五回
25p…美容と健康
26p…コンサート
27p…絵本紹介/図書紹介
28p…街角/本10
29-32…情報/協賛店名
33p…子育て



【本文抜粋記事】

インタビュー

山野井武夫さん

■まちづくりに対する提案といった事について伺いたいのですが。

 何事も自分でできる事とできない事がありますね。外的な要因と内的な要因がある。ですがまず理想がない事にはそれに対して実現しようという努力も起らないだろうと思います。それをどういうふうに集約していくのか、その手法もそれから意見を発表する場や、そういった事のトレーニングも足らないのではないかと思います。
 それとは別に(佐野だけではないでしょうが)自分の意見を言うチャンスが比較的少ないのではないでしょうか。今は青年会議所とかいろいろな団体がありますから昔よりはまだ意見が反映されると思いますが、こういう狭い町ですと、いろいろな『関係』と言うものが出てきます。また話し合いとか意見を述べると言う事になれていない人もいる訳ですね。そうすると、「どうしておれに反対するんだ。」と言って意見を聞かない人が出て来るんですね。本来は反対するんではなくて考ええ方について話しあっているはずなんですが…。

 それから感情論になる事が多いですよね。もう少し冷静に、話し合いと言う習慣を日常の生活の中で身に付けていかないといけないと思いますね。学校の教育もそうですし、地域社会、例えば商工会議所とか、町内会であるとか、いろんなところで意見を発表したり、聞いたりする機会がある訳です。ですからそういう所が『開ける』と良くなるような気がします。それに、佐野の人はどこかシャイなところがある。

■良く言えばですね。

 手を上げて意見を言う事がどことなく恥ずかしい、そういう事もあると思います。意見を交換する中で良い道を探したり、自分の足らないところを考えてみて直したり、それで町作りが良く進んで行くと思います。佐野の商店街もインパクトがないですね。切瑳琢磨がなかったのではないかなと思います。
 一般に言われているのは、『商店が店舗にお金をかけない。だからおかしな業者がいない』というのですが、それによって商品に魅力がないという事でみなさんよそに買いものに行ってしまうのではないでしょうか。
 佐野は本当に暮しやすいところなんですね。昔から無茶苦茶な努力をしなくても食えたところでした。それがかえってあだになった面もあります。何が何でも夢中になって仕事をしなければならないところだと、相当な商人が出て、佐野だけじゃなくて関東地方に伸びて行ったでしょうからね。その辺が足利と違っている点でしょうか。
 比較をすれば、まず人口は倍ですね。それから、足利はいろんな面で層が厚いんですね。景気に左右されない人たちがいる。そのパーセンテージが高いですね。大学の先生とか、国とか県の出先機関、法務省を含めましてね。そういう人口が多いんです。そして文化的な遺産もずいぶん違う訳ですね。足利学校とか、鑁阿寺だとか。それと、やはり繊維関係が昔から良かったせいか、商権が広いんです。足利から育った企業も一杯あるわけです。学生でも全国から来ています。足利をリードしている人たちは、文化や歴史にも強いんですね。そしてその文化的なものを歴史を取り入れながら商売にうまく結び付けています。それを『がめつい』とは言わないんですよ。同じお金なら『喜んでいただけるもの』に利用するべきですからね。
 青年会議所の理事長の頃でしたが、山を呼んでも来ないならこっちから行こうという事で、駅を移動しようという提案をしました。その頃は、団地も暗礁に乗り上げている頃でした。今まならまだ土地も安い。駅を移動すれば企業も出て来るだろうと…。それから、佐野市の駅の前をずっと高架にしよう、といった提案もしました。
 佐野でも、例えば鉢の木に通じる人情だとか、水と緑と万葉という事から「水で有名な町」というふうにする。佐野市の鳥はおしどりですが、それをきれいな水で飼っているとか、各小学校にきれいな水と言う事を象徴させるようなものを置くとかですね。現実に結び付けたほうがいいんじゃないかと思いますね。
 人情の町というのは、私達の回りには子供達の小さな親切運動に教わらなければいけない事がたくさんある訳です。ですから、坪あたりの店舗の効率だとかいう経営の分析も大切な事ですが、本当はお客さんに『ありがとう』と心から言える店主であり店員でないといけないと思うわけです。それには、鉢の木に代表されるような人情を育てて行くことですね。経営がうまく行かないのは大型店のせいだと言うのだけではね…。

■他人のせいにしていると言う事ですね。

 そういう考え方が多いですね。町並をきれいにしよと思って街路樹を作ると、看板が見えなくなって、邪魔でしょうがない、と言うのではだめですね。それは一部の人の考えなんですから。ところが、それを回りの人が間違っていますよとは表だっては言わないんですよ。「あの人が言うのでは…」というふうになってしまうわけです。今度は低い木を植えましょう、とか他の話をすれば言い訳です。ところが偉い人が言ったのだから黙っていようとか、若い人が言ったどんな良い意見でも、生意気だなどと言うのではね。
 誰でも自分の住んでる町は良くしたいと思っています。ですが自分の事になると忘れてしまう。

■佐野の将来展望は明るいと思いますが、どうお考えでしょうか。

 もちろん明るいものだと思います。やっぱりこういう良いチャンスには、みんなが勉強してそれをバネにして活かすようにしないといけないと思います。後から考えてチャンスを逃したと言うのではいけない。ですからどういう良いものが来ても受け入れられるような日頃のトレーニングというものをしなければいけない。
 佐野にも貴重な体験をしている先輩が実業界にはいます。ですがそういう人たちとの接点がない。若い人も年輩の人も一杯いるはずです。もっと発掘していってほしいですね。

■文化面でいいますと、どうでしょうか。

 必ずしも谷間とはいいきれません。陶芸家でも田村耕一さんが出ました。他から来た人自慢する事が多くなったんですね。今までは遅れていましたからね。
 足利ですと、足利学校にゆかりのある事は昔からみなさんがある程度、知っている訳です。ところが、極端な話、佐野では(若い人の事ですが)数年前に博物館ができるまで田中正造といってもその業績を理解している人は少なかった。唐沢山に関する事もそうです。
 最近は郷土史家の活躍や歴史講座などを通じて理解を深めつつあります。ですからこれからはその層をより厚くして「佐野は良いところだ」ではそれにふさわしい街にするために、我々ができる事はなにか、というような事を歴史を通して考えていく。そういう事が大事ですね。
 町作りというのは残念ながらハード面ではないんです。住んでいるひとが大切なんです。道路で言えば、安全に通れるようにする事が最小限のことだと思います。少し店を削っても自転車を置くところくらいは作るべきだと思いますね。しかし私達はそれを理解して具体的にする事には弱いんですね。やはり行動に結び付いてこそ、初めてそれが生きたといえるうような気がします。

■どうもありがとうございました。


こならの森 25号

2008-03-27 | 創刊~100号

     25号 1990.5.1発行

表紙 ハルジオン

●目    次●
2p…看板娘
3p…キャベツ畑で
3p…カラムコラム
4p…結婚
5-18p…特集・三毳山
19-22p…トピックス
19-20p…コーヒー
23p…モーター
24p…アウト
23-24p…危険な
25p…美容と健康/芝居三昧
26p…本10/絵本
27p…本紹介
28p…街角の肖像
29-30p…情報
31-32p…協賛店名
33p…子育て


