今回は宇治まで行ってきました。
その目的はふたつ。ひとつは、平安時代の有名な妖怪「橋姫」の伝説ゆかりの地を訪れるため。もうひとつは、日本史上有名な3大妖怪の遺体が封印され、鵺退治の英雄・源頼政が葬られているという宇治平等院を訪れるためです。
今回はまず、そのうちのひとつ、「宇治の橋姫」伝説ゆかりの地である宇治橋を訪れます。
「橋姫」とは、元々は橋を守護する美しい女神であったとされています。
古来より日本では、水辺や橋には神様が居ると考えられてきました。特に橋は「外界・異世界との境界」であると考えられてきました。
しかし後世になってその信仰が衰えてくると、橋姫について様々な説話や伝承などが生まれてきます。かつて神様として崇められてきた存在が、妖怪とされていくパターンで、橋姫伝説のそのひとつということでしょうか。
そのうち最も有名なのが、『平家物語』の読み本系異本の『源平盛衰記』「剣巻」などに記されている以下ようなの話です。
嵯峨天皇の時代、ある貴族の娘が深い嫉妬にかられて、妬ましい男女を呪うために「私を鬼に変えてください」と貴船神社に7日間祈ります。
貴船明神は哀れに思って、「本当の鬼になりたければ、姿を変えて宇治川に21日間浸かれ」と告げます。
(※いくら可哀想だったからといっても、こんな邪悪な願いを聞き入れるとは。古い多神教の神様の倫理観・善悪観は、西欧的な一神教などのそれとは異なるようですね)
その娘は都に帰ると、髪を5つに分けて5本の角とし、顔から全身を赤く染め、鉄輪(鉄の輪に三本脚が付いた台)を逆さに頭に載せ、その三本脚に火を灯し、さらに両端に火を灯した松明を加え、毎夜大和大路を南へ下って、宇治川に浸かり続けます。
その姿を見た人は、恐ろしさのあまりショック死してしまったそうで、そのようにしてついに娘は、本物の鬼女になります。これが「宇治の橋姫」です。
橋姫は、妬んでいた男女とその親類縁者を皆殺しにしてしまいます。
この事件があって都の人々は、申の時(15~17時ごろ)を過ぎると家に人を入れることも外出することもなくなったと伝えられています。
この後日談も、「安部晴明に退けられた」とか、「源宛・妖群Δ療亙婢法・篥超盪・砲茲辰禿櫃気譴拭廚覆匹僚・發・△蠅泙后」
後に、謡曲などになった「鉄輪」伝説(シリーズ第4回も参照)の元にもなりました。
また、橋姫が行った呪い儀式のイメージから、現在も続く「丑の刻参り」が作られたとも考えられています(シリーズ第138回なども参照)。
では、それほどまでに有名で、後世の文学・文芸やオカルトなどにも影響を与えたという、「橋姫」伝説の地を訪れてみます。
JR・奈良線の宇治駅、ますはここからスタートします。
この時ちょうど、このようなウォーキングのイベントも行われていました。
ここから宇治橋への向かいます。
JR・宇治駅からは宇治橋までは、ほぼ北東の方向へと歩きます。
奇しくも、「鬼門」と呼ばれる方向です……。
いかにも、古い町・お茶の町といった感じの、町屋の風景が並びます。
宇治橋の西詰に到着します。
元々橋姫は、大化2年(646年)から橋の守護神として、宇治橋中ほどにある現在「三之間」と呼ばれる場所に祀ったのが始まりとされています。
その後橋姫神社は、三之間から宇治橋の西詰(つまりこの写真の辺り)に移されたそうですが、明治3年に洪水で流失し、明治39年に現在の場所に移転されたそうです。
なお、現在の橋姫神社については、シリーズ次回で改めてとりあげます。
橋の西詰めにある、紫式部の像。
ここは、『源氏物語』の第45帖、第三部の一部「宇治十帖」の第1帖『橋姫』に因んだ場所でもあるのです。
本巻の巻名は薫が詠んだ和歌「橋姫の心を汲みて高瀬さす棹のしづくに袖ぞ濡れぬる」に因んでいるそうです。
宇治橋の下の様子です。
たまたま、家族連れが記念撮影している様子も写ってしまいました。
橋を渡ってみます。
伝説にもあるように、橋姫は非常に嫉妬深いので、「仲の良い男女を嫌い、不幸にする」という伝説もあり、現在でも婚礼に向かう新郎新婦などは、この橋を避けるそうです。
