古代の日本語

古代から日本語には五十音図が存在しましたが、あ行には「あ」と「お」しかありませんでした。

周辺諸国の名称2

2021-12-26 09:20:03 | 古代の日本語

「魏志倭人伝」に音写された三世紀の日本語をご紹介しています。

今回は、前回解読できなかった邪馬台国周辺の国名を、『「倭人語」の解読』(安本美典:著、勉誠出版:2003年刊)という本を参考にしてご紹介していきます。

この本の著者の安本美典氏は、「邪馬台国九州説」を主張していますが、該当しそうな地名を九州に限定せず全国的に調査しているので、ある意味、発想の転換ができて参考になります。

番号
原文
読み
解釈(場所)
2
已百支國 いはき国 石城(福島県)
13
鬼國 き国 紀伊(和歌山県)
15
鬼奴國 けぬ国 毛野(群馬県・栃木県)

安本氏は、已百支を「いはき」と読んで、福島県南東部を候補の一つに挙げていますが、『大日本国語辞典』によると、已はや行の「い」を表記する漢字であり、百の漢音は「はく」なので、已百支を「いはき」と読むことは可能だと思われます。

また、『大日本読史地図』の「国郡制定」という地図を見ると、ここには石城(いはき)という国造が置かれていたことから、ここが古くから人口の多い地域だったことは間違いないでしょう。

関東地方の国造配置図
【関東地方の国造配置図】(吉田東伍:著『大日本読史地図』より)

なお、三世紀に大和朝廷の支配が東北まで及んでいたという証拠はありませんが、『古語拾遺新攷』(植木直一郎:著、皇国青年教育協会:1944年刊)という本によると、神武天皇の時代に天富命(あめのとみのみこと)が房総半島を開拓したことが「古語拾遺」という古文書に書かれているそうです。

これを信じるなら、進んだ農業技術を伝えることによって、大和朝廷の支配が二世紀末までに関東一円に及んだと考えることは可能でしょうから、隣接する福島県南東部に朝廷に服従する国があったとしても不思議ではないでしょう。

また、石城の位置は、周辺20か国の直前に「其餘旁國遠絶不可得詳」(その余りの周辺国は遠く離れているのでつまびらかにすることは当然できない)と書かれていることと符合するので、「已百支=石城」説は意外と有力ではないかと思いました。

次に、鬼を「き」と読んで、和歌山を候補の一つに挙げていますが、ここは木の国として古くから有名であり、ここに紀伊という国造が置かれていたことからも、妥当な解釈だと思われます。

次に、鬼奴を「けぬ」と読んで、北関東を候補の一つに挙げていますが、ここには上毛野(かみつけぬ)、下毛野(しもつけぬ)という国造が置かれていたことから、ここも古くから人口の多い地域だったことは間違いないでしょう。

問題は、鬼を「け」と読むことができるかどうかですが、下毛野国造の少し東、同じ栃木県内には鬼怒川が流れていますから、鬼奴国が鬼怒川流域を支配した「きぬ」国だったとすれば、この問題は解決します。

次回も「魏志倭人伝」の続きです。

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周辺諸国の名称1

2021-12-19 08:22:26 | 古代の日本語

「魏志倭人伝」に音写された三世紀の日本語をご紹介しています。

前々回は、邪馬台国に関する部分をご紹介しましたが、その直後には、「次有斯馬國、次有已百支國、次有伊邪國、次有都支國、次有彌奴國、次有好古都國、次有不呼國、次有姐奴國、次有對蘇國、次有蘇奴國、次有呼邑國、次有華奴蘇奴國、次有鬼國、次有爲吾國、次有鬼奴國、次有邪馬國、次有躬臣國、次有巴利國、次有支惟國、次有烏奴國」と、周辺の20か国が列挙されています。

そこで今回は、これらの国名のうち、『上代日支交通史の研究』に書かれている解釈で、妥当だと思われるものをご紹介していきます。

番号
原文
読み
解釈
1
斯馬國 しま国 志摩(三重県)
3
伊邪國 いよ国 伊予(愛媛県)
5
彌奴國 みぬ国 美濃(岐阜県)
10
蘇奴國 さな国 佐奈縣(三重県)
18
巴利國 はり国 播磨(兵庫県)
19
支惟國 きび国 吉備(岡山県)
20
烏奴國 あな国 吉備穴(広島県)

まず、斯馬を「しま」と読んで、紀伊半島の志摩を候補に挙げていますが、『大日本読史地図』の「国郡制定」という地図を見ると、志摩には島津という国造が置かれていたので、ここが古くから人口の多い地域だったことは間違いないでしょう。

末尾に津が付加されているのは気になりますが、他に該当する国が存在しないことからも、妥当な解釈だと思われます。

参考までに、近畿・東海地方の国造配置図をご覧ください。

近畿・東海地方の国造配置図
【近畿・東海地方の国造配置図】(吉田東伍:著『大日本読史地図』より)

なお、国造(くにのみやつこ)とは、国郡を統治した世襲制の地方官のことで、例えば島津国造は、「先代旧事本紀」によると第十三代成務天皇の時代に定められたとされています。

