LIFE IS GOOD! うろうろ人生旅日記

20代はいろんな国を歩き30代はサラリーマン。40で早期退職に手を挙げた。現在訪問69か国+1。只今バンコクで生活中。

すべてが懐かしいカトマンズ

2010年01月24日 | ネパール日記
1/24 カトマンズ
午前中6.5キロもの洗濯物を出しに行った帰りに昔よく行ったルーフトップレストランで朝食。久しぶりに食べるトーストやオムレツをとても懐かしくいただく。

お昼前宿を移動。8ドルか13ドルの宿かで悩みに悩むがホットシャワーが決めてで13ドルに。さすがに夜はちょっと寒いカトマンズ。せめてシャワーぐらいは熱いのを浴びたい。

午後はダルバール広場までお散歩。広場近くのカフェ・スノーマンで食べたキャラメルプリンはかなりおいしかった。なんとなく昔懐かしいプリンの味。このカフェを出ようとドアを開けたらびっくり、ダニー・ファビーコンビがドアを開けようとしていた!!!今夜の食事を約束しインドラチョーク経由で宿に戻りお昼寝。途中で食べたサモサもいけた。

夕方昼寝。

午後7時ダニー・ファビーコンビが宿に登場。ランドリーピックアップ後、韓国料理を食べに行く。味はカトマンズ仕様で正直おいしくなかったが久々にお腹いっぱい食べた。ホントにおいしいものをたべさせてあげたかった。。しようがないけど。彼らは5月頃日本に来るらしいがもてなしてあげられなくて残念である。

ネパール・カトマンズ到着、いきなりカツどん

2010年01月23日 | ネパール日記
1/23 カトマンズ


【さらばガイドブック。悪いけどここに置いて行くよ。重いから。。】


9時半集合し中国-ネパール国境へ。ここでガイドのカルサンとお別れ。やさしくて結構いいガイドでした。29歳とは思えない老けようだったけど。ガイドひとつでそのツアーの印象ってほんと変わるから。お世話になりました。


【国境に向けて歩いていく】

中国出国(バックパックに縫いつけてあるいろんな国旗をひとつずつ確認されても気味悪かったけど。台湾とか意味するものでもあったらやばいのかな)もネパール入国も全く問題なし。3度目のネパールは始めての陸路入国。

国境の町で声をかけてきたジープに乗り込み美しく険しすぎる山ん中を走る。


【数時間後この荷物たちはカトマンズの埃にまみれることになる】


【ネパール最初の食事は出ました!ダルバート!】

標高も3000mをきり山肌に緑が戻ってきた。チベットと比べるといろんな色がとにかく鮮やかだ。途中懐かしすぎるダルバートを昼食に食べた。山を一気に降りていくと逆に気温は熱く感じるほど上がっていった。


【久々の緑が新鮮に映る】

午後1時過ぎ懐かしのネパール・カトマンズ到着。荷台に置かれていたバックパックは砂埃にまみれていた。ここは物価よし、食い物よし、天候よし、のとにかくリラックスするにはもってこいの居心地最高、沈没する旅行者続出のナイスな聖地なのである。

まずは宿探し。前回泊まったところなどを見て回った。結局オランダコンビとは違う宿に泊まることになった。

荷物を置いてタメル地区をぶらぶら。もっと劇的に町の様子が進化(趣味の悪い先進化)してるかな、と思ったけどそうでもなかった。今日とった宿が今ひとつ気に入らなかったのでいくつかゲストハウスを見て回る。

夕食はジャパレスでカツどんと豚肉のしょうが焼き。たぶん12年前も来た事があるところ。あの頃は日本の新聞を読みたくて食べ終わった後も何時間もいたっけ。あの頃はもちろんネットとかなくて読売新聞海外版とかを読み漁るしかなかったよな。

思えば17日にラサに到着して以来ずっと頭痛に悩まされ続けた。ここカトマンズ高度は1500mほど。頭痛もなく寒さに震えなくてもいいこのすばらしさといったら!!!

