古代の日本語

古代から日本語には五十音図が存在しましたが、あ行には「あ」と「お」しかありませんでした。

古代歌謡の分析2

2022-02-27 10:33:15 | 古代の日本語

前回は、応神天皇の時代には、「い」を表記する万葉仮名はすべてや行の「い」だったということを論じました。

そこで今回は、「う」を表記する万葉仮名がわ行の「う」だったのか検証してみました。

まず、『大日本国語辞典』によると、「う」を表記する万葉仮名は次の13文字でした。

◆「う」の万葉仮名:宇、于、汙、紆、有、烏、禹、羽、雲、得、菟、兔、卯

ただし、得、菟、兔、卯の4文字は訓読みであり、残る9文字のうち、わ行の「う」は于の1文字だけとされています。

◆わ行の「う」:于

ところで、古事記には、前回ご紹介した「みづたまる・・・」という応神天皇の十三年の歌とよく似た歌が収録されています。

全文を掲載するのはわずらわしいので、注目すべき部分を日本紀と比較すると次のようになります。(参考文献:『古事記』(藤村作:編、至文堂:1929年刊))

古事記:伊夜袁許迩斯弖(いやをこにして)

日本紀:伊夜于古珥辭氐(いやうこにして)

これを見ると、日本紀で于古(うこ)と書かれている部分が、古事記では袁許(をこ)となっていることが分かります。

つまり、「うこ」は「をこ」とも発音されていたわけですから、于はわ行の「う」を表記する漢字に間違いないと思われるのです。

一方、時代は少し遡りますが、応神天皇がまだ幼児だった時代に、異母兄の忍熊王(おしくまのみこ)が反乱を起こし、反乱軍の先鋒の熊之凝(くまのこり)という人物が次の歌を詠んだとされています。(参考文献:『紀記論究 外篇 古代歌謡(上)』)

原文
読み
意味
烏智箇多能 をちかたの 彼方(かなた)の
阿邏々麻菟麼邏 あららまつばら まばらな松原
摩菟麼邏珥 まつばらに 松原に
和多利喩祇氐 わたりゆきて (川を)渡って進み
菟區喩彌珥 つくゆみに 築弓(地面に設置する大形の弓)に
末利椰塢多具陪 まりやをたぐへ 投槍のような矢を番(つが)え
摩譬等破 うまひとは 長老は
摩譬苔奴知野 うまひとどちや 長老たちと
(以下省略)
   

これを見ると、「うまひと」(長老)の「う」に、宇と于の2種類の漢字を使っていますから、宇と于が同じ発音であることは間違いなく、前半の検討結果から、これらがわ行の「う」を表記していることは明白です。

また、崇神天皇以降の日本紀の歌謡において、「う」を表記するのに使われた漢字は、宇、于、紆、禹の4文字であり、これらの現代中国音をインターネットで調べると、四声とよばれる抑揚は異なるものの、すべて同じ「yu」という発音でした。

つまり、古代において「wu」だった発音が、長い時間を経て「yu」に変化したと推測できますから、宇、于、紆、禹の4文字は、いずれもわ行の「う」を表記する漢字だったと思われるのです。

次回も古代歌謡の分析です。

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古代歌謡の分析1

2022-02-20 11:05:18 | 古代の日本語

本ブログの「漢字の音訳が意味するもの」という記事では、漢字が音訳された時代(五世紀前半か?)には、あ行の「い、う、え」が存在しなかったと論じました。

そうであれば、「魏志倭人伝」に登場した伊都国の伊も、や行の「い」だったはずです。

そこで、「い」を表記する万葉仮名について、現代中国音を調べてみました。

まず、『大日本国語辞典』によると、「い」を表記する万葉仮名は次の14文字でした。

◆「い」の万葉仮名:伊、意、怡、肄、壹、以、移、夷、易、已、異、射、五十、膽

ただし、射、五十、膽は訓読みなので、ここでは除外します。

この11文字のうち、や行の「い」を表記する漢字は次の6文字とされていました。

◆や行の「い」:以、移、夷、易、已、異

つまり、残った次の5文字があ行の「い」を表記する漢字となります。

◆あ行の「い」:伊、意、怡、肄、壹

しかし、これら11文字の現代中国音をインターネットで調べると、四声とよばれる抑揚は異なるものの、すべて同じ「yi」という発音でした。

逆に言うと、日本語のあ行の「い」に該当する音は、中国語には存在しないようです。

このことから、これらの漢字はすべてや行の「い」を表記するものだったと推測することができるでしょう。

ただし、古代においては異なる発音だった可能性もありますから、事実を検証するため、漢字によって歌謡が一字一音で筆記され始めたと思われる応神天皇の時代について、日本紀の歌謡を調べてみました。(参考文献:『紀記論究 外篇 古代歌謡(上)』)

