どうも、こんにちは。
シリーズ前回からまた間が開いてしまいましたが、ぼつぼつと再会していきたいと思います。
今回は、京都市山科区小山地域の音羽川のほとりに祭られている「二の講」をとりあげます。
藁などで作られた大蛇を「山の神」として奉り、五穀豊穣や無病息災を祈るという一種の農神祭でしょうか。毎年2月9日に行われ、京都市の無形民俗文化財にも登録されている伝統行事です。
今から700年ほど前の正和2年(1313年)、この地域を荒らし、内海浪介景忠という武士に倒されたという大蛇の伝説が伝わっています。その大蛇の祟りを恐れた人々が、藁で作った大蛇を祭ったのが、始まりとされています。
妖怪伝説。怨霊信仰。五穀豊穣を祈る農神祭。大蛇とそれを倒す勇者の伝説。そして、その背後に見え隠れする抗争の歴史と、その敗者として葬られた人々の存在。等々。
これほどまでに興味深い要素がいくつも揃ったものが、しかもこの京都に存在する。
これは本シリーズで、是非とも取り上げなければならない。
そう思ったら、いてもたってもいられなくなりまいして、前日からの夜勤明けで疲れていた身体にむち打って、取材に行ってきました。
まずはいつもの通りアクセスから行きたいと思いますが。
かつての小山村(現在の山科区小山地区)は、電車などの公共交通があまりないようです。バスの便も少ないようですし。
以下に、地図の写真を載せておきます。
この地図は、JR・京阪電車・京都市営地下鉄の山科駅の入り口付近にあった地図を撮ったものです。
鉄道では、京阪電車・京津線の「四の宮」駅が一番近いようですが、それでも歩いて2~30分はかかります。
バスでは、京阪バスの「小山南溝町(こやまみなみみぞちょう) 」停留所が一番近いようですが、便数が少ないので、あまりお勧めはできません。
まずは大蛇が作られる公民館、「小山総合センター」を目指すといいでしょう。タクシーを利用される場合でも「小山総合センター」と言えばいいと思います。
今回私は、京都市営地下鉄の「東野」駅から、国道1号線をしばらく東に歩き……。
住宅街の中を迷い、途中で近隣の方に何度も道を尋ねながら……。
何とか、大蛇を作っているという「小山総合センター」までたどり着くことができました。
なお道中、藁の大蛇が山の神として祭られている場所にも、少しだけ立ち寄ってきました。
毎年2月9日に、それまでの大蛇は焼かれ、新しい大蛇に取り替えられるそうです。
ところで、音羽川ほとりのこの場所も、元は田畑が広がっていたと思われますが、最近になって駐車場にされてしまったようです。駐車場の地面は、まだ新しいアスファルトに覆われていました。
嗚呼、これもご時世か。ここにも都市化の波が。
などと、正直、少し寂しい気持ちにもなりましたが。
さて、話を小山総合センターに戻します。
センターのグランドでは、既に大蛇の製作が始まっていました。
まず機械にかけて柔らかくした藁を編んで、大蛇の頭と胴体を作ります。
全長十数メートルの大蛇になります。
竹をつぶし、松と樒(しきみ)を付けた大蛇の足を13個作ります。
大蛇の胴体にそのうちの12個を付けます。
大蛇の製作をしておられた地元の方のお話によれば。
12個の足を付けるのには、「干支と同じ数をつける」などといった、神道か、風水か、陰陽道に通じる呪術的な意味があるようです。
残りひとつの足は、音羽川の水源地に祭られるそうです。
さらに「何故、わざわざ蛇に足を付けるのですか?」と尋ねた見学者の方もおられましたが。そうしたら、「それは聞くのは野暮ってもんですよ」と、うまく笑ってはぐらかされましたが(笑)。
おそらくは。蛇に足を付けるのにも、何らかの意味や理由があったはずですが。長い年月のうちに忘れられてしまって、今では誰も知らないようです。
大蛇に夏みかんの眼をつけます。
大蛇の頭を赤く染めます。
これは「酒に酔っている」状態を表すしているそうです。