思えば東京から夜行バスで神戸に向かった日からちょうど1ヶ月。陸路でカトマンズまで無事到着。結構近いな・・というのが正直な印象である。

やはりパソコンはウイルスにやられたらしくデジカメのSDカードをも感染させUSBメモリ内部まで破壊したようである。SDカードを読みこまなくなったのでブログに写真も載せられなくなってしまった。。悲しい。もしかしたらこれまでの写真がだめになったかもしれない。。

インドへ向けて出発

1998年01月06日 | ネパール日記
1月6日 (火) カトマンズ-スノウリ (バス)

遅い起床。シャワーを浴びたついでに靴下などを洗濯。荷物を預けてチェックアウト。朝食はいつもの所でパンを2個かい街ぶらしながら食べた。親に土産として集めているふくろうの置物を買おうと探し歩いた。いろんなところで値段の交渉をし、買った所では300rsの言い値を150rsにねぎって手に入れた。

昼は昨日の所でモモ。ここでホテルの部屋でパスポート、現金3万円取られた日本人がいてぼやきを聞かされた。はがきなどを売って現金をつくっているらしい。俺に言わせれば取られる奴が悪い。かわいそうだけど。

ホテルに戻りビクラム君にビジットネパール98ステッカーを頼み込んでどっかからとって来てもらった。今年はビジットネパール98と題した観光年である。旅行代理店、レストランに貼ってあるのを見てずっと欲しかったのだ。もらってすぐ日記帳に張った。土産物屋にはビジットネパール98シャツが置いてあった。買わなかったけど。

今午後3時、いつも朝食を買うパン屋の2回の屋上でこれを書いている。手紙6通書いた。(ミルクコーヒー20rs)持ち歩いているウォークマンをビクラム君がやたら気に入ったらしく6時まで貸してあげることにした。只今午後4時15分、3度目のHerena‘s Restaurant。つい先ほど今夜のバスが寒かったらまた耐えられないので大判のショールを買った。(350rs)まだネパールルピーが残っているので贅沢することにし、ハンバーグステーキ&ライスをいただいた。さあ、もうすぐカトマンズとお別れである。タメルは殆ど歩き尽くした。「友達、葉っぱ葉っぱ」の声は明日からインドでもっと聞くことになるだろう。

6pm宿の従業員にティンプーをつかまえてもらってニューバスパーク(60rs)へ。バス停は郊外の寂しい所にあった。おんぼろバスはすぐに見つかった。7:30pmバスはスノウリに向けて出発。何と日本人が10名ほどのグループを含めて12,3人もいた。たぶんルートはポカラへいく道と途中まで同じであろう。以前ポカラにいく前にインドビザを取っておけば同じ道を2度も通らなくて良かったのに、と少し後悔した。

パシュパティナート

1998年01月05日 | ネパール日記
1月5日 (月) カトマンズ (HOTEL POON HILL)
崖君と8:30am待ち合わせ。昨夜は毛布2枚と寝袋で寝た。おかげで朝汗をかいていた。

パンをかじりながら約20分間歩いてインド大使館へ。入り口で名前等を書いて中に入り面接官に髪をもらってカウンターAへ提出。この時オーストリア、スゥェーデン辺りからきた3人のジジババがやたら遅く英語もろくに喋れずとにかく時間がかかりいらいらした。1時間ほどかかって外に出ると日本大使館から手紙を取ってきた崖君が待っていてくれた。

ティンプーに乗ってパシュパティナートへ。結構衝撃的なものを見てしまった。ガートでひとが焼かれているのだ。その時は全部で3人。一人はお金持ちらしく橋の上流で焼かれる準備がなされていた。1人は男で体に巻かれている布から足が見え、焼かれていた。もう1人は30~40歳ぐらいの女性、組んだ木の上に布に巻かれたまま置かれたあと、顔の部分の布が取られ、首の部分に火種を置いた。あと体の上にわらを積んで体を覆い隠していた。木の方にも火がつけられ人体は蒸し焼きのようになって白い煙がくすぶり始めた。時間がある程度たつと足の指が開き、水ぶくれてかかとから油が滴り落ちてきた。死体の焼けていく光景はすさまじいものがあった。死についてもいろいろ考えさせられた。しかしこうやってヒンドゥーの聖地で焼かれる人々は本当に幸せなことらしい。始めてみた人の焼かれるさまはすさまじくショックではあったがここには宗教が生活にしっかりと根ざしているな感じた。