【本文抜粋記事】

特集・三毳山

 近くて遠い大自然『みかも山』。なにも大自然と大袈裟に書かなくてもと、という方もいると思う。確かに大滝があるわけでも、大渓谷があるわけでもない。コアラもラッコもカンガルーもいない。
 標高200メートルほどで山というより丘に近いし、カエデやナナカマドなどが多いわけでもないので、秋の紅葉はけしてきれいとはいえない。その代わり新緑の頃の素晴らしさは紅葉の比ではない。
 秋とは逆に、今年出た新芽が若葉になる前の一時に、山吹色や茶色の淡い色をつける。それが新緑、針葉樹の深緑、山桜と合いまって何ともいえない色彩のハーモニーとなる。しかし、この頃は雨も多く、芽吹きの期
 もちろんみかも山の良いところ、素晴らしいところは紙上ではすべて紹介できものではなく本当に秘密の場所がまだまだたくさんあるが、そういったものは人知れずだからこそいいのだし、心ない人達に踏み荒らされずにすむと思うのだが、二周年を記念して「こならの森」の読者には少しだけ紹介しよう。
まり残らないようで残念だ。
 ハイキングや山歩きが好きでない人でも、一度や二度は登ってみたことがあると思う。
 なにを隠そう、近くて遠いの真意は『こならの森』で一度も取り上げなかった、ということではないだろうか。
 そこで万葉のロマン香るみかも山を二周年を記念してど~んと取り上げて見ようと思う。
 きっと、こんなに近くにあるのだからもっと素晴らしいポイントが見つかる、見落としているところが多いはずだから、と実感するはず。
 例年より少し早い、芽吹きの頃、絵本仲間コロポックルのメンバーと一緒に何年かぶりでハイキングコースを歩いてみた。小雨に追いかけられながらナラの大きな木陰で雨をさけてのみかも山トレッキングレポート。まるで、大きなふきの葉に隠れて雨露をしのいでいたコロポックルのようだった。
最近では、山頂近くまで道路が整備され、車で楽に行けるようになったので、訪れる人も多くなった。またこの山が関東平野のランドマーク的存在なのか、市内はもとより栃木市や小山市、あるいは埼玉県方面からも、素晴らしい関東平野の展望を見にやってくる。
 一行はあらかじめ下りてくる場所の町谷町に車を一台用意してから、みかも神社のある山頂付近の駐車場に集合した。そこから歩き始めて、下りてからはまたもとの場所まで車で戻るという便利な(安易な?)方法をとった。
 心配された雨は朝のうち上がっているものの、晴れ上がる様子はない。予報によれば午後には雨が降り出すという。
 降られることは覚悟しているが、全行程一時間半か二時間ほどのルートなので、さほど心配はいらないはずだ。
 まず、神社へ向かう。付近の開けた場所には、山菜取りを楽しむひとの姿が見える。時期が少し早いのか量は少ないとか。
 春もたけなわ新緑の木々をくぐりながら山道を行くのは何とも清々しい。これで天気が良ければ申し分ない。少々行くと、ハングライダーのカタパルトが見えて来る。この日も、曇りがちにもかかわらず大勢の人が集まっていた。
 そこを過ぎると、少々の登りとなるがすぐ終る。晴れていれば佐野方面の展望が広がるのだが、今日は靄がかかりよく見えない。
 しかし、山道はよく整備され季節も歩くには絶好だ。夏場になると、下草が生い茂り、進むのもままならなくなる。ここを歩って思うのは、木が多すぎるということではないだろうか。そのために山頂まで行かないと視界が開けない。だからといって軒並み木を切り払い、素晴らしい眺望をというのも時流の波に反するようで頂けない。だったら、山頂に展望台をと考えそうだが、せっかく万葉のロマンにひたりながら、昼なお暗い道を行くのに、いきなり白亜の展望台でも現われたことには、万葉の神秘性もなにもなくなってしまう。やはり今のままというのが一番と思うが…。みかも山の各山道には、コナラの道、万葉の道、クヌギの道などとそれぞれ名前がついているがそのほかにもたくさんの小径があってその数は定かではない。また、今回は取り上げられ
間も短いので人々の記憶にはあ史を誇る溜め池が点在している。あるものは人知れずひっそりと水をたたえており、みかも山の雄姿を巧みに映し出している。
 みかも山の最高峰竜ケ岳(223メートル)が近づいてきた。今までのなだらかな行程もここへ来るとちょっときつくなり、最後の登りとなる。これまではピクニック気分だったが、さすがに息が切れる。
 ほどなく頂上へ。曇り空ではあったがここからの眺望は、標高がある分だけ今までのどの山頂よりも素晴らしい。下から見るとその一角だけはげ山のように見えるほど、回りに視線を遮るものがなく、大パノラマが広がる。
 この後は、一路町谷町のカタクリの里まで下りていく。長い下りと、丸太の階段がだらだらと続く。おまけに雨のためこれがよく滑る。やっとのことで、カタクリの群生地まで下りて来れた。とうにカタクリの季節は終っていたので、人影もまばら。なにごとが起こったかと思わんばかりの、交通渋滞を起こしていた頃が嘘のようなしずけさだった。カタクリの姿の代わりに、可憐な白い花のイチリンソウとニリンソウが競うように咲き誇っていた。この辺一帯は県南大規模公園予定地から外れているが、トウキョウサンショウウオが棲息していたり、四季おりおりに咲く山野草が豊富でこの後もコバギボウシ(6月)キツネノカミソリ(8月)、トリカブト(10月)などが花をつける。
 3月にはアズマイチゲが開花するが、これだけ低地部で開花するのは非常に珍しいということだ。そしてもっと驚くのはこれが『ただの山』の中にあるということだろうと思う。
 それなのに季節はずれで人影もまばらだからだろうか、遊歩道を行くと深く掘り起こした後があった。盗掘されたあとだ。これだけ有名になったにもかかわらず、堂々と持っていってしまうのだから感心してしまう。開発だけという物だけでなく、足元でもこれなのだから、自然を守って行くということは容易ではないと実感させられる。
 出来ばたかりのログハウスまでやってきた。細部まで手の込んだ作りで回りの景観とよくあっている。しかし、調度品、特に椅子とテーブルは早くウッディなものと替えてほしい。
 これで全行程終了。登り始めてから、昼食時間の一時間を入れても3時間ほどだった。
 今まで、佐野市というと面積も狭く、緑もだんだん減ってきてしまい、自然なんてもう残っていないと思ってきたがこうして、『灯台もと暗し』の山を歩って見ると(高速道路の騒音が気になるものの)素晴らしく思う。もっと多くの人に楽しんでもらいたい身近な自然だ。

■みかも山と万葉植物と名前のいわれ。
万葉集にうたわれている植物(樹木、草花)は約一六〇種あると言われているが、1979年発行の「みかも山の植物」によれば、コナラ、カタクリを初め五十八種がみかも山に生息しているという。
 中には、絶滅の危機に瀕しているフジバカマもあるが、最近の資料がないのでその実態は詳しく分からない。名前の『みかも』のいわれについては諸説があるようだ。
 コナラの芽吹く早春の山を形容して、鳥や獣の柔らかい毛を意味する『毳』の字を当てた。三面山といわれるくらい、三方からの眺めが素晴らしいことから、三顔(=みかほ)と呼ばれた。歌枕の「みかもなす(水面に浮ぶカモの意味)」からきた。―といろいろあるようだ。
 確かに、佐野市内から普通に眺める姿もよいが、東北自動車道からの眺めもまた素晴らしい。そして小野寺方面からの眺めも捨て難い。見る場所によって、印象がまるで違う。

■みかも山と歴史ロマン
 みかも山の歴史で揺れているのは、古代のロマン東山道だろう。そして、みかも山の上に『みかもの関』がおかれていたとうのだ。県内でも最近になって南那須で確認されたばかり。その他は実際にどこを通っていたのか実証はない。最近そうしたことをまとめた本が出版されたが、反論も多いようだ。常識で考えても現在言われている東山道が本当とは考えにくい。それは、こうして実際に歩って見るとよく分かると思う。そこで、みかも山山頂になかったらいったいどこにあったのかと想像をかき立てるが、みかもの関を歌った古歌はあるようだが、みかもの関その物は存在していなかった、という人もいる。
 実証が少なすぎるのでなんともいえず。これも、万葉のロマンといえようか。

みかも山の古歌

東路の人にとははや三かもなる関にもはなはくや匂うと源頼政関
越えて初音鳴くなり時鳥三毳の関の明け方の空藤原為家

 だがこの地は大ゴルフ場ができるとか、山をくずして住宅街にするとかの大開発でも起こらないとその素晴らしさに気がつかないものかも知れない。
 今や国立公園でさえも簡単に開発されるという時代になってしまった。だからこそ身近に人々の憩いの場、こころのふるさとがなくてはいけいないと感じる。決して心の中だけに、というのではなく…。



こならの森 24号

2008-03-26 | 創刊~100号

     24号 1990.4発行

表紙 かたくり
…………………
●目    次●
2p…看板娘
3-6p…トピックス
3-4p…カラムコラム
7-18p特集…渡良瀬遊水池の自然
19-20p…協賛店名
21p…結婚しました
22p…街角の肖像/コーヒー
23p…モーター
24p…アウト
23-24p…危険な
25p…美容と健康
26p…おぞねとしこのエッセイ
26p…芝居三昧
27-28p…情報
29p…本10/キネマ倶楽部
30p…情報
31p…本紹介
32p…絵本
33p…子育て


【本文抜粋記事】

図書紹介 第二回

ガラスの地球を救え
手塚治虫・著
光文社・刊

 フロンによるオゾン層の破壊、それに伴う紫外線の増加がもたらす動植物への影響。酸性雨による森林枯死や二炭化炭素の増加での温室効果。窒素酸化物による大気汚染など現在地球規模で物を考えなければならない時代に来ています。
 巨星、手塚が現代に生きる私達に送ったたメッセージをまとめたのがこの本「ガラスの地球を救え」です。内容は手塚が想像したマンガの主人公達と現代とを織り混ぜながら、手塚の思いを平易な文章で表わしています。表紙には「二十一世紀の君たちへ」とうたってあり、子供向けのようにも取れますが大人達にもぜひ読んでもらいたい一冊です。
 手塚はよくヒューマニストと言われています。私もその意見に反対するわけではありませんが、それよりも先にリアリストのように思えます。善も悪も現実をよく表わしている作品を多く作りあげたのではないでしょうか。もしそうでなかったら「アドルフに告ぐ」などの作品は生まれなかったはずです。ウォルト・ディズニーが手塚に大きな影響を与えたのはよく知られています。そのディズニーから学んだのは「ひたむきな開拓精神、絶えず求め前進する熱っぽさ」であると語っています。そこに手塚作品に押しつけヒューマニズムを感じさせない原動力があるのではないでしょうか。
 「その思想が民族の境界を越えるかどうかは、偉大性を考えるための有力な要因の、少なくとも一つ」と本多勝一は主張しています。そして手塚治虫を「国境を越える普遍性は世紀の巨人と呼べる」とまで絶賛しています。
 常に「自然の保護」「生き物への賛歌」「科学文明への疑い」「戦争反対」などのテーマを通して《命を大切にしよう》をマンガの中で描こうとした、と手塚は語っています。この本、ガラスの地球を救えの中にも、これ等の事が強く訴えられています。特に戦争反対の事が「僕は戦争を忘れない」「語り部になりたい」の二章の中に熱い口調によって語られています。その中に《正義》の名のもとに、国家権力によって人々の上に振り下ろされる凶刃。人間狩り、大量虐殺、言論の弾圧という暴力が現実にあった事を忘れてはならないと訴えています。ご一読の程を。 つづく 文・大川圭吾



