古代の日本語

古代から日本語には五十音図が存在しましたが、あ行には「あ」と「お」しかありませんでした。

雄略天皇の和名

2021-11-28 09:36:04 | 古代の日本語

今回は、前回に続いて稲荷山古墳から出土した鉄剣の文字の解読です。

前回ご紹介したように、『倭王と古墳の謎』によると、この鉄剣には獲加多支鹵大王と刻まれていて、これを「わかたける」大王と読んで第二十一代雄略天皇に比定しています。

これは、六世紀までの天皇の和名を調べると、「かた」(加多)という音を含む天皇は、「わかたらしひこ」(第十三代成務天皇)と「おほはつせわかたけ」(雄略天皇)の二人しかいないので、古墳の推定築造年代(五世紀末頃)から雄略天皇に決定したのだと思われます。

このことは、雄略天皇の皇居である泊瀬朝倉宮(はつせあさくらのみや)が磯城縣(しきのあがた)にあったことからも、妥当な結論だと思われます。

参考までに、『大日本読史地図』の「上代の近畿」という地図の一部をご覧ください。

磯城縣
【磯城縣と泊瀬朝倉】(『大日本読史地図』より)

おそらく、泊瀬朝倉宮という名称は、後代の人が磯城にあった他の宮と区別するためにつけたもので、この鉄剣がつくられた当時、すなわち雄略天皇の生存中は、ここを斯鬼宮(しきのみや)とよんでいたのでしょう。

また、先頭の獲という漢字は、現代の読みは「かく」ですが、戦前の辞書には「くわく」と書かれていて、実際そのように発音されていたようですから、獲にW音が含まれていたのは確かだと思われます。

したがって、五世紀には、獲が「わか、わけ」のように「わ+K音」の場合の「わ」を表記する際に使われていたということのようです。

そうなると、支は「け」と発音されていたことになり、鹵は『明解漢和大字典』に漢音「ろ」、呉音「る」と書かれているので、日本語として自然な「る」という読みを採用したのでしょう。

これまでの情報をまとめると、次のような漢字の五十音図が得られます。

五世紀の表音漢字

なお、この鉄剣は西暦471年に制作されたと考えられるそうですから、これは「魏志倭人伝」の約200年後の五十音図ということになります。

次回からは、この情報を参照しながら、再び「魏志倭人伝」を解読していきます。

ところで、「わかたける」が雄略天皇であるなら、和名の「おほはつせわかたけ」(漢字表記は大泊瀬幼武)は「おほはつせわかたける」が正しいことになります。

この理由を推測すると、漢字の伝来からしばらくして、漢字を訓読みすることが流行し、「わかたける」に幼武という漢字をあてたため、後世の人はこれを間違って「わかたけ」と読んでしまったのだと思われます。

したがって、この鉄剣の解読によって、武を「たける」と読むことが明らかになり、千数百年ぶりに間違いが訂正されることとなったわけですが、これは「やまとたけるのみこと」(漢字表記は日本武尊)の場合から考えても納得できる結果です。

日本紀によると、日本武尊は第十二代景行天皇の皇子で、最初は小碓尊(をうすのみこと)という名前でしたが、九州の熊襲を退治した際に、敵から日本武という名前をもらったとされます。

面白いことに、古い文献で日本武の振り仮名を調べると、『世界智計談 上』(村田尚志:編、金松堂:1874年刊)、『歴史問答作文 上』(堀達之助:著、出雲寺万次郎:1881年刊)、『新撰詩文登階 下』(佐藤利信:編、1882年刊)、『和漢三才図会 巻之26 神社仏閣名所』(寺島良安:編、内藤書屋:1890年刊)では、「やまとたけ」または「やまとだけ」でした。

そして、この振り仮名が「やまとたける」となるのは、明治26年に出版された『小学帝国史 前科 上の巻』(笹本恕:編、神戸書店:1893年刊)からでした。

これは、江戸時代以前には日本武を「やまとたけ」と読むことが定着していたわけですが、明治維新によって旧薩摩藩の人々が政府の役人となり、正しい読み方を伝えたため、ついに歴史の教科書が「やまとたける」に書き換えられることになったと考えられるのです。

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稲荷山古墳の鉄剣

2021-11-21 10:16:56 | 古代の日本語

今回は、「魏志倭人伝」を解読するための参考資料として、埼玉県の稲荷山古墳から出土した鉄剣についてご紹介します。

『倭王と古墳の謎』(学生社:1994年刊)という本の第四章「埼玉古墳群とワカタケル」(日野宏:著)によると、稲荷山古墳は全長117メートルの巨大な前方後円墳で、この地方の首長の墓だと考えられるそうです。

そして、この古墳から出土した鉄剣には、115文字の漢字が金象嵌で刻まれていて、持ち主とその祖先の名前、および、当時の天皇の名前と宮廷の地名が次のように書かれていたそうです。

原文
読み
解説
意富比垝 おほひこ 初代
多加利足尼 たかりのすくね 二代目
弖已加利獲居 てよかりわけ 三代目
多加披次獲居 たかひしわけ 四代目
多沙鬼獲居 たさきわけ 五代目
半弖比 はてひ 六代目
加差披余 かさひよ 七代目
乎獲居臣 をわけの臣 八代目(持ち主)
獲加多支鹵大王 わかたけるの大王 雄略天皇
斯鬼宮 しきの宮 磯城の宮