まずは、応神天皇の十三年に、大鷦鷯(おほさざき)皇子(=後の仁徳天皇)が、天皇から髪長媛という美女を賜ることを知り、大いに喜んで詠んだとされる歌です。

原文
読み
意味
瀰豆多摩蘆 みづたまる 水溜まる
豫佐瀰能伊戒珥 よさみのいけに 依網の池(大阪にあった古代の大池)に
奴那波區利 ぬなはくり 沼縄(ぬなわ=水草、じゅんさい)を繰るように
破陪鷄區辭羅珥 はへけくしらに (大御心が遠く)延びていたことを知らず
委愚比菟區 ゐぐひつく 堰杙(いぐい=水をせきとめるくい)を築くように
伽破摩多曳能 かはまたえの 川俣の入江の
比辭餓羅能 ひしがらの 菱殻の(棘があるので、次の「さし」にかかる)
佐辭鷄區辭羅珥 さしけくしらに (大御心が深く)さしていたことを知らず
阿餓許居呂辭 あがこころし 自分の心こそ
伊夜于古珥辭氐 いやうこにして はなはだ迂闊(うかつ)であったよ

次は、応神天皇の二十二年に、妃の兄媛(えひめ)が両親の住む吉備に帰ることになり、天皇が難波大隅宮(なにはのおほすみのみや)の高台から彼女が乗った船を見送るときに詠んだとされる歌の冒頭部分です。

原文
読み
意味
阿波旎辭摩 あはぢしま 淡路島は
異椰敷多那羅弭 いやふたならび (峰が)幾重にもかさなっている
阿豆枳辭摩 あづきしま 小豆島も
異椰敷多那羅弭 いやふたならび (峰が)幾重にもかさなっている
(以下省略)
   

これらを見比べると、「いや」という言葉が共通して使われていますが、これを漢字で書くと「彌」(弥の旧字体)で、「いよいよ、ますます」という意味だそうです。

つまり、同じ言葉が、前者では伊夜、後者では異椰と書かれているので、これは伊と異が同じ発音であったことを証明していると思われます。

しかも、『日本語原』によると、「いや」(彌)はや行の言葉なので、伊と異はや行の「い」だったと判断できます。

そして、「い」を表記する残りの万葉仮名も、三段論法によって、や行の「い」だったと推論することができるのです。

次回も古代歌謡の分析です。

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その他の漢字音訳例

2022-02-13 10:41:55 | 古代の日本語

前々回、漢字の音訳に古代の五十音図の痕跡が残っていたことをお伝えしました。

そこで、他にも同様の痕跡が残っていないか『大日本国語辞典』を調べたところ、次のような音訳例がありました。

1.「すゐ」と音訳された漢字

前々回、「すゐ」と音訳された漢字として、水、推、錐、帥、錘、翠をご紹介しましたが、それ以外にも、睡、吹、炊、垂、酔、粋、遂などがありました。

2.「ずゐ」と音訳された漢字

「ずゐ」と音訳された漢字には、隋、瑞、髄、随などがありました。

3.「つゐ」と音訳された漢字

「つゐ」と音訳された漢字には、對(対の旧字体)、追、墜などがありました。

これらは、漢字の音訳がなされた時代に、あ行の「い」が存在しなかった証拠になるのではないかと思われます。

なお、前々回ご紹介した「るゐ」も含めて、これらがう列の言葉である理由は、う列の音は口をすぼめて発音するため、当時の日本人には、続く「い」が「wi」に聞こえたからでしょう。

4.「いう」と音訳された漢字

遊、憂、優、幽、誘、郵、由、悠、猶などは「いう」と音訳されていましたが、現在これらを「ゆう」と発音するのは、「いう」の「い」がや行の「い」だったからだと推測できます。

つまり、最初はや行の「い」と音訳されたものが、その後「い」があ行に移動したため、「yiu」が「yuu」になったと考えられるのです。

5.「えう」と音訳された漢字

曜、妖、要、腰、夭、揺、謡などは「えう」と音訳されていましたが、現在これらを「よう」と発音するのは、「いう」の場合と同様に、「えう」の「え」がや行の「え」だったからでしょう。