こならの森 23号

2008-03-25 | 創刊~100号

       ■こならの森23号■1990.3発行

C・o・n・t・e・n・t・s

…………………
●目    次●
2p…看板娘
3-5p…トピックス
3-4p…カラムコラム
5p…マン&ウーマン
7-14…飲食組合
14p…危険な
15p…モーター
16pOCRアウト
17p…おそねとしこ/芝居三昧二十二回
18p…結婚
19-20p協賛店名
21-24p…若き芸術家の世界
25p…本紹介第1回/絵本
26p…本10/キネマ倶楽部
27-29p…情報
30p…美容と健康
30p…コーヒー
31p…佐知倶楽部
32p…街角の肖像
33p…子育て
…………………


【本文抜粋記事】

若き芸術家の新世界

スピンナー(紡ぎ手)山崎仁一さん
邑楽郡大泉町在住手紡ぎ工房アトリエ・ジン主宰
日本大学卒業後、東京で毛糸関係の仕事に就く。その関係で、糸を紡ぐ工房に出入りするようになり、技術をマスターしていった。以来取りつかれるようになる。


 出店の動機は、家業の酒屋の新装にともない、かねてから念願だった、紡ぎ手として独立を決意。アトリエを店内に併設した。一般に毛糸店といってもいっぱいあるから、専門店として特長ある物にしたかったという事だ。
 店内には山崎さん自身が紡いだ毛糸や、編み上がったセーターなどが展示してあったり、しゃれた感じの足踏み式紡ぎ機がおいてあって独特の雰囲気。訪れた時は、ちょうど手紡ぎ教室を行なっており、なれた手つきで、紡がれて行く様を見ることが出来た。羊毛と一言に言ってもはひとつ一つが違っており固い柔らかいなど個性がある。悪い素材でも用途によって使い分けをすればそれなりに使い方はあるのだという。原毛は個人輸入している知人から仕入れているので一年ほど先の予約となる。主にオーストラリア、ニュージーランド、イギリスから仕入れている。だいたい一頭からは原毛がニキロほどが取れ、それだけでセーターなら三、四着ほど作れる。原毛は油抜きをしたり洗濯したり、あるいはそのまま素材を利用したりするという。山崎さんが好きなものは、素材そのままを活かした自然なものだという。そのためか、染色する場合も自然にあるものをよく利用するという。「つむぎは自分の心が糸の形になって表われます。」よりがうまく行かない時は、やはり良い糸は出来ないということだ。 
 その魅力は、色を染めたり、そのまま素材を活かしたりすなど楽しみが多いところといい「趣味としても、芸術としても奥が深い」と語る。
 しかし、現在のところは採算度外視なので経営としては楽でないという。
 手紡ぎ教室には近辺の大田市や、大泉町から手紡ぎに魅了された人達が集まって来る。足踏み式の紡ぎ機械使った実践的な講習だ。ちなみに、月四回の講習で五千円。また、入門編として、五百グラムの原毛を糸にするまででの指導(三千円)も行なっている。五百グラムの原毛は、だいたい二十四時間ほどで全部を糸に仕上げられる計算ということだが、なれないと大変。普通は二か月ほどかかると言う。
 参加者は「世界に一つしか無い自分のオリジナルな毛糸が出来上がる」「改めて繊維が生き物だという事に気が付きました」「最初は楽しみより、苦しみが多かったのですが今では通って来るのが楽しみです」と語り評判も上々のよう。
 また、足利市や鹿沼市の公民館において出張講習会も行なっているということだ。


こならの森 22号

2008-03-24 | 創刊~100号

     22号 1990.2.1発行 

表紙 新・成人4人
………………………
●目    次●
2p…看板娘関根さん
3-5p…トピックス
3-4p…カラムコラム
5p…人物紹介 マン&ウーマン
9-10p…世紀末を考える《宇井純》
11-18p…特集=どうしたら健康になれるか
19-20p…協賛店名
21p…結婚しました
22p…第9回 おそねとしこのエッセイ
22p…芝居三昧 21回
23p…モーター
24p…アウトドアー
23-24p…満天の星空
25-26p…情報
27p…本10/絵本
28p…街角の肖像
29p…こならの森キネマ館
30p…危険な道路をぶっとばせ
30p…美容と健康
31-32p…センチュリーラン
32p…コーヒータイム
33p…編集後記


【本文抜粋記事】

トピックス

桐生でミニコミ誌、トライアングル発刊
 四年も前から、準備して来たというだけあって創刊号の出来栄えはなかなかのもの。内容は対談、投稿シナリオ、映画批評エッセイ、歴史など盛沢山の四十六ページ。『通勤電車雑感』など面白く読める読み物もある。しかも発行元のトライアングル企画では、桐生青年の家所長の小林昌人さんが書いている賢い子供を育てる本「お母さんは先生とどうか関わるか」という冊子も発行している。
 しかし、四年の準備期間を経て発刊したにしては、紙面構成が良くないように見受けられる。特に四十五ページなどは一考あるようだ。
 発刊のことば雑誌の顔はカオスなのです。風の音水の音虫の声恋人発ちの甘いささやきひとりぼっちの吐息子供の泣き声父親のカミナリちまたには音があふれている。そして言葉が踊る。意味のあるものないもの気分のあるものないもの何でもかんでもよっといでいろんな色をぱらりとまぜてさっさとふってのぞいてごらん。なんときれいな模様まか不思議にして楽しいもの万華鏡そしてこの雑誌。


 安佐のミニコミ『だんだんに』30号が発行される。
 安佐地区では、唯一のミニコミだんだんにが、30号を発刊した。また、先頃それを記念した「だんだんに・なんなの・音楽会」も開かれている。
 いつもながら、その情報量の多さと、手書きにこだわり、写真版を使わないという体裁には脱帽。内容も多方面に渡り、読者からのの投稿、お便りも面白い。一部200円。
 これからも地域のミニコミとして期待される存在だけに、目が離せない。『最近なって、やっと少し時間が取れるようになりました。それで、こうして「だんだに」30号。今後は、何とか、葉書ででも早目に返事を出すようにし「だんだんに」も、出来るだけもう少し短い間隔で、出したいと思います。今後ともよろしくお願いします』(本文より)だんだんに編集室田沼町山形297ろさは書房内



こならの森 21号

2008-03-23 | 創刊~100号

     21号 1990.1.1発行

表紙 三毳山より富士山夜景

●目    次●
2p…新年挨拶
3p…看板娘=
3p…カラムコラム
3-5p…トピックス
6p…マン&ウーマン
7p-10p…90年に一言
11-18p…新春スペシャルインタビュー
19-20p…協賛店名
22p…美容と健康
22p…街
23p…モーター
24p…危険な
25-26p情報
27p…本10/絵本
28p…佐知倶楽部
29-30p…センチュリーラン
31p…お見合いデー
32p…第8回 おそねとしこ
32p…■芝居三昧
33p…編集後記


新春スペシャルインタビュー


 今回は新春という事もありますのでスペシャルとして、今後が期待される若手経営者対談と題して行ないたいと思います。また、商工会議所専務理事小林正作さんには、その広い見地から今回のコーデイネーター兼オブザーバーとして意見を伺いました。

