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どうも、こんにちは。
今年(2022年、令和4年)の『霊場魔所の梅』シリーズの第6回目の記事にして。
今年最初の『霊場魔所の桜』シリーズの記事を書きたいと思います。
京都・三条川原。
その周辺の三条や河原町付近は、京都の街の中でも、賑やかで交通量も多い繁華街のひとつです。
またちょっとした桜の名所でもありますが。
しかし同時に三条川原は、実に多くの人々の生命が失われてきたという処刑地だっという歴史もあり、それ故に心霊スポットとしても有名な場所でもあります。
また、このそばに建てられた瑞泉寺は、三条川原で処刑された人々を弔う為に建てられたという寺です。
そんな多くの人々の死に関わる霊場でもある、三条川原の桜と、瑞泉寺の梅を観に行ってきました。
まずは交通アクセスから。
ここは交通の便が良く、京阪電車「三条」駅、京都市営地下鉄「三条京阪」駅、京都市営バス「三条京阪前」停留所など、幾つもの交通機関があります。
この三条大橋の付近は、東海道の古くから交通の要衝でしたが、現在でも。
過去記事のおさらいになりますが。
ここが処刑地であり、また心霊スポットとなった理由も、まさに交通の要衝だったからです。
江戸時代までの処刑というのは、「見せしめ」の意味もあったからです。
現在でも中国や北朝鮮などの独裁国家で行われている公開処刑と同じで、「体制権力に逆らった者はこんなに無残な最期を遂げることになるぞ」という、一種の脅しのようなものですね。
また交通の要衝である故に、激戦地になることもありました。
歴史上で有名な人物だけでも、 平将門、石川五右衛門、石田光成、千利休、近藤勇、そして豊臣秀吉の甥・豊臣秀次とその一族など、数多くの人々がこの地で処刑されています。
その為、現在でも多くの死者の霊がさまよい、いわゆる見える人にはそれが見えるとも言われていますが。
幸か不幸か、私自身は霊能力とか無いようですので、さまよう死者の霊が見えることはありません。
三条大橋東詰か京阪電車「三条」駅から、三条大橋を西へと渡ります。
鴨川河原の名物(?)である、ほぼ一定の間隔で並ぶカップルの姿も。
このカップルがほぼ等間隔に並ぶのも「その間に霊が居るから」という説もあります。面白い説ですが、さすがにこれは眉唾物だと思いますね(笑)。
多分、人間が心理的に適切だと考える距離とかいうものがあるからではないか、と思います。
三条川原の西側へ。
西岸に立つ桜の木の下からも河原と三条大橋とを眺めます。
多くの人々が楽しそうに過ごしているうららかな日。
そんな光景を眺めていますと、この地が多くの人々の命を奪ってきた処刑地で心霊スポットであるなどとは、にわかには信じがたいですが。
「桜の木の樹には屍体が埋まっている」とよく言われるように、やはりこういう場所の桜が一番美しいのかも、とか考えてしまうこともあります。
だからこそ、『霊場魔所の桜』シリーズなどというバカなことを思いついたのですけどね(笑)。
三条大橋西詰からさらに西へ歩き、木屋町通りとの交差点から、木屋町通りを少し南へ下った場所に建つ古刹・瑞泉寺(ずいせんじ)へ。
また過去記事のおさらいになりますが。
ここ瑞泉寺も、三条川原の処刑地としての歴史と付加関係がある場所です。
入江敦彦氏の名著『恐いこわい京都』には、著者が街中のカフェで聞いたという若い女の子たちの噂話によれば、「かつての処刑場だった三条河原には罪人たちの霊が居て、それを連れて帰らないように“そこの角のお寺”(おそらくは瑞泉寺)にお参りするといい」そうですが。
事実、その寺・瑞泉寺は元々、三条河原で処刑された人々の菩提を弔うために。より正確に言えば、文禄4年(1595年)に無残に処刑された、豊臣秀吉の甥・秀次とその遺児・側室・侍女を含む家族39名の霊を弔うために建てられた寺なのです。
門には、TVドラマなどで豊臣秀次の役を演じた俳優たちの紹介が。
豊臣秀次。
あの豊臣秀吉の甥として、秀吉の後継者として豊臣の姓や関白の位までもらいましたが、秀吉と淀君の子・秀頼が生まれると次第に秀吉から疎まれるようになり、文禄4年(1595年)に謀反の疑いをかけられて高野山に追放され、出家させられ、さらにその後すぐに切腹させられてしまいます。
さらにその後、秀次の首が三条河原に晒されたその目の前で、その遺児・側室や侍女を含む39名が処刑されます。打ち首は並んで晒され、遺骸はその場に埋められたと伝えられています。
その後の供養塔は、「殺生塚」とか「畜生塚」などと呼ばれ、長らく放置され、鴨川の氾濫などで荒廃していきました。
処刑より16年後のの慶長16年(1611年)、大堰川や高瀬川の開発を行った豪商・角倉了以(すみのくら・りょうい)がこの塚石を発掘し、菩提を弔う堂宇を建てたのが、この瑞泉寺の始まりである、と伝えられています。
本堂には小さく紅梅のつぼみと白梅の花とが咲いていました。
本堂に礼拝。
処刑された人々を弔ったお堂が。
合掌。
宝塔も梅の花と共に。
境内奥には豊臣秀次と一族を葬った墓が。
ここでも合掌。
豊臣秀吉が秀次だけでなく、その一族郎党をも処刑(というより虐殺)した理由については諸説あるようですが、それにしても人間というのは時として、ものすごくえげつないことをやらかすものです。
秀次一族殺しといい。今から観れば無謀とも思える朝鮮出兵などというもの強行して、結局は自らの政権基盤をも弱めてしまったことといい、晩年の秀吉の言動には、疑念を抱かざるをえないものが観られるようですが。
最近の某国大統領といい、人間とは、絶対権力を持ってしまうと、さらに権勢欲が肥大したり、妄想や猜疑心も強くなったりして、とんでもなく残酷なことや暴力的なことをやらかしてしまうものかもしれません。
妖怪や怨霊の伝承とか、心霊スポットの噂などの背後にはしばしば、こういう人間の残酷さや醜悪さ、それ故の犠牲や悲劇があるものです。
そういう意味も込めて、結局一番恐ろしいのは、生きている人間の欲望や妄想などかもしれません。何というか、ありきたりな結論になってしまいますが、そう考えざるをえないという気がします。
ここを訪れる度に、もの哀しいものがこみ上げてきます。
気が付いたら、境内には梅以外の花も。
境内の花々が出迎え、見送ってくれている。
この花々も死者を弔っている。
そう思いながら・・・というより、そう思うことにして、この古刹を後にします。
今回はここまで。
また次回。
*瑞泉寺への地図・アクセス・周辺地図はこちら。
*瑞泉寺のHP
*『京都妖怪探訪』シリーズ