九重自然史研究所便り

昆虫採集と観察のすすめ

晩秋の琵琶湖博物館庭でヨシを食べていたヒメジャノメ幼虫の経過

2016-01-12 22:26:03 | 日記

晩秋の琵琶湖博物館庭でヨシを食べていたヒメジャノメ幼虫の経過
 2015年秋から琵琶湖博物館の武田滋さんがヨシを加害する昆虫を研究し始め、まず琵琶湖岸にある琵琶湖博物館の庭とその付近のヨシから調べはじめた。彼は甲虫の専門家なのでヨシを叩き網採集法で調べると鱗翅目幼虫もかなり落ちてくるからそれらは私が調べた。もちろんヨシについていたすべての虫がヨシを食草としているのではない。まず届いた幼虫はヤガ科のナシケンモン、キバラケンモン、オオケンモンの幼虫で、彼らはヤガ科の中では特異な毛虫型幼虫である。その3種の幼虫はヨシを食べず、おそらくヨシの上を覆っている広葉樹の葉を食べていたものらしい。一番普通種のナシケンモン幼虫は違った場所でも何度もヨシの上で見られた。
 今回の調査でたしかにヨシを食べることがわかった鱗翅目幼虫が二つあった。その一つはヨシの葉を重ねて巻いた巣の中に入っており、届いた時点ではもう十分大きくなっていたがそのまま冬を迎えてしまった。おそらくイチモンジセセリの幼虫らしい。
 もう一つはこの章に記録するヒメジャノメの幼虫である。この幼虫が届いたのは武田さんが調査を始めた次の日である2015年10月26日であった。その幼虫は図版の写真1-2(10月27日撮影)に示す茶褐色で背線がありまた体側に黒斑があり、頭部に角、尾端は二本の突起があった。その時点の体長は19mmであった。おそらくジャノメチョウ類の幼虫だろうと思った。私は昔から見かけたチョウの幼虫も50種近く飼育した経験があるが、特定の種に目をつけて探すことはしなかったから、ジャノメチョウの幼虫は卵から飼育したヒメウラナミジャノメと、最近、虫仲間の中川・武田両氏から提供された博物館の庭のススキで発生したクロコノマ幼虫を飼育しただけで、これは3例目なのだ。
 ヨシの幼虫を飼育しはじめた頃から我が家があるエルシティ草津弐番館はリニューアル工事、つまり足場を組んで7階建ての建物全体を白い蚊帳のような布で覆い塗装などの作業が始まった。そのため幼虫は室内飼育つまり私の部屋の中で飼育することになった。我が家は一階なので小さな庭が付属しているのだが、その庭も作業で人の出入りがあり飼育容器を外に出して自然状態で観察することができなくなった。秋の飼育では日長時間が羽化時期に影響する場合があるので、観察や写真撮影をなるべく日中に済ませ、飼育容器を外に出しておくようにして自然に近い昼夜の長さを保ちまた外気温の変化も屋外の状態に保つようにしている。しかし今年はそれができず室内で飼育することになった。だからヒメジャノメの幼虫も室内観察であるが、写真1-2の状態が長く続き小さな糞が落ちているから摂食していることは間違いないがなかなか成長しなかった。しかし11月15日脱皮して写真3-4に示す緑色の幼虫になった。多分、採集時は3齢幼虫で脱皮して4齢になったらしい。11月27日写真5-6を撮影した。そのころ終齢になったと思われるが脱皮を確認していない。12月初めに工事が終わったので幼虫を外に出した。12月に入ってからは時々餌を補給していたが幼虫のままなので幼虫越冬するのかと思ったが、12月26日見たときは蛹になっていた(写真8-9)。体長15mmであった。
 原色日本蝶類生態図鑑IVによれば通常4齢で越冬するとある。その通りだと思う。しかし本種の飼育経過はチョウの飼育としては異常であった。あまり餌を食べず、終齢になってからも長い時間をかけて成長し、幼虫で越冬するのかと思われたが蛹化した。おそらく本来の季節の移り変わりを正しく捕捉できず、迷った末にやっと蛹化したように思える。「幼虫越冬する昆虫の幼虫が年内に蛹化した場合は、春を待たず羽化する」という寄生性のハエやハナアブなどにも適用できる私の経験から導かれた法則がある。だからこの蛹はそのまま室内におき羽化を待っていると2016年1月11日蛹が黒くなり12日朝♂が羽化した。

1968年の阿蘇・九重の登山について

2016-01-12 09:47:07 | 日記

1968年の阿蘇・九重の登山について
 長崎大学熱帯医学研究所の助手をしていたころ、九州自動車横断道路が開通し長崎→阿蘇→久住高原→飯田高原→別府を往復するバスが走るようになった。長崎からそのバスで大分県久住町(現在竹田市久住町)にある九州本土の最高峰九重山1787.9mに登った。この登山は1968年8月21日から24日の日程であった。それは研究室で私の仕事を手伝い、夕方から定時制高校に通っている女の子と、その同級生の3人連れの山登りだった。長崎マラリアチームの一員としてフィリピンに出発する前の年であった。多分、本当にフィリピン調査が始まれば長引きそうだという予感があり、また日本で落ち着くころはもう彼女は研究所にいないかもしれないと思い、彼女に何かお礼をしておきたいと思って登山を企画し「君の友達を2~3人誘って登ろう」と提案した。彼女は一番の友人を誘った。実際フィリピン調査から帰ったら彼女は高校を卒業し、すでに研究所を辞めていた。彼女に手伝ってもらっていた時も元高校教師の私は宿題をみてやり難題の解き方を教えたこともあった。
 出発した8月21日は地図にある寒の地獄に近い登山口に着いて営林署の九重ヒュッテに宿泊した。食事つき宿泊もあるが3人で自炊つまり飯盒炊飯をすることにした。ここで蛍光灯をぶら下げ蛾を採った。翌22日すがもり越を通って九重山山頂を目指した。硫黄鉱山があり、そのころ採掘していたと思う。
 法華院温泉に泊まり、帰路は大船山1787.1m、三俣山の山頂にも立ったと日記にはあるが、記憶には残っていない。御池の付近からミヤマキリシマが美しかった。カラー写真をたくさん写したと日記にある。多分、そのカラースライドはまだ手元にあるようだ。
 この登山から10年後、1979年4月大分医科大学に転勤し、同時に研究テーマも寄生原生動物学から昆虫学に転向した。そしてマレーシアやインドネシアさらにドミニカ共和国などへ海外出張が多くなる直前まで山岳部の顧問をしていたので学生たちと九重山に2回ほど登り、黒岳や涌蓋山にも登った。最初の登山の印象もどこか卒論研究で滞在した菅平高原と似ており、退官後九重自然史研究所を作り10年そこで昆虫観察に明け暮れた。写真は上からすがもり越えの小屋、九重山頂上、中腹で写した1枚。