本年もよろしくお願いいたします。


株式会社松田
代表取締役 松田光央さん

株式会社石川定次郎商店
代表取締役 石川道明さん

■司会 初めに最近の現況や問題点と言った点についてお話願いたいのですが。
■松田 我々の業界などでも、考える部分と作る部分というのがあるわけです。こういうものを作りたいというイメージは、東京で考えているわけですが、それを実際に製品にしているのは札幌とか、博多とかという所なんです。
 そして、そのイメージを伝送するというのはケーブルとか衛星通信とかを使ってもうすでに行なわれているわけですが、一番困るのは流通なんですね。出来上がった製品をどのようにして東京まで戻そうかということです。これはあくまでも、いつの時代になっても一番難しい問題だと思うわけです。
 小さい頃マンガ等で、人間を伝送する。素粒子に分けて送った先でまた合成するというのがありましたが、とても人間は無理だと思います。それは商品だってできないと思いますね。ですから、一番の問題はどういうふうに運ぶかということです。
■司会 それは、自動車か鉄道かということですが、どちらでしょうか。
■松田 自動車ですと、品物の輸送。それから人間の輸送になると電車の方でしょうか。そうなると文化の方になると思います。そして経済は陸送する。
 それから、水路を利用するという手も考えられますね。何年か前みたいにね。何故かというと、この東京を中心とした一〇〇キロ圏というのはこれからますます車が増えるでしょうし、それによって事故とかの諸問題が多くなっている訳ですから、それを解消して行くためには当然考えてしかるべきだろうし、地下に穴をあけて通そうということを考えるより、それだけの
資源が眠っているということですからね。
■司会 石川さんはどうでしょうか、考えを伺いたいのですが。
■石川 私の会社は、薬品の卸をやっている訳ですから、交通の便がいいことにこしたことはない訳です。地域ということですといろんな意味で、ここはすごくいい所だと思います。歴史的なものもあるし、それから東京にも近い、大きな工場もわりとある。それがいいと思う反面、個性が出てこない。
 あちこちでまちおこしなどと言っていますけれども、もう観光でしか食っていけない地域と言うのがあるわけです。また工業化して行くしかない地域もある訳ですよね。公害に悩みながら、川崎などは工場で食って行くしかなかったわけですから。
 昔から、ここの地区の人は東京へ出ていく時に「食えなくなったらいつでも帰ってこい」とそれぐらいここは豊かなんです。ところが四国とか九州とか北海道から働きに出る人は「もうおまえの帰ってくる場所はないよ」と、だから向こうで成功して帰ってこいよと。そういう所から生まれる県民性があるんだと言われるんですね。
 ですから、何にでも適応できる地域だと思うんです。その融通性が裏目に出てぎて特色が出せない所だと言うことです。
■司会 それに、甘んじてしまっていると言うことですか。
■石川 そうですね。
 話は変わるんですが、青年会議所は今年で結成二五周年を迎えます。そして創設当初から安佐は一つという言葉を使っているんです。
 その頃に、すでに安佐は一つというふうに感じていたと思います。それを、意見にして言っても上の人に取り上げてもらえない、というところはあると思いますね。
 最初のOBというのはもう六十五才くらいになるわけですが、その人たちの声が為政者の耳に届かない。この地域の発展というのは為政者、例えばそれぞれの市長さん、町長さんがいかに人の意見を聞いて若い人との意見、お年寄りの意見、そういった年令に関係なく革新的な意見をどれだけ処理できるか、能力の問題だと思いますね。
 しかし、なかなか地域性がありまして優秀なブレーンを育てられないという感じを私は見受けているんですね。若い人がやらなければいけないというように理解を示して下さる方が多ければいいんですけれども、なかなかそこまでいかないですね。
 我々は五十、六十になっても若い人達が、新しい意見を持ってきた時にそれを理解できる能力を保たなければいけない。
 当然六十、七十になってくれば保守的になってくるのは当前ですから、ここにいらっしゃる専務さんのような方は珍しいんですよね。(笑)
■小林 しかし、石川さんが言う通りに、青年会議所も安佐はけ一つ、昔は商工会議所も一つだった。ですから、私も出来るだけ会議所も元の姿に帰ろうという考えを押し進めようとしているんですが、行政というのはなかなかそういう事がないんですね。
 石川さんが言った通り人材の意見というのが取り入れられないという、よそから見れば本当に不思議な所です。
■石川 この地区からはすごい人が出ているんですよね。聞きますとものすごい大物が経済界にたくさんいらっしゃるわけです。ですが、地域はその人たちを追いかけようともしない。その人たちも振り向こうとしていない。もったいない話ですね。あまりに近すぎて郷土意識というのがないのかも知れないですね。
 山口県に行ってびっくりしたのは町の公園とかいろいろな所に歴史的な人達の銅像がたくさんたっているんです。そうして郷土の偉い人たちを見ながら育った山口県の県民性と言うのは違うと思いますね。
■小林 これだけみんなが田中正造、田中正造といって、像と言うのは少ないね。
■石川 私は、佐野駅だの佐野市駅に田中正造の銅像があっても言いと思いますね。
■小林 それはね、佐野駅に広場ができたら会議所でも考えようと思っています。
 例えば甲府へ行くと武田信玄がありますね。私は藤原秀郷の銅像だっていいと思うんですよ。足利では銅像を建てるかどうかで大騒ぎしていますけれどもね。確かに藤原秀郷はここにいたんだからね。
■松田 佐野はすごいものがあるんですけれど、ちょうど中堅なんですね。大人物とかそういうシンボリックなものじゃなくって、それが数多いんです。だからどこに的を絞っていいんだか分からないと言う事があります。人物ならだれだれとか建物だったらどれ、遺跡だったらどれ、随分あると思うんですね。
■小林 今の消費者は、婦人と子供に変わってきていますが、佐野はその人たちが来られない町なんですね。
 どう言う事かというと、女の人がトイレへ行きたいと思ってもトイレがないんです。子供が水を飲みたいといっても水がないですね。それから、子供と一緒に何か食べようと思っても食べるところがない。ですから、そういうものを町の中に作らなければいけない。
 例えば、トイレのある町という言うふうにして、公衆電話の下にちゃんとした水洗トイレがる。
 佐野駅の百年祭の時に言ったんですが「こんな汚い駅はないんだ」とここに人が集まらないというのも無理がない。「ここへ来て見ろとトイレの臭いがぷんぷんするじゃないか、どうして水洗トイレにできないんだ」と言ったわけです。
 工業団地へ行っても何となく『佐野の工業団地』というものがない。商店街にもそれがない。
 館林市の町作りというのは参考になるんですが、道路を拡張する時に、歩道の幅を狭めるというんです。今は、歩道を歩く人よりも車の方が多いんですよ。ですから、車が寄れる場所を作る。町作りとしては、一つの型ですね。館林市の中はバスが走らない。これは全国的にも稀な事です。やはり、それが売り物になるわけですね。
 ジャスコが佐野へ来ると言う時に、佐野の消費者が佐野の商店街で買い物をする率と言うのは五十パーセントでした。半分の人は、よそへ行っていたわけですね。それが、ジャスコや十字屋が出来てから八十パーセントまでになった。ところが今はどうです六十五パーセント位に落ちています。ということは、今やジャスコや十字屋は大型店としての機能を失いつつあると言う事です。
 やはり、やり方を変えなければいけないわけです。足利のアピタとか栃木のジャスコみたいにやり方を変えるわけですよ。
 この前永六助の講演を聞いたんですが、あの人の娘が浅草に住んでいて、買い物には毎日松坂屋へ行くというんですね。そうしたら、隣のおばさんに言われたんだそうです。「うちにも同じものがあるのに、どうして松坂屋へ行くんだ。あんたのうちが火事になった時に、松坂屋の店員は助けに来るのか」と。そういう地域のコミュニケーションが最近は失われているんです。
■石川 考えてはいるんだと思うんですね。でも、もっともっと皆さんが集まって意見を出し合って論争するという事が一番必要じゃないんですかね。
■小林 よく市長に言うんだけれども、銀行の支店長だとか、工業団地とかのよそから来た人たちに集まってもらっていっぺん懇談会でもやろうと思うんですね。それで、無責任な発言をしてもらう。各人にはそれだけの問題があるわけだからその話を聞く会を二か月に一回やるといい。
■松田 日頃いろいろ考えるんですけれども佐野の、あるいは安佐の人の人格というか、性格というのはどういうものだろうという事が、地元の人間なのに分らないんですよね。
 私のところは、父が足利の出身で母は栃木なんです。そして産まれた私は、真ん中の佐野なんですが、いまだに考え方というのが分からないし、イメージというものがつかめないんですね。足利の人は、どっちかと言うと非常に突っ走って、よく言えば自分を表現するパフォーマンスがうまいんですね。
 栃木というのは逆に、いぶし銀のように光るところがあって何か気に掛かるところなんですね。こんなに近いところで、足利と栃木の中間にいて非常にイメージが薄くなってしまっていると思うんですね。それは、両端が全くの陰と陽、会社で言えば営業と経理みたいなものなんですね。
 佐野の人の性質を理解できればその良さを分かって、こちらからこういうやり方でやれというふうに言うよりもその特長を生かしたものを早く作ってしまった方が手っ取り早いと思います。それは、みんな言いますね。金融機関でも、大手のメーカーでも話をしていますとここら辺は違うと言うんです。
■小林 松田さんね、私が商工会議所へ入ってまもなくの頃の話ですが、大同毛織の社長が佐野地区は繊維の町だからここに毛織物の工場を出そうと言ったわけです。社長は、田沼の小見の出身なんですね。ですが、その時の商工会議所の専務が何を言ったかと言うと、「よしなさい」といったわけですね。
 ここの織物業者は本末転倒している。全部あるって見たら自分の住家はケヤキ作りでものすごい家を作って、二号さんを囲っている。ところが織物工場は物置だと、だからここの人は、戦場と休むところを別のものと考えている。これではだめからよしなさいと言っていたが、その通りになってしまった。
■司会 人間そのものが文化的に豊かにならないと本当の意味での発展というものが計れないと思いますので、ここで文化という事にについて語って頂きたいのですが。
■松田 佐野と言うところは出流原とか、赤見とか郊外にまだまだ(ほかの関東地方の中では有名と言うのではないんでしょうけれども)自然が残っています。その自然を残して置くと言う事、それが一つの文化ではないかと思います。
 東京と言うのは、ものを造る場合にデーターが整っているわけですね。そして、大勢の人たちでそれをどう組み合わせるかと言う事を、簡単にやってのけるわけです。クリエイティブな仕事でもそうです。しかし、その根源と言うが、発生する大本に必要なものは、自然とか、空気がきれいだとか、水がおいしいと言う環境ではないでしょうか。
 小刻みに、間に合わせ的に出すものと言うのは、東京の方が便利なんです。ところが製作に何年もかかるような大作とか言うものを作る場合には先程言った自然がある方が言いと思いますね。
 幾何学的な建物の中で集中して仕事をしているわけですから、酸欠状態になる。だから休めるところ、保養するところというものが必要になってきます。佐野と言うのうは、当然ですが、そういうものがあるわけですね。
 その辺をうまく、ただ保存するだけじゃなくって、古いものは徹底的に古く、細工をしてでも古くしていくと言う演出も必要じゃないかと思うんですね。それが、文化と、文化を産みだす元と言うものにつながっていくと思います。これは負け惜しみかも知れませんけれど、東京でそんなものを求めたくっても無理です。ですから、そういう地の利と言うものは大いに活かすべきですね。人間の本質を理解して、良さをもっと引っ張り出す。イベントをするにもそこにヒントが己づと出てくるような気がするんです。ですが、皆さん結果の方を先に考えますから、プロセスと言うのは非常に面倒臭いし大変なんですね。
■小林 この間TVを見ていたら、瀬戸内海の小さな島に大阪あたりから資本が入ってきて、小さな島に別荘を作ったりして、島を目茶目茶にしてしまったという。この辺りの三毳山周辺も本当にそうされる可能性もあると思うね。そういう事が、三毳山大規模公園構想の中にも出てくるわけですよ。簡単なんだ、どんどん入ってくるだけだからね。放って置けば三毳山周辺はみんな目茶苦茶になってしまいますよ。
■石川 何にしても要はエネルギーですね。文化と言うと静的なものを感じますけれども、やはりエネルギーですね。
■小林 どうでしょう、そういうエネルギーというものがこの地区でも蓄積されているんではないかと思うが、それをうまく持って行くリーダーがいないという事なのかな。