ティンプーに乗りタメルへ戻り大きなモモを1皿の昼食。モモ屋近くの旅行代理店でバラナシへのバスチケットを買った。宿に戻り従業員のビクラム君(20歳)と日本語、ネパール語の教えあいをする。彼の要望により、女の子を誘う言葉を教えた。彼の月給は1200rs。驚くほど安い給料だが彼はそこから田舎の家族に仕送りしているそうだ。観光客から金をせしめる時に良く使われる、使い古された話しだが奴のことは信じられた。だからと言ってお金をあげたりはもちろんしなかったが。

3:30pm名古屋の研修センターであったMr.Bistaと電話がつながり久々に喋った。明日暇があったら会えるかもしれないとのこと。4時歩いてインド大使館へパスポートを取りに行く。4:30pm開館。1番乗りで受け取った。明日のバス用にセリーヌディオンのテープを買いホテルでホットシャワーを浴びる。今まで湯が出なかったのは水の方のノブをひねっていたことが判明。

6時崖君と夕食に中華を食べに行く。酢豚、野菜炒め、ご飯、まあまあの味。客はほとんどが日本人だった。周りの人が食べている豪華な食事を羨ましそうに眺めるだけであった。食後、Yak&Yeti Hotelのカジノへ。見るだけということで行ってみたが見てるとどうしてもしたくなりルーレットの椅子についた。30分ほどして1000円ほど勝ったところでやめた。崖君も100rsほど勝った。明日カトマンズを出るので宿の清算。紅茶11杯も飲んでいたらしい。6杯分(x10rs)取られた。ホテルで働く人たちを見て感じたことは上下関係以外にここにもカーストが生きているな、ということだ。へつらうことなくもくもくと言うことを聞いて働いている。

宿1泊4ドル インドビザ(トランジット15日間有効)300rs テープ80rs

エベレスト見た!

1998年01月04日 | ネパール日記
1月4日 (日) カトマンズ (HOTEL POON HILL)

6時15分起床。毛布1枚ではカトマンズは寒すぎる。凍えそうな水で頭を洗い富沢君のホテルウッツェへ。タクシーに乗り空港へ。

9AMのフライト予定であったが霧の為遅れネコンエアー3Z101便は10:50AM飛び立った。右側の座席だった為最初の25分は山見えず。順番に招き入れてもらえるコックピットからは世界最高峰8848mのエベレストが見えた。夢中でカメラのシャッターを切った。だが予想していたほどエベレストには近づいてくれず、あっという間に視界から消えた。

機体が旋回してから座席からヒマラヤの素晴らしい眺望が見え、機内でもらった小冊子で山の名前を確認しながらヒマラヤ山脈を堪能した。すげー、すげー、の55分間はあっというまに終わってしまった。

空港からティンプーに乗りダルバール広場へ。クマリの館にもいったがクマリは姿を見せてくれなかった。見たことがある奴の話しによると愛想の無いわがままそうな娘だとのこと。インドラチョークの辺りをうろうろし、昼食にカレー汁付モモ2皿(1皿12個入り12rs)。ポカラのピリ辛モモのほうがおいしい。今日はもう何もやることが無いので街ブラ。今午後3:15しばらくホテル入り口前の椅子に座ってこれを書いている。

ロビーで仕事を辞めてアジアを周っていると言う25歳の崖君という人に会い夕方いっしょに日本レストランへ。豚肉生姜焼きをたべた。米はネパール産日本米らしく本当においしかった。そこで働いている日本人の叔母様連中も皆物腰柔らかいいい人ばかりで入る時メニューを貧乏人のまなざしで見つめていたらTAX10%まけてあげるというので入ったのだ。味噌汁には紅白のおもちが入っていた。日本の新聞、雑誌がおいてあり3時間も長居させてもらった。(6~9時)

街の本屋で読売新聞衛生版を売っていた。180rsもするので買わずに立ち見。円が1ドル132円まで落ちていた。日本はますますダメだ。宿に戻り、ブラックティーを出してもらい明日インド大使館の他どこに行くのか考えた。(がまだ決まっていない)またホットシャワーが出るということだったので蛇口をひねって数分待ったものの冷たい水しか出てこないので今夜のシャワーはあきらめた。また明日の朝凍えながら髪を洗うしかない。カトマンズでの夕食はいつもいいものを食べている。これからのこともあるので自重しなくては。毛布もう1枚追加してもらった。

