京都怨霊めぐり……もとい、『京洛八社集院めぐり』のひとつ目は、文子天満宮です。
これは、平安時代に大怨霊として、荒ぶる天神(雷神)として恐れ、敬われた菅原道真の霊を祀った神社のひとつです。
菅原道真について、まずは簡単に説明を。
平安時代の貴族。学者、漢詩人にして政治家だった人物。
承和12年(845年)に、参議・菅原是善の三男として生まれる。幼い頃、若い頃より詩歌や学問で優れた才能を現す。
宇多天皇の絶大な信任を受けて、異例の大出世。次の醍醐天皇の代でも重用され、改革に乗り出そうとした。
しかし道真の改革は、当時の権力者である藤原氏などの反発を買い、さらに学者仲間からすら孤立。
延喜元年(901年)、左大臣・藤原時平らの讒言によって謀反の嫌疑をかけられ、九州の大宰府に左遷される。
延喜3年(903年3)左遷先で病に倒れ、無実の罪を晴らすことなく死んでしまう。
その後都では、火災、飢饉、疫病等の凶事が相次ぎ、さらに延長8年(930年)に内裏の清涼殿に落雷し、炎上するという事件まで起こった。この中で、道真追放に関わった者たちが次々と晴明を落としていく。
一連の凶事や災厄は、道真の怨霊の仕業だと考えられ、神として祀られるようになった。
現在では、学問の神様として、多くの人びとの信仰と崇拝を受けている。
以上が道真について。
道真が大宰府に居た頃、自らの無実を主張した祭文を作って、近くの天拝山に登って、七日間天に向かって訴え続けたところ、その祭文は天に舞い上がり、道真は生きながら「天満大自在天」という神になったという逸話も残されています。
それでは、話を戻して文子天満宮を訪れてみます。
所在地は、京都駅から歩いて10~15分くらいの場所。こちらです。
天満宮の入り口付近です。
入り口脇にある石碑。
「天神信仰発祥の地」と書いてあります。
道真の霊を祀った神社は多くありますが、文子天満宮はそれらの中でも、最初に道真の霊を「天神」と祀ったというところから、「天神信仰発祥の地」だとされています。
道真の乳母をつとめていた多治比文子(たじひのあやこ)という女性は、天神となった道真から「我を右近の馬場に祀れ」という託宣を受けます。
しかし文子は貧しかったので、社殿を建立することができず、自宅の庭に小さな祠を建てて道真の霊を祀りました。
これが文子天満宮の始まりとなり、道真の霊が祀られるきっかけをつくったとされています。
その後北野にも祠が設けられ、それが有名な北野天満宮のはじまりです。
北野に移された後の文子の住居跡が、文子天満宮となり現在に至っているそうです。
門の脇にあったしだれ桜です。
残念ながら、この時はまだ見頃ではなかったようです。
門の両脇にあった、天神の使い・牛の像です。
天神や、菅原道真を祀っている神社には、狛犬や唐獅子などではなく、牛の像が置かれています。
門から中に入っていきます。
門から入ってすぐ左側にある手水舎です。まずはここで、手を清めてからお参りですね。
正面の本殿前です。
まずはここでお参りしてから、ですね。
本殿左側の「文子殿」という建物です。
「良縁祈願」ということは、道真だけではなく、文子自身も縁結びの神様として祀られているのでしょうか?
本殿の右にも、末社としてこういう神様が祀られていました。
ただ、ここでひとつ失敗。
この横にあった「相生のご神木」をきちんと写し損ないました……。あちゃあ……。
末社と文子像です。
ただ……。
道真の乳母だったという多治比文子さん。道真が亡くなったのは彼が60歳近くの時。その後託宣を受けたというのなら、かなりのお歳になるはず。
この像は若い頃のお姿でしょうか?
あっと、失礼しました。どうでもいい、細かいことでした。
(2010年6月14日追記:多治比文子については、巫女説や童女説もあるそうです。)
本殿の右側奥にある「北野天満宮遥拝所」の碑です。
文子はここから北野天満宮の方を向いて拝んだとされています。
そのさらに奥にある「菅公の腰掛石」。
道真が左遷先の大宰府への出発前、腰をかけたと伝える腰掛石だそうです。
なお、この文子天満宮ではこんなサービスもしているそうです。
面白いですね。
この後も『京洛八社めぐり』の旅等で、道真関連の場所をいくつも訪れることになりますが、天神信仰及び道真の怨霊伝説が平安京に及ぼした影響の大きさに驚かされることになります。
では、今回はここまでにしましょう。
*京都妖怪探訪まとめページ
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