次に、伊邪は「いや」と読むのが正しそうですが、これを「いよ」の音写と考えて、四国の伊予を候補に挙げています。

中国・四国地方の国造配置図を見ると、伊予には伊余という国造が置かれていて、しかも、古事記の国生み神話に四国の代名詞として伊豫二名嶋(いよのふたなしま)が登場することから、これも妥当な解釈だと思われます。

吉備・四国地方の国造配置図
【中国・四国地方の国造配置図】(吉田東伍:著『大日本読史地図』より)

次に、彌奴を「みぬ」と読んで、中部地方の美濃を候補に挙げていますが、美濃には三野前(みぬのみちのくち)、三野後(みぬのみちのしり)という国造が置かれていたので、ここも古くから人口の多い地域だったと思われます。

ちなみに、奴は「ぬ」の万葉仮名であり、この漢字が平仮名の「ぬ」になったとされています。

次に、蘇奴を「さな」と読んで、伊勢南部の佐奈縣(さなのあがた=佐那那縣)を候補に挙げています。

縣は朝廷の領地ですが、本ブログの「壱岐から奴国へ」という記事でご紹介したように、松浦縣・伊覩縣・儺縣はかつて末盧国・伊都国・奴国だったと考えられますから、佐奈縣も三世紀には「さな」国として独立していたのかもしれません。

なお、蘇の漢音は「そ」、呉音は「す」ですが、『漢音呉音の研究』(大島正健:著、第一書房:1931年刊)という本には、蘇は模の韻に属すと書かれているので、本ブログの「奴国の読みと意味」でご紹介したように、多模を「たま」と読めるのであれば、蘇を「さ」と読むこともできるでしょう。

そして、次回ご紹介する『「倭人語」の解読』という本には、藤堂明保氏の研究結果として、模の上古音が「mag」、蘇の上古音が「sag」であることが紹介されているので、蘇を「さ」と読むことは可能だと思われるのです。

次に、巴利を「はり」と読んで、近畿地方の播磨を候補に挙げていますが、播磨には針間という国造が置かれていたことから、ここも古くから人口の多い地域だったと思われます。

なお、「ま」の音が欠けているのは気になりますが、三世紀にはそうよばれていた可能性も捨てきれません。

というのも、次回ご紹介する関東地方の国造配置図を見ると、関東に新治(にひはり)という国造が置かれていて、新という字をつけたのは、別の場所に存在していた「はり」国と区別するためだと考えることができるからです。

また、『日本古語大辞典』を見ると、「はり」には治(はり=開墾)という意味とは別に、榛、萩、とげのある植物といった意味もあるので、針間国造の針は後者の意味なのかもしれません。

次に、支惟は、漢和辞典に惟の読みが「ゐ」と書かれているので、「きゐ」と読むのが正しそうですが、これを「きび」の音写と考えて、吉備を候補に挙げています。

中国・四国地方の国造配置図を見ると、吉備には国造が密集していますから、ここが非常に栄えた場所だったことは間違いないでしょう。

最後に、烏奴を「うぬ」と読んで、備後の安那(あな=現在の広島県福山市)を候補に挙げていますが、安那には吉備穴という国造が置かれていたことから、ここも古くから人口の多い地域だったと思われます。

なお、烏の漢音は「を」、呉音は「う」ですが、『東大古族言語史鑑』(浜名寛祐:著、喜文堂:1936年刊)という本には、烏(カラス)の古音は「あ」と「か」の両音があり、これは鳴き声に由来すると書かれています。

つまり、カラスの鳴き声を「ああ」と聞いたり「かあ」と聞いたりした結果がこの漢字の音となったということなので、烏奴は「あな」と読むことが可能だと思われるのです。

次回も「魏志倭人伝」の続きです。

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彌馬升=孝昭天皇説の検証

2021-12-12 10:51:39 | 古代の日本語

前回、孝昭天皇の晩年が卑弥呼の時代に相当する可能性があると申し上げたので、今回はその理由を説明させていただきます。

まず、本ブログの「邪馬台国の正体」という記事でご紹介したように、神武天皇が二世紀の初めに日本を統一した可能性は高いと思われます。

また、第二代綏靖(すゐぜい)天皇は、神武天皇が大和入りした後に生まれていて、古事記には、綏靖天皇は45歳で、第三代安寧天皇は49歳で、第四代懿徳(いとく)天皇は45歳で、それぞれ亡くなったと書かれているので、大和朝廷の王権の移動を次のような図で表わすことができそうです。

彌馬升=孝昭天皇説

すなわち、西暦100年に神武天皇が日本を統一したと仮定しますが、日本統一といっても最初は近畿地方だけだったと思われますから、その完成は神武天皇の晩年と考えました。

また、西暦200年までは25年ごとに世代交代したと仮定し、神武天皇の死後75年、孝昭天皇が若くして即位するとともに倭国が乱れたと考えました。

その後、孝昭天皇は退位し、大和朝廷を陰で支えることになりますが、第六代孝安天皇、第七代孝霊天皇を擁立しても混乱を収拾することができなかったため、最後に卑弥呼を王に立てたのだと思われます。

古事記には、孝昭天皇は93歳で亡くなったと書かれているので、この図のように、彼が長老として卑弥呼に仕えることは十分可能だったはずです。

以上のことから、彌馬升を彌馬斗の誤りとし、「みまつ」と読んで孝昭天皇(和名:みまつひこかゑしね)に比定することが可能であることがご理解いただけたのではないでしょうか?