■石川 地元から国会議員が出ていない。
 そして選挙にしても地元の事を考えるんじゃなくってよその人を応援するのに地元でけんか、これでは逆です。代議士さんが来て、佐野の票が欲しいといって来るのに、皆さんぺこぺこするんです。それはおかしいと思いますね。この地区の票をあげるんだから、もうちょっとこの地区を何とかしてくれ、と言うのが当前なのに、みんなで先生、先生というんですね。
■小林 政治が混沌としているのはやはり柱がないという事かね。
■石川 政治の話になりますと、我々若い人達の代表を出すんだと言うのに、票集めのテクニックばかりです。我々は、そんな話をしているんじゃないんだ。この町をよくするためにはどういう人を出さなければいけないかを話しているのに、マイクを向けると、「いや選挙と言うのは難しいんだよ-」というんですね。
 佐野は、先ず政治から出直す必要があると思いますね。
■小林 だから、駅南の作り方なんか見ていると、そういう混沌さが分かるね。
■司会 新春という事もあります
ので、抱負等について語って頂きたいのですが。
■小林 最近は景気がいいと言っても多くの問題を抱えていますから、より一層の経営努力をして体質改善を計る。それに対して商工会議所は大いにそれに協力する、そういう事をやって行きたいと思いますね。
■石川 佐野市民として、文化の面でお手伝いできる事があればいいなと思いますね。
■松田 価値観を変えてみたいなと思いますね。それが、若い人達の考えを受け入れたりする寛容さを持ちますし、そうでないと人材を集めてきても教育ができないですからね。価値観を変えた教育の仕方が必要だと思いますね。
■司会 どうもありがとうございました。


こならの森 20号

2008-03-23 | 創刊~100号

     20号 1989.12.1発行

表紙 影沢医院のつた

●目    次●
2p…看板娘
3p…マン&ウーマン
3-5p…トピックス
5-6p…カラムコラム
7p-12p…忘年会
13-18p…こならの森語録
19-20p…協賛店名
21p… 結婚 森下さん
22p…本10
23p…モーター
24p…アウトドアー
23-24p…街
25-26p…情報
27p…美容と健康
28p…危険な
29-30p…センチュリーラン その14
30p…コーヒー
31p…お見合いデータ
32p…第8回 おそねとしこ
32p…■芝居三昧
33p…編集後記



【本文抜粋記事】

芝居三昧 その第19回


 旅のローテーションですが、約二か月かけて、関西、四国、九州。同じように関東、甲信越、東北、北海道が二か月でセットになっています。かなりハードな日程をこなしていくんです。一週間に一度くらいの割で、先乗りとしての移動日がありますが、あとは毎日毎日、芝居を打ては次の公演地へと、ハネてから乗りこむか、翌朝早く出発します。
 当時一ステージ三百円のギャラいただいておりましたが、旅に出ると、他にアゴアシ代として七百円。旅館に泊まれなければ、旅館代として二千二百円。飛行機や電車に乗らず、セット運送のトラックに便乗させてもらうと、そのチケット分の金額がバックされます。東京にいる時は、電車賃にしかならないギャラでしたが、旅公演ですと経済的には楽になります。でも反対に、二か月の間、集団行動でしたから、自分の時間は取れません。それに、旅に出る時は、相当数の裏方さんは、よそ者です。照明、大道具、効果等のスタッフは、その道のベテランをアルバイトで一日三千円で雇いチームを組むのです。年中歌舞伎や歌などで旅に出ている人達。小さな劇団にいて、公演費用を稼ぐために参加する人達などいろいろです。人間関係がむつかしくなります。
 プロ劇団は、すべて分業。学生時代のように、なにからなにまで自分の手といったものではありません。先にも述べましたが、衣装は衣装屋さん。小道具は小道具店。セットは草加に俳優座のセット工場があり、そこに発注していました。舞台輸送という、旅でのセット運びを生業とする会社まであります。先輩に連れられて、舞台輸送のトラックで、「うかれ」のセットを引き取りに草加に向かう途中、あのよど号ハイジャックのニュースがラジオから流れていました。 つづく


こならの森 19号

2008-03-23 | 創刊~100号

     19号 1989.11.1発行

表紙 日光の紅葉と石くい

●目    次●
2p…看板娘
3-4p…ミニ特集…珈琲
5-6p…カラムコラム
5p…トピックス
6p…お店和昇庵
7-14p…【特集】塩坂峠を行く
15-18p…つれづれインタビュー
19-20p…協賛店名
21p…結婚…大竹和さん夫妻
22p…危険な
22p…美容と健康
23p…モーター
24p…アウトドアー
23p-24p…スターウオッチング
25-26p…情報
27p…絵本
28p…佐知倶楽部
29-30p…センチュリーラン その13
30p…コーヒー/中南米視察の旅
31p…お見合いデータ
32p…芝居三昧 その十八
32p…第7回 おそねとしこ
33p…手書き編集後記


【本文抜粋記事】

人物紹介

飯島秀雄さん
 郷土を愛し、近辺をモチーフにした作品を発表し続けている飯島秀雄さんの地元での写真展が田沼町の文化福祉センター特設ギャラリーで開かれた。
 作品は、自然への招待と題するものが四十五点。他に写真から俳句を詠むと題して、俳人協会会員。また「風」同人でもある菅谷東治さんに俳句をお願いした作品7点など思わず立ち尽くしてしまう力作ばかり。
 現在は、消えゆく渡り鳥最後の楽園。赤麻遊水池をモチーフにした作品作りをしているという。また、野上川の源流が最も好きな場所だといい、これからもその水の流れや、草花などをカメラに納めていくという事だ。「自然が相手なので大変です。その時を逃すと、来年まで待たなければならない事もあります。しかし、この地区には、身近に優れた自然が残っていますので題材に困る事はありません。」と飯島さんは話す。またこれからも、郷土の自然を撮り続けるという事だ。身近なところでは続・わが町さんぽの口絵写真赤見の弁天池が飯島さんの作品。



こならの森 18号

2008-03-23 | 創刊~100号

     18号 1989.10.1 発行

表紙「コスモスとアゲハ蝶」

●目    次●

2…看板娘
3-4p…カラムコラム
3-5p…トピックス
6-10p…秋を探しに
11-15p…インタビュー「島田春蔵さん」
17p…美容と健康
17p…危険な道路をぶっとばせ
18p…結婚しました
19-20p…協賛店名
21p…佐知倶楽部
22p…絵本の紹介
22p…海外旅行講座
23-24p…若き芸術家の世界
25-26p…インフォメーション
27p…モータースポーツ
27-28p…街角の肖像
28p…アウトドアー
29-30p…センチュリーラン
30p…コーヒータイム
31p…お見合いデータベース
32p…芝居三昧
32p…としこのエッセイ 第六回
33p…子育て編集日記

