LIFE IS GOOD! うろうろ人生旅日記

20代はいろんな国を歩き30代はサラリーマン。40で早期退職に手を挙げた。現在訪問69か国+1。只今バンコクで生活中。

アイガー見ながらスノーボード(こけまくり)

1993年03月11日 | ヨーロッパ日記1993
3月11日 (木) インターラーケン 快晴 (INTERLAKEN YH)

6時起床。7時食パン1枚とコーヒーの朝食をとり平本君とOST駅へ。

7時38分に駅を出た鉄道は雲ひとつなく澄み切った空気の中、山々の間をゆっくり登っていった。10時終着駅のユングフラウヨッホに到着。雪をいただいた何十ものやまと氷河がとにかく素晴らしく何枚も夢中でシャッターを押した。

1時間ほど景色を堪能して11時出発。クライネシャンディッグで下りスノーボードを借りた。持ってきたパン、チーズ、ハムで昼食をとり12時過ぎすべり始めた。2年ぶり4回目のスノーボードは凍った雪面で転げまくり忍耐が必要であった。しかしアイガー北壁を正面に見上げながらのボードはなかなか楽しいものであった。

いろいろな本でうわさには聞いていた北壁はとにかく険しくあの壁に人が登ったという事実にはただただ驚くばかりである。こちらの人々のスキー腕前はさすがというほかなく今日一日転んだ人をほとんど見ることがなかった(こけてたのは私だけ)。

4時に切り上げて登山列車で登ったときとは違うルートで下りた。途中グリンデルワルドでスーパーに入り今日の食料を買った。7時頃YHに帰ってきてシャワーを浴びてパンとジャムのディナーを取った。とにかく天気がよかったのもあり美しい思い出のできた一日であった。

イスタンブールからスイスへ

1993年03月10日 | ヨーロッパ日記1993
3月10日 (水) イスタンブール 曇り-インターラーケン快晴 (INTERLAKEN Y.H)

結局1,2時間うたた寝しただけで4時40分モーニングコールで起床。
荷物をまとめて5時20分、ホテルの人の運転で空港へ。まだこの時間の空港は閑散としていてスムーズにチェックインすることができた。入り4割のONUR AIR311便定刻の7時45分に出発。すぐにうとうとしだし機内食を持ってきてくれたことさえも気づかなかった。

下界は雪をまとった山々がそびえていた。チューリッヒには2時間30分後到着。時差1時間戻す。チューリッヒにはとりたて興味のある所もないので、このたびのメインのひとつに考えているインターラーケンに向かうことにした。カウンターでハーフフェアカードを買いチケットも買った。

10時4分空港駅を出た列車は4時間かけて美しいのどかな田舎町を走り抜けINTERLAKEN OSTに到着。やまやまのなど荒々しさ、湖の静けさ、何をとってもスイスのイメージそのままであった。「すごい、すごい」とつぶやきながらユースホステルまで歩く。2キロ近いYHまでの道のりもアルプスの山を見ながら歩くと遠く感じなかった。

YHの受付が午後は5時からだったので荷物だけ置いてバックパックを置いてここにくるとき会った学生の平本君と街に出て行った。チェックインの際9フランのYH夕食をけちって外のスーパーに買出しに言ったが、結局予想をはるかに上回る物価の高さにほとんど同じ金額を使うはめになってしまった。

他の人たちのおいしそうなディナーをうらやましそうに眺めながらサンドイッチ(ハム&チーズ)を食べた。10時の消灯時間にベッドに入った。

アヤ・ソフィア、ブルーモスク

1993年03月09日 | ヨーロッパ日記1993
3月9日 (火) イスタンブール 曇り (KYBELE HOTEL)

8時半起床。ラウンジで朝食を取る。このときとばかりにフランスパン、ゆで卵、ジュースをたらふくとった。

学生さんと3人で路面電車に乗って港に行き、船に乗り対岸のアジア側へ行った。突き立ったモスクのミナレットが美しい。ナイチンゲールが働いたという病院後を探そうと海沿いを歩くが結局見つからなかった。マフラーを借りるほどこのときかなり肌寒かった。

また船に乗り一度ホテルに戻り、地下宮殿、アヤ・ソフィア、ブルーモスクと見てまわった。トプカプ宮殿は休館日だったのが惜しまれる。次はローマへ飛ぼうと旅行会社をあたったが大体203ドル前後と高かったので安いチューリッヒに行くことになった。

学生さんは明日日本帰国の最後の夜で、一緒に晩御飯を食べに行ったりして今日1日付き合った。ホテルのトラブルでお湯が出ず、また直るまで時間がかかりベッドに入るのが遅くなった。

偶然とは不思議なものだ。彼女たちとはスニオン岬、セルチュク、イスタンブールと3つの町で一緒になった。いい思い出もできた。

イスタンブール到着

1993年03月08日 | ヨーロッパ日記1993
3月8日 (月) セルチュク 晴れ-イスタンブール (KYBELE HOTEL)