6.「えふ」と音訳された漢字

葉は「えふ」と音訳されていましたが、現在これを「よう」と発音するのは、やはり、「えふ」の「え」がや行の「え」だったからでしょう。

7.「いん」と音訳された漢字

「いん」と音訳された漢字の現代中国音を『実用支那語発音辞典』で調べてみると、次の図に示すように「yin」となっているものが多くありますから、「いん」の「い」はや行の「い」だったと考えてよさそうです。

「いん」と音訳された漢字の現代中国音
【「いん」と音訳された漢字の現代中国音】(『実用支那語発音辞典』より)

8.「えん」と音訳された漢字

「えん」と音訳された漢字の現代中国音を『実用支那語発音辞典』で調べてみると、次の図に示すように「yen」となっているものが多くありますから、「えん」の「え」はや行の「え」だったと考えてよさそうです。

「えん」と音訳された漢字の現代中国音
【「えん」と音訳された漢字の現代中国音】(『実用支那語発音辞典』より)

9.温病(うんびゃう)を「をんびゃう」と読むこと。これは、「う」が「wu」だったことの証拠でしょう。

温病
【温病】(『大日本国語辞典』より)

このように、漢字の音訳に際して、あ行の「い、う、え」が使われていなかった証拠が多数存在しますから、漢字が音訳された時代(五世紀初頭)には、あ行の「い、う、え」が存在しなかったことは明白なのではないでしょうか?

次回からは古代歌謡の分析です。

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【記事の訂正】 2023年9月24日

「すゐ・ずゐ・つゐ」の音訳については、その後の研究で「すい・ずい・つい」であったことが明らかになったそうなので、この部分の記述を削除させていただきます。

参考:「漢字の音訳に関する訂正

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漢字の音訳時期

2022-02-06 10:43:06 | 古代の日本語

前回、漢字の音訳時期は応神天皇の時代だとお伝えしましたので、今回はその年代を明らかにしたいと思います。

まず、第十五代応神天皇が即位した年は庚寅(かのえとら)と日本紀に書かれています。

干支は60年周期で繰り返され、直近の庚寅の年は西暦2010年でしたが、四世紀なら西暦330年と西暦390年が、五世紀なら西暦450年が庚寅の年となります。

次に、本ブログの「彌馬升=孝昭天皇説の検証」で、第十代崇神天皇が西暦300年頃に即位したと考えました。

これは、古事記に崇神天皇の没年が戊寅(つちのえとら)と書かれていて、これが西暦318年と推定できるからです。

また、本ブログの「雄略天皇の和名」でご紹介したように、稲荷山古墳から出土した鉄剣は西暦471年に制作されたと考えられており、これは第二十一代雄略天皇の時代に比定されています。

すると、崇神天皇の時代と雄略天皇の時代のほぼ中間に相当する庚寅の年は西暦390年となりますから、私はこの年を応神天皇即位の年と判断しました。

つまり、崇神天皇から応神天皇まで、西暦300年から平均18年で天皇が交代したと考えたわけですが、崇神天皇の時代には疫病の大流行が記録されていて、当時は平均寿命が短かったはずですから、これは妥当な数字だと思われます。

また、応神天皇即位から雄略天皇即位までは80年弱と考えられますが、この間には、次の図に示すように、履中天皇、反正天皇、允恭天皇の三兄弟と、安康天皇、雄略天皇の兄弟が即位しており、兄弟は一世代だと考えれば平均25年程度で世代が交代しているので、これも妥当な数字だと思われます。

天皇家の系図(応神-雄略)

ところで、前回お伝えしたように、古事記には、応神天皇の時代に和邇吉師(わにきし)が論語十巻と千字文一巻を日本に伝えたことが記されています。

一方、日本紀には、応神天皇の十六年に王仁(わに)が来朝したことが書かれています。

この王仁は、古事記の和邇吉師と同一人物だと思われますから、論語十巻と千字文一巻が日本に伝えられたのは西暦405年だったと計算できます。

つまり、漢字の音訳が開始された時期は五世紀の初めだと考えられるのです。

したがって、次の図に示す、あ行の「い、う、え」が欠落した古代の五十音図は、少なくとも五世紀の初めまでは、その形を保っていたはずです。

古代の五十音図

そして、漢字の音訳が進むにしたがって、新しい発音が日本語に定着した結果、本ブログで論じているように、奈良時代の初頭までに次のような五十音図に変化したと考えられます。

八世紀の五十音図

つまり、五世紀から八世紀までの300年間に、や行の「い」とわ行の「う」があ行に移動したと思われるのです。

次回も漢字の音訳に関する考察です。

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