【本文抜粋記事】

インタビュー

島田テキスタイル代表取締役

島田春蔵さん

大正十五年生まれ。東京の商社で、原糸の営業を行った後、佐野に帰って独立。当初は、島田商事としてスタートしたが、昭和六十年に、現在の島田テキスタイルに変更。

 業界紙によれば丸編み先染め物は、東日本にライバルメーカーはいないという事だ。身近な所ではこの夏行われた1000人つなひきのTシャツを製作したという。


コンピューター付きの丸編み機を導入したと言う事ですが、その辺の経過からお話願いたいですが。

 ごく簡単に申しますと、繊維産業が斜陽化して来て、この産地でもだんだん衰退してきた。足利でもトリコットが戦後伸びて来た分けですが、NIESと言われる発展途上国の追い上げが激しくなった。今の繊維政策と言うのは、農業とは違って全部開放されてい何でも輸入されてくる分けです。そういう中で、選択したのがコンピューターの導入と言う事です。主にスポーツウエア、ゴルフとか、テニスのウエアを作る機械なんですね。生地を先に作るわけです。デザインは後から作るわけですね。その生地も先染めと言って先に糸を染めていろいろな配色を考えるわけです。これは高級化ですね。大企業には出来ない仕事なんです。

コストが合わないという事ですか。

そうですね、非常に手が掛かるわけです。大企業は量産型が出来ないわけですね。大量生産が出来ないんです。多品種、小ロット、先染めというのは特にね。幸いにして、日本のコンピューターがついた工作機械、そういう物は日本が一番優れているですね。自動車の中にコンピーューターが入っている。我々の工作機械にもコンピューターが入っている。
 しかし、機械を入れたからと言ってすぐ動きだすかと言うそうではなく、一、二年は苦労をします。ですが、それを過ぎたら、生産性は上がって来ます。斜陽産業と言っても、道はあったという事です。

佐野の現状はどうでしょうか。

 二、三社を残して停滞気味ですね。機械化に踏み切れないという状況でしょうか。
そうですね。しかし私の所でも機械を導入してから一、二年は良くなかったですが、それからはぐっと伸びてきました。
足利の織物組合に加入していると言う事ですが。
 足利ファッション組合というんですが、今年の四月に五組合が合併して出来たんです。我々の業界の組合と言うのは足利に集中してあるんですね。何と言っても繊維関係は足利が強いんですよ。ですから、今ではプラスチックに抜かれたと言う事ですが、まだまだ総売上が八百億位あるわけなんです。これは地域社会と言う事から離れますが、私の趣味が旅行で、それも、単独で行く旅行が好きなんです。だいたい行かない所は社会主義圏位なんです。特に、東南アジアのほとんどは行きました。特に、合弁会社を作って、売り込もう斜陽産業と言っても、道はあっ出しています。ですから、私も向こうの製品がどのくらい日本の製品に追いつて来たか、そういう調査をして、そこから入ってくる製品は出来るだけ避けよう、と言う事を考えているわけです。そして、私共の製品はとても作れないとわかりまして、いまではこちらから輸出をしているくらいです。

どれくらい追いついて来ているのでしょうか。

 十年くらいの開きがあるでしょうね。五年や十年の月日では、今の日本と同じ物は作れないのではないでしょうか。五年後には、もっと高度な製品を造っているでしょうから結局追いつけないという事ですね。
ただ躍進が目覚ましいということですが。
 いや、鈍くなって来ていますね。台湾では去年の前半に、一党独裁でやって来たのが、開放という事になり、それによってたくさんの政党が出来て、もちろん労働組合ができて賃上げ闘争が起こって来たわけです。小さな企業でさえ毎日ストをやっていると言うんですね。今年、また行ってみたら日本の賃金と変わらなくなっているんですね。それから、韓国はこれも賃金が上がりつつある。オリンピックを境に、どんどんあがってきている。最近の円安ウォン高。それから、国内の輸出状況が厳しくなって来ているんです。

中国などではどうでしょうか。

 私が十年前に行った時には、後十年もすると、日本に追い付いてしまうかなと思ったんですが、あの国は途中で足止りしてしまって全然だめなんですね。そこへ来てこの間だの天安門事件があったわけです。国が大きいから繊維品の原材料がたくさんあるんですけれど品質は良く無いんです。台湾とか韓国とかよりも怖くなくなたという事ですか。
 要するに、品質のおいあげでなて社会主義の国というのはそこ迄の研究心がないんですね。賃金も上がっていないんです。

 品質が上がらないと安いだけという事になってしまうわけですね。そして、今問題とされているのは、タイです。賃金が安くて安定した国だという事で日本でも盛んに進出して洪水のようですが、そろそろ頭打ちで、そうするとどこだろうという事になるわけですが、今度はインドネシアとかフィリピンは治安がちょっと、政情が安定していません。ASEANの中ではマレーシアも進出はしているけれど、まだまだなんですね。シンガポールはもう進出し過ぎています。
 日本で研修をさせて向こうに連れて行く分けですが、半年もしないうちに辞めて行ってしまう。よその、企業に引っ張られてしまうわけです。

タイシルクという言葉を聞きますが、シルクはどうでしょうしょうか。

 タイシルクというのは名ばかりでね、やはり中国が多く取れるんですよ。ただ、シルクは早く通産管轄にして欲しいです@ね。いま、シルクは農林管轄なんですね。ですから、農業政策の中に入っているわけです。統制経済の中に入っているわけですね。自由化になっていないわけです。あれは、農村で繭を作っているわけですから。自由化になれば安いシルクがどんどん入って来て日本のシルク製品の需要が増えるわけなんです。日本も品質はいいんですよ。
 今一番恐れるのは、EC諸国なんです。イタリア、フランスそのへんの国が日本にどれ位進出してくるか、もうNIESの国はそれほど恐れる事はないんです。イタリア、フランスあたりでは、自分のところで物を作らないでお隣のスペインとかポルトガルで作らせていますね。それが今度は日本の市場をなんとか合弁会社を作って、売り込もうと必死ですね。それが、いつどういうふうに入ってくるのか、果たして成功するのか、ちょっと東南アジアと違って遠いですから、その点がどうなのか。そこを見極めながらやっているという状況です。まだ、時間的にはあると思いますね。ミラノファッションというように、デザイン力、企画力みたいな物が怖さになってくるわけですね。
 そうです。歴史も古いんです。
卓越なデザイン力、企画力は郡を抜いていますね。ですから、その事については一番心配しています。ただ、それが入ってきても、日本の流通機構に乗っけられるかどうか、それから、値段が合うのか。NIESあたりから来た製品は、一時的に成功したんです。定番から下のクラスは、しかし今度は高級品クラスがEC諸国からどうのように入って来るのか、それが関心事ですね。ですから、今盛んに情報収集をしているんです。
 日本では今、高級品指向というのが、いわれていますね。どこまで続くか知れませんし、景気もどうなるか分からない時代で大変ですね。そうです。繊維市場というのは、オープンですから、農産物などは閉ていますね。それからこういう事も考えています。原材料の良い物、例えばウールなんかを向こうから輸入して、それを加工して日本国内で売る。それは、大企業ではできない事ですね。これからは、中小企業だって国際化の時代だと言う事なんです。この点で成功しているのが栃木の岩下食品です。漬け物の原料などは、当初台湾から輸入していました。現在は魅力がなくなったという事でタイで作らせています。ナス、キューリ、相当の利益をあげたんです。

他が縮小して行く中で、やはり道はあるという事ですか。

 そうですね、それも日本国内だけでなく、海外とかね。それには、やはり飛び回って情報を取らないと人から聞いていたんではだめですね。年に何度くらい海外へ行くわけですか。前は、良く行きました。年に十回位は行きました。一か月に一度というペースでしたね。だいたい東南アジアの国々には、知り合いが出来て向こうの人が夫婦で来たり、こっちから行ったりして交流していますね。

視察に来るわけですか。

 もちろん来ますね。そういう交流で、現地へ行けば生の声が聞こえます。そのうちに、ちょっとした取引が成立したりします。それで、何か一つ言葉を覚えようと思いまして、週に二回中国語を勉強しまして普段の会話くらいはなんとかなるようになりました。
 やはり英語ができれば一番良いし、東南アジアでは華僑がまとまって仕事しているんです。例えばタイに行くと、タイ人がやっているのではないんです。ですから中国語が出来れば、通用するんですね。シンガポールヘ行ってもやはり、華僑が全部やっていますね。帝人とか、東レという大企業はマーケッテイング部門を必ず持っていますから、海外情報収集をやっているんです。そういう所に年間何百万とお金を払っているんです。お金を出して情報を買っているわけなんです。

情報はタダではない。

 そうですね。それから、我々の業界というのは、地域社会だけ見ていたんでは飯が食えないんです。世界情勢にも目を向けていかないといけないんです。これれは、どの職種にも言える事だと思います。

 今日は、どうもありがとうございました。


こならの森 17号

2008-03-22 | 創刊~100号

     17号 1989.9.1発行

表紙「足利の花火」

●目    次●

看板娘…駒形…2
トピックス…3-6p
化粧品問題…7p
お店紹介…藪…8p
カラムコラム…7-8p
ネーミング文化論…9-14p
インタビュー…15-18p
協賛店マップ…19-20p
結婚しました…21p
美容と健康…22p
危険な道路をぶっとばせ 第7回…22p
佐知倶楽部/街角11回…23-24p
インホメーション…25-26p
サークル紹介 
コーヒー…3回…27p
ブックス10・絵本の紹介…28
センチュリーラン…29-30p
お見合いデータ…31p
としこのエッセイ/芝居三昧…32p
こなら通信・購読者名簿…33
子育て編集日記…「手書き」…33p