8時過ぎ起床。いつも海外に出るとよく見る、日本に帰国してしまった夢にうなされる。乾かないままのランドリーを取り込み9時20分チェックアウト。

9時55分イスタンブールに向けてバスに乗り込む。直行便で午後8時につくと聞いていたのにだまされる。イズミールでバスを乗り換え雪の景色の中を走った。

8時に昨日の人たちとバスターミナルで待ち合わせの約束をしてたのにすでにその時間は過ぎ去り船の中でも落ち着かなかった。初めての街に足を踏み入れるのはそれありに不安であり、それが夜着とも乗ればなおさらである。

9時過ぎトプカプターミナルに到着。昨日の人を探してみるが何しろターミナルは異常に大きくバスが数珠繋ぎでとても見つかりそうもない。人もごった返していた。あきらめかけて他のバスでも探そうか、と思ったとたん会うことができた。10年来の友達に会ったようにとてもほっとした。

無料トロリーに乗ってアヤ・ソフィア近くに宿を取った。今までで一番高級な(US$20)、ホテルと名のつくところである。たまには体を休めるのにいいだろう。洗濯物も乾くだろうし。

午後10時過ぎ3人でご飯を食べに行く。あったかい風呂にも入ってすっかり疲れも取れゆったりした夜を過ごしている。私は今トルコ人をだんだん嫌いになりかけている。つり銭をごまかそうとしたり、とにかく客をとろうと声をかけ、平気で嘘を言うバスの客引きたち。こういうバカな奴らに旅の想い出を壊されるのは本当に頭にくる。

奇遇!再会!&エフェソスの遺跡

1993年03月07日 | ヨーロッパ日記1993
3月7日 (日) セルチュク 雨 (JULLIET PENSION)
 
8時半起床。まだ雨が降っている。宿の食堂で偶然スニオン岬で会った学生の女の子2人と再会する。すごい奇遇!!

10時過ぎランドリーをおばあさんに頼みペンションの車でエフェソスの遺跡群へ。小雨の中、日本語ガイドブックを手に見てまわった。彫刻を施され無造作に転がっている石が歴史の重みを語りかけてくる。今まで見た遺跡の中でもかなり素晴らしいものであった。

今日すでにチェックアウトしていた津田塾大学の女の子が午後10時発イスタンブール意気のバスを待つまで暇していたのでご飯を食べたりして時間をつぶすのに付き合った。

セルチュクでハマム

1993年03月06日 | ヨーロッパ日記1993
3月6日 (土) マルマリス 雨-セルチュク 雨 (JULLIET PENSION)

8時半、すごい雨音が天井から聞こえ目がさめる。時折ヒョウも降ってきた。もう一日ここにいようかと思ったがこんな孤独感はもう嫌だったので出発することにした。

豪雨の中昨夜見つけたバスチケット売り場までびしょ濡れになりながらいく。カウンターに立つまでどこに行くか決めかねていたが、もうひとつの候補のパムッカレは冬はきれいではないらしいのでセルチュクに行くことにした。売り場の前のピックアップバスに乗りバスターミナルへ、バスに乗り込むと急に雨が上がった。

大型のバスに乗り換え午前10時10分出発、途中でまた雨が降ってきたもののトルコの田舎は日本の田舎になんとなく似ていた。奇岩が重なり合った川沿いはすごかった。

午後1時40分、セルチュク到着、雨の中、私を待ち受けていたものは宿の客引きであった。矢継ぎ早に5人ぐらいがやってきて、その中にはニセポリスまでいて私を引っ張っていこうとする。洗濯機の有る無しと1泊の値段を聞いたが皆同じなので1番最初に声をかけてきたおとなしそうな人の宿に行くことに。

この宿の主人は「地球の歩き方に乗っている有名な人のものであった。部屋も今までの中で最高によく、久々に熱いシャワーも浴びることができた。客引きのジニ-くんはとても親切な人でよく喋り、頼まれてこの宿の推薦状日本語版を作ってあげた。

サウスアフリカ、オーストラリア(メルボルン)の女の人2人とジミーとの4人で買い物へ、サングラスを買いにいった帰りに主人のトシオさんに会い、カーペット屋に一人連れて行かれあの手この手で買わされそうになったが、押し切り店を出た。気の弱い人は絶対買わざるを得ない強烈な売りであった。

うまいアップルティ-を飲み、ジミー君の作ってくれた夕食を笑顔を強引に作って食べた。私は好き嫌いが多いのでこういうのは本当に困る。

夕食を食べた後トルキッシュバス、ハマムへ、いわれるままにうつ伏せになったり、仰向けになったりして体をこすってもらった。3週間分のアカがポロポロと出てきた。軽くなった体で雨の中、マルボロとコークを買って帰ってきた。カイロでは一目雨にお目にかかりたいとまで思ったが、ここまでしつこく降られると頭にくる。いいかげんに晴れてくれないものか。

ロドス島から一気にトルコへ

1993年03月05日 | ヨーロッパ日記1993
GREECE-TURKY
3月5日 (金) ロドス島 晴れのち雨-マルマリス 雨 (名前わからず)