ティンプー(空港-ダルバール広場)90rs 豚肉生姜焼き定食200rs

ポカラからカトマンズへ

1998年01月03日 | ネパール日記
1月3日(土) ポカラ-カトマンズ (HOTEL POON HILL)

山中でずっと私の体を支えつづけてくれた竹の棒はとても捨てるには忍びなくポカラにまで持って帰ってきたのだが、カトマンズにまで持っていくわけには行かず、ホテルの従業員に次トレッキングに行く人がいたらあげてくれと伝え渡した。

朝7時半ピックアップバスがホテルの前に来た。バス停で大型バスに乗り換え。このバスがまたとてつもなく寒く黒の野球用ウィンドブレーカーまで着たもののとても暖かくなるまでいかなかった。

バスは川沿いをゆっくりと走り午後2時過ぎカトマンズ到着。以前泊まったHOTEL POON HILLへ。前回泊まった時はそうでもなかったが今回来てみると日本人でいっぱいであった。宿の親父は私に是非地球の歩き方に投稿してくれと言い出す始末。その場で書かせるつもりだったようだが、ネパールの消印じゃまずいだろ、といって断った。

外に出て明日のマウンテンフライトの予約。ネパールの物価と比べての99ドルは本当に痛い。しかし今からナムチェに向かうのは時間的に無理だし、かといってここまで来てエベレストを見ずに帰るわけにはいかない、ということで仕方の無い選択である。街ブラをした後ポカラ-カトマンズ間同時刻の違うバスに乗っていた富沢君というひとと6:30PMHerena‘sRestaurantでおちあいガーリックステーキの夕食。ちょっと前にハンバーガーを食べたばっかりだったので苦しかった。ネパールコンビを物色してホテルに戻った。

アニールモモでカレー

1998年01月02日 | ネパール日記
1月2日(金) ポカラ (HOTEL JHARNA)

8時半起床。朝から洗濯。昨夜からつけおきしておいた白のジャージはまだ汚れが全然落ちてなくもう一度つけおき洗い。他は全部洗って屋上に干した。東京から来た少々疲れた自称プログラマーの人とジャーマンベーカリーで朝食(クロワッサン)。

ホテルに戻って、スパッツ、ジャージーの洗濯。結局ジャージーの汚れはとれなかった。もう下りてきているはずのセシリアを探しにレイクサイドのヘブンズゲイトゲストハウスに。荷物はあったものの彼女はまだポカラに帰ってきてないらしく宿の人にまた夕方7時頃来ると伝えて後にした。お昼はモモ2皿をたまたまそこにいたドラッグ大好きのおじさんと食べた。

2:45pmやることが無いのでまたジャーマンベカリーにいる。ホワイトブレッド(ゴマ付フランスパン7rs)、バナナマフィン(25rs)、ミルクコーヒー(20rs)。パンにたかる蝿がうっとうしい。4~6時眠気に勝てず昼寝。

6:25PMレイクサイドに。残念ながらセシリアはまだ帰ってきてなかった。途中で左近夫妻と再会した。アニールモモでは正月企画として日本カレーを出していた。骨付きチキンカレーであったがこれまたあまりおいしくなかった。ここJHARNA HOTELは従業員のSURESH BISTA君をはじめ、いい奴ばかりで居心地よく部屋のライトも明るいいい宿であった。鈴木ヒロ君とはとうとう会えずじまいであった。梅田さんは今朝インドへ行ったはずだ。

宿100rs

下山。ポカラでお正月

1998年01月01日 | ネパール日記
1998年1月1日(木) ニューブリッジ-ポカラ (HOTEL JHARNA)

お正月。めでたい。昨夜なかなか寝付けず。またいろんな夢を見た。映画のスピードのようなシーンとか、火の吹き出るものを水の中に静めたり、武豊とマルチナ・ヒンギスがパパラッチに追いかけられていたり。