特集

道路に新しい名前をつけてみる

「ネーミング文化論」


●法則性はあるか…
 ネーミングというのは、全く大変な作業である。ひょんなきっかけで生まれた「こならの森」とは訳が違う。よくいわれるのは、ブレーンストーミングや消去法などという作業である。
 したしみやすく、分かりやすいということから、正造通り、新・東山道、安蘇の道(数年前に同名のタウン誌が発行されていたという)という風にばかりつけていくと「ダサイ」とか、「どこがファッショナブルなのよ」「街や、道路が新しくなっても、名前が古臭くっちゃネ」といわれかねないし、かといってファッションストリートSANOとか、SANO'S STREETとかにしてしまったら読めないという苦情が出るに決まっている。
 そこで、編集室からの提案は東西に通る道路は全部漢字とかなで表記し、南北に通る道路はカタカナか英文というい事にしたらどうだろう。こうすれは、一度聞いただけで、どこだか分からないにしても、方角だけは分かるわけだ。しかし、斜めに通る道路はどうしよう、ローマ字でと無理やり通せは、道路が曲がる。この場合、どちらを使ってもかまわないとするか、語尾にSS(スラント・ストリート)とでもいう語をつけ、米国ワシントDCみたいに、例えばすずかけ通りSSというふうにしてみよう。

●ストリートとアベニューについて
 それから、メインストリートとアベニューの違いについてはっきりさせておかなけれはいけないと思う。通り、というと何と言っても『駅前通り』というのが、その街の代表格だと思う。とすると、それに交わる通りのことを、一般にアベニューといっているようなので、旧50号線はアベニューということになってしまうのであろうか。これは別名『中央通り』とも言うのだから、ややこしい。早くも、壁にぶつかってしまう。しかし、中央というのだから、メインに決まっている勝手に判断して、旧50号線(中央通り)を、佐野のメインストリートと決めることにする。

●東西に…
 ここまで、来れは後は簡単だ。何やら、巷ではそういう動きがすでにあり、元三大師の通りを『万葉の道』としようと、いうのだそうだ。すると、その次の通り、仲町通りは、当然こならの森編集室があるのだから、『こならの道』と付けられよう。すると、これまた自然と中央通りも『みかもの道』と決まって来る。それから、大祝町通りは佐野市農協があることから、絹の道ならぬ『米の道』というのは、どうだろうか。また、付近を縦に通る道路は、『ハーベスト・ストリート』としよう。

●南北に…
 さて、今度は南北の道路だ。佐女高通りは、『ハイスクール・ストリート』。十字屋横の路地は、『ショッピング・アベニュー』。問題だった駅前通りは、『ステーション・ストリート』か、『ザ・ストリート』というのはどうだろうか。
 また、市役所から南に延びる道路は『シティホール・アベニュー』。商工会議所のある通りは『コマーシャル・アベニュー』。殿町通りは、東石美術館がある事から『ミュージアム・ロード』とつけてもいい。昭和通りは、鳳凰会館、ホテルサンルート佐野、角半等があることから、『ブライダル・ロード』または『バージン・ロード』とし、結婚式のある日は、教会までの道路一面にジュータンを敷くというのはどうだろう。
 などなど、ネーミングだけに終わりそうにない勢いだ。書き出したらきりがない…。
 しかし、横文字というのはうまくつけないと、いまいちパットしないものだという事が分かった。そう考えるとこならの森は『こならの森』本当にで良かった。
 TOWN情報誌・AN(アンサーズ・ネットワーク)などとしなくて本当に良かった。 

●終わりに………
 ところで、もう夏休みも終わりでありますが、各人空いているところへ自分の思う通りの名前を考えながら記入していくと、夏休みの宿題を思い出すのではないでしょうか。すると、ついでにここの道にはこういうホールを作って、電柱は地中に埋めて、などとイラストを書き込んでみたくなったりして、ついでに色えんぴつで色を塗り始めたりするともう完ぺきです。
   (編集 こならの森特別取材班)



こならの森 16号

2008-03-22 | 創刊~100号

     16号 1989.8.1発行

  ●目        次●

看板娘…………………………2
マン&ウーマン・トピックス3
【特集】夏・涼を求めて……7
スターウォッチング…………15
美容と健康・トラベルガイド17
としこのエッセイ……………18
協賛店マップ…………………19
結婚しました…………………21
佐知倶楽部(佐青協)のページ22
モーター・スポーツ…………23
アウトドアー   …………24
インホメーション……………25
ブックス10・絵本の紹介……28
センチュリーラン・コーヒー29
サークル紹介・街角の肖像…29
ぼくの好きなMONO………32
こなら通信・購読者名簿……33



【本文抜粋記事】


人物紹介 マン&ウーマン

 飯塚清一さん

 「提携という運動から貴重なことを学び取りました。無農薬の野菜、米が欲しい。ビニールハウスの野菜は、不自然だから等。学校の教科書にも農業のすばらしさは外され、変わって通信、運輸でコンピューターのことばかりです。家庭でも、しかりです。」
 さらに飯塚さんは十数年前に、有機農業を始めると言ったら、農業技術者に『有機農業の信者になるな』と言われて心外。また農薬中毒になったこともあって、生命優先の農業が始まった。堆肥つくりも失敗を重ねていく中で、やっとコツを覚えミミズやダンゴムシ、ハサミムシ等も住める健康な土になったという。そして、自家製の有機質肥料や酵母菌の培養技術も習得し、土づくり十年にして初めて農業の楽しさが分かったのだと話す。
 それは、飯塚さんの農業を理解してくれる消費者の皆さんと提携という新しいつながりができたからで、やがてアトピーの子供を持つ母親、保育園等と、すこしづつ輪がひろがった。
 また最近の農業問題について「今、国の内外で農業は足手まといのように扱われようとしています。経済界によるモグラたたきが始まっているのです。物、カネという物欲に心を奪わ自分さえよければ他人(ひと)のことなどどうでもいい。そんな風潮が感じられ憤慨しています。危険な輸入農産物にあなたは、安らぎを覚えますか。」とも語る。




こならの森 15号

2008-03-21 | 創刊~100号

     15号 1989.7.1発行

表紙 田沼=キスゲ 

●目    次●
2p…看板娘
3-6p…マン&ウーマン・トピックス 
7-10p…小林正作さん
11-14p…芭蕉の碑
8p…お店…藪
15p-16p…シリーズ・若き芸術家の世界
15-16p…カラムコラム
17p…美容と健康
17p…危険な道路をぶっとばせ
18p…夏というなの学校
18p…トラベルガイド…その4
19-20p…協賛店名
21p…結婚しました
22p…佐知倶楽部
23p…モータースポーツ
24p…アウトドアー
25-26p情報
27p…お見合いデータベース
28p…本10
28p…芝居三昧
29-30p…センチュリーラン
30p…コーヒー
31p…サークル紹介「中国語学習会」/
    街角の肖像
32p…インスタント・ラーメン
33p…子育て編集日記


【本文抜粋記事】

シリーズ・若き芸術家の新世界
須永 和彦さん

 「『作品』とは、見る側、受け取る側の問題である。たとえば、あなたがある絵をみて感動し、ふるえている。たとえそれがどんな天才と言われるような画家が描いた絵であろうと、それは額縁に納まったその絵がふるえているんじゃない、あなた自身がふるえているのだ。その瞬間、画家とあなたといわゆる『作品』とは、別々に切り離されているが、ある意味では一体になっている。むしろ、その絵に感動しているあなたの方が、その瞬間生き生きとしているはずだ。あなたにとって、『作品』との出逢いの意味は一回限り。あなたの内面の問題なのである。同じ絵を違う時と場所で見ても同じ感動は得られないだろう。つまり、わたしに言わせれば、出来上がって固定した『作品』なんて無いのである。」と、個展におけるパンフレットの中で語っているが、こんなところに、須永さんの芸術哲学があるような気がする。
 最初は、風景画や静物画を描いていたが、高校時代から抽象的な絵を描くようになる。
 大学生時代は、墨絵ばかり書いていた。しかし、一年生の夏休み頃から製作からは離れてしまい、文化人類学や詩学の研究にひかれてしまった。
 個人的に、影響を受けた人はいるし、芸術の話しをすると言うことはあったが、絵そのものは、全くの独学。
 これから描いていく、作風というものは、まったく白紙だという。
 今年の後半に、東京で新しい作品をまとめた個展を考えている。
 一日のうちで、実際に絵を描いている時間は平均三時間くらいだという。あまり多作するタイプではないということだ。
 作風については、「名付けられたらもう既製のものに成ってしまうでしょう。だから、名付けられなくてもいいと思います。思い上がりかもしれないけれど……」と話す。また、「絵と芸術というのはまた別のものだと思うんですね。つまり、習い事ではなくて、自分の個性を出すことです。それから、前衛的になっていくというのは恐かったです。裸の自分をさらけだす事がね。風景とか言うものであれば、どんなに下手でも絵として見てくれるわけですよね。それが抽象的なものを描くというと、まるっきりその人の個性を出さざるをえないんです」と語る。
 影響を受けたものというのは、技法より精神的なもので、アフリカ等の未開民族の芸術だという。芸術が呪術と結びついていて、単なる美術品や装飾品とかいうものでなくもっと生活に結び付いたものになっている。ラスコーの壁画なども、霊魂と呪術とが結び付いたものだし、そういった神秘性が絵に現れるという。そのためか、色彩や古代の壁画にあらわれる図形的な構成は須永さん独特のものといえる。また、家業が須永花火という花火を製作する会社の為「花火」をイメージする作品もあるということだ。
 「主義とか、概念というものにとらわれない作品をつくって行きたい」というのは、これからも変わらぬ姿勢のようだ。
 それから絵を描く他に、同人誌に詩を発表している。



