京都の闇に魅せられて(新館)

智恵光院の六臂地蔵 @ 京都妖怪探訪(769)





(記事中の写真はクリックで拡大します。プライバシー保護等の為、人の顔部分に修正を加えていることがあります)



 どうも、こんにちは。
 今冬某日、京都の妖怪絵師・伝道師の葛城トオル氏によるイベントツアーに参加し、一条戻り橋の他、京都一条から北野までの幾つものミステリースポットを巡りました。
 シリーズ前々回の「一条戻り橋」と前回の「多巳龍神」に続き、智恵光院という古刹に祀られている六臂(ろっぴ)地蔵を紹介します。
 六臂地蔵とは、腕が六本もあるという非常に珍しい地蔵菩薩像です。
 普段は一般に非公開というこの地蔵を紹介すると共に、何故そんな珍しい地蔵菩薩像があるのかという話もしたいと思います。


 前回の「多巳龍神」から、一条通りをさらに西へと歩き続けます。
 そして智恵光院通りとの交差点から、智恵光院通りを北へと進みます。
 しばらく歩きますと、通りの名の由来となった浄土宗寺院・智恵光院の門が見えてきます。





 この古刹の門は、周囲の地面より高い、少し坂道を上ったところにあります。








 この辺りにはかつて、豊臣秀吉の時代に築かれた御土居(当時京都を取り囲んだ巨大な土塁)や聚楽第の堀などがあった名残から、このように地面に高低差があったりします。
 まるで『ブ○タモリ』みたいな話ですが。


 門の脇に立つ案内板にこの寺の由緒と歴史は以下の通り。


>永仁二年(一二九四)に鷹司(たかつかさ)家の祖・関白鷹司兼平(かねひら)が一族の菩提寺として、如空(にょくう)国師を開山に請じ創建したのが起こりと伝えられる。その後、聞益(もんえき)上人によって塔頭が整えられ、流星を極めた。
 享保十五年(一七三○)と天明八年(一七八八)の大火で全て焼失し、漸次再興されたが、第二次大戦中、強制疎開で塔頭四院も廃寺とされ、現在の規模に縮小された。


 寺の由緒と歴史を簡単に見ると、中へ。





 通常は一般には非公開で、檀信徒など関係者以外の立ち入りは禁止されていますが、この時は葛城氏が特別な許可を頂いてくださいましたので、今回こうして立ち入り、撮影して読者の皆様にその様子をお届けすることができました。
 上の写真は、本尊・阿弥陀如来像が祀られている本堂ですが、さすがにそこまでは入れませんでした。


 境内に立つ弁財天堂と。






 そして地蔵堂へ。





 写真に写っているのは、葛城氏と、ツアー参加者の方々です。


 地蔵堂の前に少し変わった形の石灯籠が。





 よく見ると、柱の部分に左右に少し出っ張った部分がありますが。
 この柱は実は、十字架を表している・・・つまりこれは「キリシタン灯籠」というものです。
 つまり隠れキリシタンが居たということです。
 浄土宗の古刹でこういうものが見られるとは思っていませんでしたよ。


 そして地蔵堂の中、目的の六臂(ろっぴ)地蔵が。





 格子で見えにくいかもしれませんが、昔『キン肉マン』に登場した有名な悪魔超人・アシュラマンみたいに腕が六本あるという、非常に珍しい地蔵菩薩像です。
 このような地蔵菩薩像を、誰が何の為に創ったのか。
 地蔵堂の前にこのような案内板がかけられていました。