なお、「魏志倭人伝」には、卑弥呼のことが正始八年(西暦247年)まで記録されているので、その年か翌年あたりに卑弥呼が亡くなり、西暦250年には台与が立てられたと仮定しています。

次回は「魏志倭人伝」に戻ります。

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彌馬升は孝昭天皇か?

2021-12-05 13:08:13 | 古代の日本語

今回からは、再び「魏志倭人伝」に音写された三世紀の日本語をご紹介していきますが、解読には『読史叢録』(内藤虎次郎:著、弘文堂:1929年刊)という本を参考にし、漢字の読みは私の責任でつけさせていただきました。

この本の著者の内藤虎次郎氏は、『支那論』(文会堂書店:1914年刊)や『日本文化史研究』(弘文堂書房:1924年刊)といった本を書いている歴史学者です。

今回は、投馬国を出発してからの記述です。

原文
南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月 南、「やまと」国に至る、女王の都とする所、水行十日、陸行一月
官有伊支馬次曰彌馬升 官有り、「いこま」、次は「みまつ」といい
次曰彌馬獲支次曰奴佳鞮 次は「みまわけ」といい、次は「なかと」という

まず、邪馬壹を「やまと」と読む理由については、本ブログの「奴国から邪馬台国へ」という記事でご紹介しましたので、そちらをご覧ください。

次に、内藤氏は、伊支馬の候補の一つとして、往馬坐伊古麻都比古(いこまにますいこまつひこ)神社の神を卜部(うらべ)氏が祭っていたので、卜部氏のことを指して伊支馬と書いたのではないかと推測しています。

支を「こ」と読むのは苦しい感じですが、卑弥呼が鬼道(神がかり的なものか?)を事としていたのであれば、占いを司る卜部氏が補佐役として高い地位にいたとしても不思議はなさそうです。

次に、彌馬升について、これを第五代孝昭天皇(和名:みまつひこかゑしね)の御名代の類ではないかと推測しています。

升を「つ」と読むのは苦しい感じですが、升が斗の誤字であれば、『明解漢和大字典』に斗の呉音は「つ」と書かれているので、彌馬斗を「みまつ」と読むことができます。

これについては、本ブログの「邪馬台国の正体」という記事でご紹介したように、「魏志倭人伝」には難升米という人物が登場するのですが、この人が日本紀には難斗米と書かれていることから、升が斗の誤字である可能性は無視できないと思われます。

(これを詳しく説明すると、神功紀の三十九年の記事として、細字で「魏志倭人伝」を引用している写本があり、そこに難斗米と書かれているのですが、これは後世に追記されたものだと考えて排除する学者がいる一方、これを採録する学者も多いので、検討する価値はあると思われるのです。)

なお、年代的には、孝昭天皇の晩年が卑弥呼の時代に相当する可能性があるので、彌馬升を孝昭天皇本人に比定することも可能でしょうし、逆にそう考えることによってのみ、天皇家が存続した理由が説明できるとも言えそうです。

つまり、孝昭天皇が若くして即位した直後に倭国が乱れ、長く戦乱が続いた結果、ついに卑弥呼が立てられたと思われるのですが、その後も彼が大和朝廷を支える重要な役割を担っていたため、卑弥呼の重臣として天皇家を保持することができたのではないでしょうか?

次に、彌馬獲支について、崇神天皇の御名代の類ではないかと推測していますが、これでは年代的に不適合となります。

個人的には、前回の考察の結果から、獲支が「わけ」と読めるので、彌馬獲支を「みまわけ」と読み、「わけ」が『大日本国語辞典』に「主としてその地方を治むるものの称」とあることから、「みま」の支配者であった孝昭天皇(みまつひこ)から領地を受け継いだ人物、すなわち孝昭天皇の皇子と考えたいところです。

つまり、孝昭天皇は親子で卑弥呼に仕えていたため、二人を区別する必要から、孝昭天皇を「みまつ(ひこ)」、その皇子を「みまわけ」とよんだのではないでしょうか?

最後に、内藤氏は奴佳鞮を中臣(なかとみ)または中跡(なかと)に対応すると考えているのですが、この時代に中臣を名乗る人がいた可能性は低く、かつ、鞮を「とみ」と読むことは難しそうなので、ここでは「なかと」と読んでおきます。

なお、中跡氏は、奈加等神社の地(現在の三重県鈴鹿市)に起こった氏族だそうです。

また、「先代旧事本紀」によると、その始祖は天椹野命(あめのくののみこと)とされていて、本ブログの「卑弥呼の後継者」でご紹介した迩藝速日命(にぎはやびのみこと)の護衛役として、ともに天下った天津神(あまつかみ)の一柱だそうです。

次回は、孝昭天皇の晩年が卑弥呼の時代に相当する可能性について説明します。

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