7時半起床。正月の朝。いつものチベッタンブレッドはやめ、コーンブレッド(30rs)にしたが味は一緒だった。あとオムレツ。9時前最後のトレッキングに出発。

10:40am谷にいたので遅かったが初日の出。川沿いを少しずつ下りていく。ここ数日すれ違う人さえいなかったのにここまで下りてくると村村が見えてくるようになり、鶏、やぎ、水牛、犬、あと正月用のカラフルな服(女性)を着た村人。「ナマステ」を連呼するのは久々である。アンナプルナ、マチャプチャレがだんだん遠のいていくのを見ながら、この間まであそこのふもとにいたんだなと思うと不思議な満足感に包まれた。ガイドブックにこの川沿いのルートは分かりにくいのでガイドが必要と書かれていたが、迷うことなく快調に歩くことが出来た。気温もかなり高くTシャツ1枚で汗だくであった。

12時シャウリバザールで昼食。
2pm初日のトレッキングパーミットのチェックポストに到着。10日ぶりにようやく戻ってきた。
2:20pmナヤプルの出発地点に戻る。ようやく10日間のトレッキング終了。とにかく山賊にも会わなかったし、無事に帰ってこれたしABCにも行けたのだから最高だ。ひろ君と握手。久々の果物(みかん)ファンタレモンで乾杯。3時、ローカルバスでポカラに戻る。他3人のトレッカー以外はすべてネパール人。座った席の横のガラスが無く滅茶苦茶寒く、しまいにはいつも山で着ていたウィンドブレーカーまで着込む始末だった。隣の親父はマフラーで鼻をかんでいた。遥か遠くに離れていく山々を懐かしいような不思議な気持ちで見つめながらポカラに向かった。

5:30pmバスからタクシーに乗り継いでダムサイドに。梅田さんも無事に戻ってきていた。両替屋でUS$100両替しひろ君に山の中で借りていた借金を返した。ホテルに戻りチェックインし(シングル)、レンタルしていた服も返した。シャワーを浴び、洗濯物はつけおき、夜はアニールモモでカツどんとドカベン3冊。やっぱりあんまりおいしくなかった。

実家と彼女に電話。計5分で900rsもして大ショックだった。山の中なら3日分の生活費を5分で使ってしまった。宿に戻りロビーで従業員と喋っているとカトマンズのトレッキング会社で働いているおじさんに捉りレストランで茶をおごってもらった。と喋っているとカトマンズのトレッキング会社で働いているおじさんにつかまりレストランで茶をおごってもらった。全身筋肉痛である。

バス(ナヤプル-ポカラ)50rs タクシー(バスパーク-ダムサイド)30rs 両替US$100-6200rs
ひろ君に借金返済1800rs カツどん85rs 服レンタル35rs x10日

ニューブリッジへ

1997年12月31日 | ネパール日記
12月31日(水) バンブー-ニューブリッジ (名前わからず)

8時半とても人のいい左近夫妻にさよならしてバンブーをあとにする。掘りごたつに入れておいた靴下はまだ全然乾いてなく、また靴も冷たいままであった。

バンブーを離れてすぐきつい登り。高度も下がってきてかなり暑く感じるようになった。1時ごろチョムロン着。チョムロン前の階段は最後の地獄の登りであった。何度となく止まっては呼吸を整え、一歩一歩上がるしかなかった。

明日は正月だからだろうか、小学生も、階段を掃除している人もなんとなく楽しそうに見えた。チョムロンでコーラ2本、ファンタ1本。汗でタンクトップがびしょぬれになったので干して乾かした。中村こうや君は明日からゴレパニ方面へ向かうため今夜はここに泊まると言うことなのでさよならし、急な坂を一気に下ってジヌーへ。

2:45pm温泉到着。久々に湯に浸かる。なかなか泡立たない頭にシャンプー3回、体は9日ぶりにさっぱりと磨き上げ今年のあかを落とした。他に外人カップル2組がいた。温泉のすぐ横を流れる雪解け水の流れる川に入ってみたら恐ろしく冷たくすぐに体の感覚を失いそうになった。ジヌーのロッジに荷物を預けておけば良かったものの、持ってきてしまったので背負ってまた登り。

4pmに温泉を出て35分かかってまた汗をかいてジヌーに戻ってきた。今日は大晦日。できるだけ人間のいる所で新年を迎えたいと言う鈴木君との協議により全く人気の無いジヌーはパスしてニューブリッジに向かうことにした。ジヌーで泊まっても良かったのだがニューブリッジまでの行程を1時間の所を2時間だと言って泊めさせようとしたり、じいさんがしつこく泊めさせようとしたりする姿に嫌気がさし下りることを決めた。