こならの森 14号

2008-03-20 | 創刊~100号

     ●14号1989.6.1発行

表紙「葛生の花火=アップ」

■目        次■
看板娘・カラム・コラム……2
特集ザ・お見合い……………3
マン&ウーマン・トピックス11
つれづれインタビュー………13
ヒストリー・ウォッチング…17
結婚しました…………………21
佐青協のページ………………22
アウトドアー・スポーツ……23
インホメーション……………25
絵本紹介・BOOKS………27
美容と健康……………………28
センチュリーラン……………29
コーヒータイム………………30
サークル紹介・街角の肖像…31
エッセイ・おぞねとしこ……32
芝居三昧……33p編集日記
購読会員名簿


【本文抜粋記事】

モータースポーツ番外 23p

●編集長の体験記

そもそものはじまり
 創刊1周年号の取材中に、ポロッと、「私もバイク・レースに出た事があるんですよ。」と言ってしまた。それを、受けたゴミブチコンペテションの社長、五味淵さんは、それじゃバイク・レース理解と普及の為にも、ミニ・バイクレースに出場して、体験したらいいですよ、いい記事がかけますよ、と言われた。そう言われると、すぐのってしまうたちなので、参加する事にしてしまった。
 さーて、それからが大変。帰宅してからその事を、奥方に申すと、彼女は自分の大きなおなかを指さした。
 何を言おうとするのかすぐ分かった。「もしもの事があったら、この子はどうするの」そんな、滅相もない。「ただのレジャーですよ、レジャー」という五味淵さんの軽い言葉が頭を過ぎた。

逃げた、編集者
 やがて、約束の日曜日が迫ってくる。だが、運良く違った、運悪く締め切り日が迫った二十三日の日曜日だ。この日までにかたをつけて『日曜はレジャー』というつもりだったが、いつものことで編集がうまくいかない。そればかりか、取材の予定も入る(無理やりいれた?)ということで、断る理由ができたのだった。そう思うとうれしくなって早速その旨電話を入れた。
 だが、今にしてみれば、いわなけば良かったと後悔するのだが、怖じけづいたと思われては記者の恥と、「逃げるわけではありません。今度は、必ず……」
一難去ってまた一難
 その後は編集最後の修羅場に突入したので、すっかり忘れてしまっていた。連休も過ぎたある日、ゴミブチさんちの風間さんから電話が入ったのだった。 急だったので、心の準備も出来ないまま、すいこまれるようにOKしてしまった。

そして、当日
 忘れもしない、五月二十一日。この日は、梶原一豊さんの葬儀の日でもある。前回断っていなけれは、良かったと思ったがすでにエントリーもしているし、いかしかたない。
 朝から、落ち着かない天気だった。五年ぶりにバイクを運転する不安をよそに、練習走行へと出ていった。「アクセルを戻すのは二か所だけだよ」とこれまた、軽いアドバイス。何周か回るうちに、とにかく無事に終わってくれさえすれば……と弱気になっていった。
 狭いコーナーに何台ものバイクが同時に突っ込んでくる。ボヤボヤしていられない。ちょと違えはコースアウトだ。
 それにしても、著者の不安など関係なく、若い者たちの熱気で一杯だ。目を輝かせている。十代の青年も中年のおじさんも、応援するキャピキャピギャルも子供連れの親子の顔も見える。 しかし、暴走族に代表されるスネた若者の姿はそこにはない。 そんな、事を考えながらも、いよいよ本番スタートの時間。参加したレースというのは、一台のバイクを二人のライダーが交替で一時間走る耐久だ。
 スタートは、風間さんが運転その後、交替することになる。 しばらくして、合図をしながら風間さんが、ピットに入ってきた。交替だ。とにかく何も頭に入らなかった。ボーっと第一コーナーを抜けた後は、無心にハンドルにしがみついていた。
つづく



こならの森 13号

2008-03-20 | 創刊~100号
       ●13号 1989.2.1発行

■目        次■

カラム・コラム………2p
著者紹介………………3p_6p
トピックス………………7p
看板娘コンテスト……9-10p
■田中正造番外編…11p~14p
若き芸術家の世界…15p~16p
スターウオッング…………17p
ぐるめーる…………………18p
協賛店マップ…………19-20p
結婚しました。……………21p
美容と健康…………………22p
モータースポーツ………23p
危険な道路をぶっとばせ…23p
アウトドアー………24p
協賛店マップ…………25-26p
絵本紹介…………27p
ブックス10・海外旅行入門…27p
エッセイ・おぞねとしこ……28p
センチュリーラン………29-30p
コーヒータイム………………30p
サークル紹介・31p
街角の肖像昧…………31p+32p
僕の好きなMONO…32p
芝居三昧……32p
編集日記・購読会員名簿……33p

【本文抜粋記事】

■田中正造番外編 

●今回は、生家を中心に紹介したいと思う。

@生家墓地
田中正造1913年(大正2年)七十三才で死去。
カツ夫人1936年(昭和11年)八十八才で死去のあと合葬。

@浄蓮寺
 田中家の菩提寺。本堂は格調高い優れた建築だったというが最近に再建された。

@人丸神社
 学業成就、交通安全祈願は霊験あらたか。梅原猛夫妻も参拝したとある。
 正造が、江刺県(現在の岩手県)で獄中にあったとき、カツ夫人が夫の安泰を願掛けしたという。

@堀米地蔵堂
二十九才(明治2年)の時六角家騒動により、小中村を一家追放され手習塾を開く。
 正造は当時を振り返って「正に是人生無量の楽しみ、予がひっせいの生活中この時の如き興味多きは、あらざるべし」と述懐している。また、佐野町万座での講演会のあと木下尚江らが正造にねだって生家へ向かう途中、ここに立ち寄り榎の大木を見上げて「手習師匠の頃は、子供の手ほどであったのだが」とひとりごとをつぶやきながら懐かしんだそうである。現在はは菊川町公民館となっているが、地蔵堂と榎は当時の面影を残している。

@惣宗寺
田中正造自由民権運動の時代の本拠地。死後は本葬が行われた。 同寺には、石川啄木が当時盛岡中学三年在学中だったとき、正造の直訴の感動を三十一文字に託した、
「夕川に葦は枯れたり
血にまとう民の叫びの
など悲しきや」の碑がある。




こならの森 12号

2008-03-20 | 創刊~100号
     12号1989.2.1発行

表紙「ミに見える雲の写真」

●目          次●
看板娘・カラムコラム………1
トピックス…渡辺早苗さん…2
【特集】バイリン・ガールその2…6-9p
ヒストリー・トリップ………10-13p
インタビュー…藤波一博……14-16p
美容と健康・ストレッチング17p
サークル紹介・海外旅行入門18
ブックス・テン絵本の紹介…19
インホメーション……………20-21p
危険な道路をぶっとばせ……22p
モータースポーツ……………22
アウトドアー…………………23
僕の好きなMONO
…………スイング・トップ…24p
タイムスリップ………………25p
協賛店マップ…………………26-27p
結婚しました…………………28
街角の肖像・芝居三昧…11…29
センチュリーラン・コーヒー30-31p
こなら通信・購読者名簿……32


【本文抜粋記事】

●危険な道路をぶっとばぜ!  パート2

背後から狙われている

《ブッ飛ばしたい、ルールを守りたくない》これは自分勝手な人の心理である。しかしこう述べてから驚いたことは、なな、なんと、これは自分のことではないかということだ。まったく笑い草ではあるがこのことが正解だ《誰もルールを守らない危険な中を走っている》という現実のあかしではないだろうか。 だが、そのお陰で私は回りの車のやりたいことが判るのだという気がする。他人の自分勝手を読みとる。容易ではないが常にこれを把握するのだ。ブッ飛んでくる車やバイクは必ず背後に現れる。ルームミラーは欠かせない。本当頻繁に見ていたいものである。もしそうした車が現れたらできるだけはるか後方にいるうちに確認しておきたい。走りっぷりでその人の性格が読み取れる。アッという間に飛んできて接近するようであれば左に合図をすることもよい方法である。するとすごい勢いでグオッという音と共に私を追い越していなくなってしまうのだ。私はただ「さよなら頑張ってネ」と手を振るだけ。合図というものは素晴らしい。上手に使えば危険な車をシャボン玉を割るようにものの見事に消してくれるのだ。車の合図は基本はここにある。 車のトラブルは思いのほか後続車が関係しているものが多い。ブレーキにしても基本的には前でなく後ろが危ないのだ。ピタリ追従してくるたちの悪い後続車を腹を立てさせることなくフワッと止めさせるのである。さりげなくミラーに目をやり《柳に風》の如く。そして後続車が自分でうまいと満足すれば大成功。車間距離とはそのために多く必要なのである。特に前方が危険なときというのが落とし穴。前方の危険に目を奪われたときあなたは、背後から狙われているのかも知れない。  つづく