「うわばみ」という言葉もあるように、また日本神話のヤマタノオロチ伝説にもあるように、「蛇は酒好き、酒に弱い」と考えられているようです。
最後に大蛇に甘酒を飲ませます。
私が見た時には、麹(こうじ)を丸ごと大蛇の口に入れていました。
ところで地元の方が、見学に訪れた小学生くらいの子供たちに、この祭と、その由来について解説されていました。
この地の内海家(おそらくは大蛇を退治した勇者・内海浪介景忠の子孫)に伝わる「内海家文書」と、内海家に伝わる伝説を描いた絵図を使って、解説されました。
写真の方が持っておられるのは、内海家に伝わる絵図の縮小コピーです。オリジナルは畳一畳分ほどの大きさがあるそうです。
私も一緒に解説を聞き、さらにこの方にお願いして、内海家文書と資料のコピーを譲っていただきました。
それによれば、大蛇退治伝説のあらましはだいたい以下の通り。
ちょっと長いですが、解説します。
昔、聖宝という高僧が醍醐山に開基したという霊場に「蛇谷」という場所がありました。
そこには古くから、数十丈の大蛇が住み着いていました。
その大蛇、普段は山野の動物を食べていましたが、それでも飢えがおさまらない時は付近の住民や通行人を襲って食べたので、数え切れないほど多くの犠牲者が出ました。
第94代・花園天皇の時代、正和2年7月3日、大蛇は牛尾山の麓・蛇が淵に来て、昼夜かまわず眠り続け、そのいびきは広く付近一帯に響きわたりました。人々は恐れをなして、牛尾山観音の参拝者も来なくなります。
その時、内海山城守の血を引く内海浪介景忠という剛勇無双の武士が、大蛇退治に立ち上がりました。
景忠は特に弓術に優れていたので、まずは大蛇が寝ているところを、弓矢でその首を射抜きます。大蛇は驚いて辺りを見回しますが、さらに景忠は矢で射抜きます。大蛇はなおも辺りを見回しますが、景忠は東の山原に回って大きな岩を投げつけて、遂に大蛇を倒します。
不思議なことに。その日一日、有名な清水寺・音羽の滝の水が赤く染まりました。
大蛇の死骸は小山の里まで運ばれ、そこで晒されました。話を聞いて多くの人々が、大蛇の死骸を見に来ましたが、あまりにも多くの人々が訪れたため、田畑や山林までも踏み荒らされることになってしまい、仕方なく大蛇の死骸を里の下に降ろして焼き払いました。
大蛇の死骸を焼いた土地は「焼芝」と呼ばれるようになりました。
その後、大蛇の祟りか、里は大雨と洪水に見舞われます。
景忠本人も、足に蛇の鱗が着いて激痛に襲われますが、医療や祈祷なども効果なく、苦しみ続けます。
7月10日の暮れ、そこへ一人の老人が来て言いました。
「わしは近くに住む医者である。汝は比類なき高名にして、観音様の参詣者を救った仁者である。だが蛇の鱗の毒に侵され、このままでは今夜中に死に至るだろう。
そこで汝に、秘薬の製法と、竜宮界の黄金を授けよう。この製法で調合した薬を飲みなさい」
そう言い残して、老人は姿を消します。
景忠は「これは観音様のお助けに違いない」と、すぐに製法どおり作った薬を飲みますと、熱が下がり、心も落ち着きを取り戻し、元気を取り戻しました。
この薬は牛尾山観音の霊験の薬・「則金屑丸」と号され、その製法は一子相伝の秘伝として内海の子孫に伝えられたそうです。
以上が、内海家文書に書かれた大蛇退治伝説の内容です。
資料と文書のコピーを読んでいるうちに、大蛇が完成しました。
この後、神事と「山の神」巡行が始まりますが、記事が長くなりましたので、今回はここまでにします。
この続きは、シリーズ次回にて。
*二の講(「山科図書館だより」より)
http://www.kyotocitylib.jp/yamasina/1003Yama.htm
*小山「二の講」及び小山総合センターへの地図・アクセスはこちら。
*京都妖怪探訪まとめページ
http://moon.ap.teacup.com/komichi/html/kyoutoyokai.htm
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