また、この橋の上で他の橋を褒めたり、または女の嫉妬をテーマとした『葵の上』や『野宮』などの謡曲をうたうと、必ず恐ろしい目に遭うという言い伝えもあるそうです。
この言い伝えが本当かどうか、試してみる……ほどの勇気は、私にはありませんでしたが、さすがに。
なお読者の方の中で、この言い伝えが本当かどうかを試してみたいという方がおられるかもしれませんが。
「結婚式の時に渡ってみる」とか、「他の橋を褒めてみる」とか、「『野宮』や『葵の上』をうたってみる」とか、あるいは「美川健一の『愛は嫉妬』など、嫉妬をテーマにした歌を歌う」などといった行為を、この橋で試してみたいという方がおられたら……。
何もなければそれでいいのですが、万が一にも悪い結果になったとしても、当方は責任を負いかねますので、試したい時は各自の自己責任で行ってください。
ここが、橋のほぼ中央。
最初に橋姫が祀られていたという「三之間」のようです。
人の罪や穢れを洗い流す女神とされる瀬織津比鵝覆擦・蠅弔劼瓠法」
上流の櫻谷に祀られていたこの女神を、この場所に祀ったのが始まりとされています。
そういえば、シリーズ第121回の「鈴鹿山」で祀られていた女神(あるいは美少女魔王)も、「瀬織津姫命(せおりつひめのみこと)」と呼ばれていたのを思い出しました。
元々は同一の存在だったのでしょうか?
もっとも多神教の神様というのは、優しく慈悲深かったと思えば、ものすごく意地悪で残酷なこともやってのけたりなど、様々な顔や側面を持っていたりするものですから、こういうことは珍しいことでもないかもしれません。
橋姫のように、元は神様だったのに、後世には悪魔や妖怪として見られるようになるのも、そう珍しいことでもないかもしれません。
なお、「美男が三之間から川を覗くと、橋姫に川へと引きずり込まれる」などという言い伝えもあります。
私はこのとおり、三之間から川を覗きましたが……橋姫さんに引きずり込まれたりはしませんでした。
いつも持ち歩いている魔除け・厄除けのお守りの効果があったからなのか?
それとも、やはり私は美男でなかったため、橋姫さんから全く相手にされなかったからなのか?
うーん。
ほっとしたような、何か悲しいような、複雑な気持ちになります(苦笑)。
この他にも、『御伽草紙』や『山城国風土記』などには、「竜神に夫を奪われた貴婦人」としての橋姫の話も残されています。
このような「戻ることのない、訪れることのない愛する人を待ち続ける女性」としての、橋姫のイメージもわりと古くからあったようです。
『古今和歌集』巻一四にある次のような歌があります。
さむしろに 衣かたしき 今宵もや われを待つらむ 宇治の橋姫
(筵の上に自分の衣だけを敷いてひとり寝ながら、今夜も私を待っているのだろうか宇治の橋姫は)
また、『源氏物語・橋姫』で薫が詠んだ和歌「橋姫の心を汲みて高瀬さす棹のしづくに袖ぞ濡れぬる(橋姫のようにこの山里で暮らしているあなたを思うと 涙で袖が濡れてしまいます)」も、「来ぬ人を待つ女」としての橋姫のイメージがあるようです。
橋の上から見た、宇治川の様子です。
写真でおわかりいただけるかどうかはわかりませんが、橋の下では激流が渦巻いています。
水神か、竜神か、妖怪でも居そうな感じもしました。
様々なイメージでとらえられている橋姫ですが、こういった人間にとって危険で激しい側面も持つ川などの自然から、このような超自然の存在が想像されたのかもしれない。
そんなことも考えてしまいました。
さて、記事もそこそこの長さになりましたので、今回はここまで。
シリーズ次回は、現在の橋姫神社を訪れます。
*宇治橋へのアクセス・周辺地図はこちら。
*京都妖怪探訪まとめページ
http://moon.ap.teacup.com/komichi/html/kyoutoyokai.htm
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