 作者は、本シリーズでも何度も紹介しました、「この世とあの世とを行き来した」などの伝承を持つ超人、小野篁(おのの・たかむら)という人物です。
 小野篁(おのの・たかむら)は、 木幡山の一本の桜の大木から、仏教の六道(天道、人道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道)を表した六体の地蔵菩薩像を刻み、木幡の里(大善寺)に祀りました。それから後の後白河天皇の時代、都で疫病が流行した時、疫病退散、福徳将来、王城守護などを願った後白河天皇は、1157年(保元2年)に都の6つの出入り口にこれらの地蔵尊像を祀るように、平清盛に勅命を出します。清盛はそれぞれの入り口に六角堂を建てさせ、「廻り地蔵」と名付けました。
 これが、京都の「六地蔵」です。現在でも毎年8月22日・23日に行われる「六地蔵巡り」の風習が、そこから始まったとされています。
 しかし六地蔵巡りというのは、結構時間がかかって大変です。
 本シリーズでは、第209回から第216回の時に、実際に六地蔵巡りをやってみました。その時は、京都市営バス・地下鉄などの交通手段を使って、ほぼ丸一日かかりました。
 しかし六地蔵巡りが始められた当初は、現在のように近代的な交通手段はなかったので、ほとんどの人や徒歩や馬、牛車などで回っていたのですから、さぞかし大変だったと想像します。
 そこで、六地蔵全てを巡るのが大変な人たちの為に、六地蔵を創った小野篁が、その臂(ひじ)が異なるところに着目し、その六本の臂を全て付けた地蔵を創り、その地蔵一体に礼拝するだけで六地蔵全てを巡ったのと同じ功徳が得られるようにしたそうです。


 考えてみれば、こんなに凄い功徳がある貴重な地蔵尊を目にして拝むことが出来るとは。しかも普段は非公開となっていますので、通常なら得ることの出来ない貴重な機会も得られたのです。
 あっ、それと。
 


 この他にも、その日のツアーでは、葛城氏の案内で様々なスポットを巡りました。


 シリーズ第356回第357回で紹介しました浄福寺・護法大権現にも。








 京都を大火から救ったという天狗が降臨したという大木も。





 そして昔はその穴から、天狗が棲むという鞍馬山が拝めたという石碑。





 石碑の下には妖怪「鵺(ぬえ)」のような石像も。






 上七軒の寶樹寺と虫除八幡宮と。








 龍が生んだ9頭の神獣・竜生九子のうち一匹で、重いものを背負うことを好むという「贔屓(ひいき)」が居ます。



 シリーズ第302回で紹介しました東向観音寺。





 ここには「呪いの土蜘蛛灯籠」があることは、知る人ぞ知る話で、過去記事でもとりあげたことがありますが。





 葛城氏のお話によれば、実はこの東向観音寺には、土蜘蛛の霊よりもさらに恐ろしい存在が、強い怨念を抱いた霊が葬られているというのですが・・・それについては、ここでは言わないでおきましょうか。
 葛城氏から直接聴かれるか、或いは氏主催のイベントに参加されて、その答えを確かめていただきたいと思います。



 最後に、北野天満宮(※勿論、本シリーズ『菅原道真関連エントリー』で何度もとりあげたことがあります)の境内に遺された「太閤井戸」へ。





 天正15年(1587年)に関白となった豊臣秀吉が、九州平定と聚楽第(じゅらくだい)造営を記念し、北野天満宮で北野大茶湯(北野大茶会)を催した際、この井戸の水を茶点てに使用したと伝わっていますが。
 ここでも葛城氏の説によれば、「この井戸が創られたのには実は、隠された理由と秘密がある」とのことですが。
 こちらについても、ここでは言わないでおきましょうか。
 葛城氏から直接聴かれるか、或いは氏主催のイベントに参加されて、その答えを確かめていただきたいと思います。


 最後は北野天満宮前、今出川通り沿いにある蕎麦屋「田舎亭」にて、名物の「紅梅そば」を頂きました。






 今回も、楽しく充実した、霊場魔所巡りでした。
 ところで、2022年の目標のひとつ「本シリーズで新規スポットの記事を最低でも15以上、出来れば20以上書く」で、今回は3本目。目標達成まであと12本。





 今回はここまで。
 この続きまた次回。





*智恵光院の周辺地図・アクセスはこちら




*葛城トオル氏のTwitter
https://twitter.com/yokaido




*『京都妖怪探訪』シリーズ
https://kyotoyokai.jp/




ふるさとを守る脱米救国バナー ふるさとを守る脱米救国バナー



岩上安身責任編集 ? IWJ Independent Web Journal



2ちゃんねる から子供たちを守ろう!

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

※ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「妖怪スポット」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事