続強子の部屋

思いつくまま、気の向くまま、書いています。

八月十五日の思い出

2019-08-15 16:00:16 | 忘れない

74年前の今日はとても暑く、空が青く澄んでいました。

天皇陛下の大切なお話があるので、ラジオがあるお宅に

集まりました。

我が家は3月10日の東京大空襲でラジオが焼けてしまったので

近所のお宅に行きました。沢山の人が来ていました。

天皇陛下の声が聞き取れませんでした。

大人たちが泣いていました。お母さんが泣くのでそばの

赤ちゃんも泣いていました。

しんとして皆自分のうちに戻りました。父があ~と言いました。

仕方が無いね、だけどよっちゃん、はどうなるんだろう。と

戦地の長兄を心配しました。次兄は横須賀にいました。

みんな黙っていました。

よかった自由になるなんて叫ぶ人なんていませんでした。

母はこれ以上空襲が続いたら私たちは、気が狂ったかもしれないね

と小さな声で言いました。

焼け出されて小さな家を借りて、毎晩空襲でした。艦載機は

怖かったです。

それから食糧難で両親は苦労しました。

関東大震災で生き残り、東京大空襲で生き残り、キティ台風で

水害に遭った両親、長男をニューギニアで戦死で失い。

苦労しても頑張って私たちを育ててくれました。

何処にでもあの頃同じような親御さんが沢山いました。

そのような両親に育てられて有り難い事です。

この幸せな命を大切にしなければと思います。

ただ家族を失った子どもたちも沢山いたのです。

両親揃っても苦労したのに、辛い話です。

みんなドラマのように幸せになっていたらと思います。

今日はやっと夫の好きなパトリオットが咲きました。

暑さのせいでなんか花が小さいです。

 

 

 

 

 

 

 


最新の画像もっと見る

4 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
終戦記念日 (好美)
2019-08-15 19:01:07
強子さんこんばんは。

貴重なお話、ありがとうございました。。。
私の母は、六人兄弟の長女で(昭和4年生)
戦時中、家族八人で、焼夷弾の中、逃げ惑い
11歳の弟を亡くしました。。。
その弟の話を、数年前、長男の叔父が、50回忌法要の時に、涙ながらに話してくれた事が、今でも忘れられません。その弟をリヤカーに乗せて、西の方向を見ると、辺り一面焼け野はらの中、5~6キロ離れた
姫路城がくっきりと、見えたそうです。
叔父は、なんとか、弟の50回忌を済ますまで、と
持病も有るなか、頑張って、男泣きに泣きました。

毎年、母方のお墓参りに行く度、今は亡き叔父の涙、
そして、11歳で亡くなった顔も知らない叔父に思いを
馳せながら、手を合わせます。。。

辛く悲しい思いをした、親や子供たち。。。
今の平和に感謝して、毎日を大切に暮らさないと。。。と毎年、この日に改めて考えさせられます。

返信する
8月15日 (遅生)
2019-08-15 19:30:42
こんばんわ。

74年前の様子が、ひしひしと伝わってきます。言葉では尽くせないこともいっぱいおありになるのではないでしょうか。
こんな出来事は、二度とあってはならないと思います。
返信する
こんばんは (続強子の部屋)
2019-08-15 22:57:57
好美さま
あなたのお母さまはきっと長女でしたのでしょう。
頼りになるお姉さまでお母さま代わりもなさって
いらっしゃったと思います。私の長姉もそうでした。
叔父さまはお気の毒でしたね、みんなが辛い時代に
生きてきました。あなたのお祖父母さまも私の両親と
同じ苦労をなさいましたね。みんな必死だったと思います。今の普通の生活が沢山の犠牲の下で成り立っていることを、忘れないようにしたいと思います。
コメント有り難うございます。

返信する
こんばんは (続強子の部屋)
2019-08-15 23:12:36
遅生さま
コメント有り難うございます。
8月15日毎年ブログに同じ事をつぶやいています。
戦争に負けると言うことは、人格まで変えさせられることだと、分かりました。
しっかりしないと我が国がなくなってしまうにもなりかねません。みんな呑気だなと思います。

慰問袋のこと、マッチのこと懐かしく読ませていただきました。
戦争中マッチが大切で、私は触らせてもらえませんでした。一本でも無駄にしないよう母は大変だったと思います。
その後もう使ってよいようになっても、私はマッチが怖かったです。
返信する

コメントを投稿