5:30pmニューブリッジ到着。これでは何のために人気を求めて下りてきたのか分からない。何とこの村には私たちを除いて1人のツーリストもいなかったのである。とりあえず宿を決め4ベッドルームに2人で泊まることにした。ドラム缶で木を燃やし宿の主人(ビージェー)、弟、息子、おばあちゃん達と火を囲む。

今年最後の食事はいつものEGG VEG FRIED RICE。腕によりをかけて作ってくれた。すごくおいしいとはいえなかったがお腹いっぱいになった。今年1年良かったのか、悪かったのか。とりあえずあと4時間で98年が来る。どんな1年になるのか分からないが20台最後の年であるし、転機が必ず訪れるであろう。新年を海外で迎えるのは3回目である。

日本が恋しい気もしないではない。とうとう年内に日本に電話ができなかった。明日ポカラですることにしよう。

宿50rs

そしてアンナプルナBCへ

1997年12月30日 | ネパール日記
12月30日 (火) MBC-ABC-バンブー(名前わからず)

6時半起床。昨夜9時ごろ寝袋には行ったものの隣の2人のフランス人がうるさくなかなか寝付けなかった。借りた布団がベッドから落ちると寒くて何度も目が覚めた。なんとなく寝苦しい夜だった。

朝7:15出発。昨日天気が良くなかったらしく今日はどうかなと思いながらアンナプルナベースキャンプを目指した。ゆっくり登っているうちに段々晴れてきてABCについたときには信じられない風景が広がっていた。最近ほとんど晴れたことが無かったそうなのでこの幸運に感謝した。新雪がかなり積もっていてトレイルが見えず膝上まではまってしまうこともたびたびあった。

昨夜のうるさいフランス人の1人もその後来て、4人で写真をとりまくった。予備のフィルムを1本持ってきていたがすぐに撮りきってしまった。あったかいミルクティーを飲んで下りることにした。興奮していたので寒さを感じなかったが、持っていたボトルの中のミネラルウォーターは半ば凍っていた。

MBCへ戻る途中マチャプチャレの雪が太陽の光に照らされきらきら光りとても美しく見えた時があったが既にフィルムを使い切っていて撮れなかったのが悔やまれた。

MBCで荷物をとって下山開始。デオラリに戻る途中、かなり大きな雪崩の後を通った。2日前に通った時には無かったものだ。かなり怖いおもいをしながらすばやく抜けた。

デオラリで昼食。DREAM LODGEのおっちゃんは人なつこくいい奴だ。握手で再会し昼食を作ってもらった。(EGG VEG FRIED RICE 90rs) デオラリのロッジにつくやいなや雪が降りだしたが出る頃には止んでくれた。

MBC7:15-ABC8:45 11:15-MBC12:15 12:30-デオラリ14:20 14:50-ヒマラヤホテル15:45-ドバン16:20-バンブー17:05

デオラリを出てからは出来るだけ下に行こうということで殆ど休みなしで下った。雪上を過ぎると今度はドロドロの道でジャージーは黒く汚れ、靴の中は水が染み込み気分が悪かった。また寒さを見越してジャージーの下にはいていたスパッツを脱げぬまま歩いていたので、どうにも歩きにくかった。ただほとんど下りだったのでスピードも速く休みを取らなくてもいい調子であった。

MBCからの道程は景色を見ることも写真を撮ることもなくバンブーまでたんたんと歩いた。3日ぶりにバンブーに戻ってきた。前回とは違うロッジに宿を取った。

靴、靴下、Tシャツ1枚を水だけで軽く洗濯。掘りごたつの中に干した。何と9人もの日本人がいた。兵庫県三田市の夫婦はとてもいい人であった。隣に座っていた4人組みはなんとなく不思議な(オタク系の)人々であった。あまりお腹が空いていなかったので晩飯は抜いた。

どうにかABCに行けて本当に良かった。苦労していった甲斐があったと言うものだ。あんなに素晴らしい景色が見えたのだから。今日1日本当に歩いた。寝る前うるさく喋っていたら隣部屋の日本人の女に注意されてしまった。生きてて良かった1日であった。