起きては寝て、寝ては起きを繰り返し朝は寒さのあまりずっとおなかが痛かった。いろんな島に立ち寄りながら朝8時過ぎようやくロドス島に到着した。

島を囲んでいる城壁の中の旧市街に入り最初に目に付いた宿にチェックイン。荷物を置いてすぐに出かけ旅行会社でとりあえずトルコ行きの次の出発便を調べようと入ったら、昨日キャンセルされた便が今日の午後2時に出るという。その次は月曜日だが出航するとは限らないので急遽トルコ・マルマリスに行くことを決めた。

宿に戻りここのことを告げても英語をまったく理解しない宿のおばちゃんはお金を返してくれなかったので、せめてシャワーだけでもと思いぬるいシャワーを浴びた。

午後1時半、ギリシャの出国手続きを終え、2時5分小さな船でトルコを目指す。よくよれたがとにかく疲れていたので船の中ではひたすら寝た。3時半、雨のマルマリスに到着。入国手続きをえて銀行へ両替をしに行く。US100ドルを859000トルコリラに。私の前に代えた人が890000TLだったので文句を言うとトラベラーズチェックに手数料がかかったとのこと。

雨の中とにもかくにも落ち着きたかったので宿を探す。屋上の部屋は雨音がかなりうるさい。昨日からろくなものをとってないので外食をしようと傘を持って外に出たが結局パンとハムとチーズを買ってきて一人寂しく部屋でかじった。こんな孤独が私を強くしてくれているのだろうか?買い物の際、トルコリラの価値がまったくわからずチーズ22000TLなど金額にびっくりした。物価はどうやらエジプトのほうが安いみたいだ。

24歳の誕生日はカイロで

1993年02月14日 | ヨーロッパ日記1993
2月14日 (日) モスクワ 快晴-カイロ くもり (ORIENT PALACE)

7時半起床。
枕カバーをタオル代わりにしてシャワーを浴び外へ出てみる。濡れていた髪がすぐカチカチになった。朝のモスクワは今まで持っていたイメージ通りであった。食堂まで戻り朝食(パン、卵、サラミ)をとり9時半ピックアップバスで空港へ。カイロまでのチケットを受け取り搭乗を待った。

午前11時の予定時刻を過ぎてもロシア航空は慌てる様子もなくマイペースでやっていた。タバコを1カートン、スウォッチの時計を買ったりして時間をつぶした。12時35分離陸。チケットにシート番号は記載されてあったものの皆好き好きに席を取っていた。窓から下を眺めるとモスクワは白く美しかった。昼食(あまりおいしくない)をとり空いている後ろの席でタバコを吸って過ごした。

飛行機は地中海を越えアフリカ大陸に入りしばらく緑の大地が続いたものの次第に茶けてきてまもなく黄色い大陸に変わった。カイロの空港に午後4時頃着き銀行で20ドル両替。VISAをとり入国手続きも難なく終えることができた。迎えに来ているはずのターレックには会えず、ぼろぼろのバスに乗りタハリール広場へ。見当をつけて下りようとするのだがバスはわざわざ止まってくれたりはしない。人でごったがえしているバスの出口にたどり着くことだけでも大変で、スピードが落ちる瞬間を狙って飛び降りるのも命がけである。重い荷物が体をふらつかせ後ろから突っ込んでくる車をよけるの冷や汗がでる。

車の多さに驚く。かなり街を歩いてORIENTAL PALACE HOTELに入り、空港から一緒にきたハタ、マツ君と晩飯を食べに行く。途中で見つけたレストランでドライカレー、ミートボール、ペプシをいただく。おなかが一杯になったところで街ブラ。車の洪水の中を泳ぐように歩く。9時に宿に帰ってきてこれを書いている。今日は24回目の誕生日。めでたい。

モスクワはさぶかった

1993年02月13日 | ヨーロッパ日記1993
1993年2月13日 (土) 成田-モスクワ 晴れ (オリンピック村)

アエロフロート582便。
1時発予定の便は遅れて1時50分になっていた。お土産のマトリョーシカ人形、ピーナッツ、飲み物をもらい2回の食事の間は毛布をかけて寝た。窓が汚れていたのでほとんど景色も見えずじまいであった。

ロシア時間午後7時暗いモスクワに到着。
トランジットなのでロシアの地は踏めないと思っていたのだがショートツアー(2000円)がホテルにいく前にあるというので申し込む。外はかつて今まで経験したことのない寒さであった。バスは市内に向かって走った。凍てついた道路でバスを待つ人々、マクドナルド、ピザハット、KGB、みんなかぶってる帽子、物売りの少年、物寂しそうな夜景、こういうところもあるのだなと思った。

赤の広場では10分ほど歩かせてもらったが耳が取れるのではないかというほどの寒さで、やっぱりあの帽子が必要なのである。さてホテルにつくと夕食が出された。小さい魚、酢の味がする野菜、ビーフストロガノフのような肉、硬いパン、紅茶。うまくない。歩いて数分のところに宿があり1部屋4人のバストイレ付であった。約30人の日本人が宿泊したようであった。荷物はカイロまでスルーしてあったので着替えもタオルもなく12時過ぎベッドに横になった。