まず、初代の意富比垝を「おほひこ」と読んだのは、古事記に「意富・・・」と書いて「おほ・・・」と読む人名が多数登場することに加えて、本ブログの「卑弥呼の後継者」でご紹介した崇神天皇の系図に、天皇の伯父かつ義父として登場する大彦命(おほひこのみこと)に比定したためかもしれません。

大彦命は、第九代開化天皇の兄にして、四道将軍の一人で、崇神天皇の時代に北陸道(こしのみち=越前+越中+越後)を平定した武将です。

この人は、『磐鹿六雁命御事績』(三宅孤軒:編著、全国同盟料理新聞社:1929年刊)という本によると、五男一女をもうけ、その子孫はいずれも大変繁栄したそうですから、関東地方に進出した子孫がいても不思議ではないのかもしれません。

次に、二代目の多加利足尼を「たかりのすくね」と読んだのは、多加利は「たかり」としか読めませんし、『国史大系 第七巻』(経済雑誌社:編)という本に収録された「先代旧事本紀」(せんだいくじほんぎ)に、足尼を「すくね」と読んでいるからでしょう。

ちなみに、『大日本国語辞典』によると、「すくね」(宿禰)は、「上古、臣下を親しみ尊びて呼べる称」だそうです。

次に、三代目の弖已加利獲居を「てよかりわけ」と読んだのは、獲を「わ」と読む理由については次回お話しすることにして、弖は天の異字体で、万葉仮名で読むと、弖は「て」、已は「よ」、居は「け」となるからでしょう。

以上の知識があれば、あとは漢和辞典を使って、四代目の多加披次獲居は「たかひしわけ」、五代目の多沙鬼獲居は「たさきわけ」と読むことができます。

次に、六代目の半弖比を「はてひ」と読んだのは、万葉仮名で読むと、半が「は」となるからでしょう。

次に、七代目の加差披余は、漢和辞典を使って「かさひよ」と読むことができます。

次に、八代目の乎獲居を「をわけ」と読んだのは、万葉仮名で読むと、乎が「を」となるからでしょう。

次に、獲加多支鹵大王については、この人が誰なのかを推測することによってどう読むかを決定したと思われるので、次回はこの点について深く掘り下げていきたいと思います。

最後の斯鬼は、崇神天皇などが皇居を置いた磯城(しき=現在の奈良県桜井市)に比定したのだと思われます。

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奴国の読みと意味

2021-11-14 09:05:17 | 古代の日本語

『上代日支交通史の研究』の内容を基に、「魏志倭人伝」に音写された三世紀の日本語をご紹介しています。

今回は、伊都国を出発してからの記述です。

原文
東南至奴國百里 東南、「ぬ」国に至る、百里
官曰兕馬觚副曰卑奴母離 官を「しまこ」といい、副官を「ひなもり」という
(中略)
 
東行至不彌國百里 東に行き、「ふみ」国に至る、百里
官曰多模副曰卑奴母離 官を「たま」といい、副官を「ひなもり」という
南至投馬國水行二十日 南、「とも」国に至る、水行二十日
官曰彌彌副曰彌彌那利 官を「みみ」といい、副官を「みみなり」という

藤田氏は、奴を「ぬ」と読んでいますが、『日本語源』(賀茂百樹:著)には、「野(ヌ) 古はナともヌともいへり。延(ヌラ)りとしたる広き野原の状を云ふ。」と書かれているので、福岡平野に栄えた国の名称が「ぬ」というのは理にかなっているようです。

ただし、本ブログの「壱岐から奴国へ」でご紹介したように、奴国はのちの儺縣(なのあがた)だと考えられますから、地名の発音が変化しにくいことを考慮すると、奴という漢字の発音が、三世紀には「な」だったが、その後変化したため、音を表記する漢字が奴から儺に変わったのだと思われます。

したがって、奴国は「な」国と読むのが正しく、意味は「平原」の国だと思われるのです。

次に、兕馬觚を「しまこ」と読んでいますが、これは支配者の称号としては意味不明なので、三世紀に特有の日本語だと考えるのが妥当なようです。

次に、不彌を「ふみ」と読んでいますが、本ブログの「壱岐から奴国へ」でご紹介したように、これは宇瀰(うみ=現在の糟屋郡宇美町)の前身だと考えられます。

次に、多模を「たま」と読んでいますが、日本紀には大国主命の別名として大国玉神(おほくにたまのかみ)という名前が挙げられていますから、「たま=ぬし」であったのなら、支配者の尊称として不足はなさそうです。

次に、投馬を「とも」と読んでいますが、これについては、本ブログの「奴国から邪馬台国へ」でご紹介したように、現在の広島県福山市鞆(とも)の浦とするのが藤田氏の推理です。

また、これを「たま」と読む可能性にも触れ、鞆の浦沖の玉津島に言及していますが、これはあまりにも小さな島なので、もし「たま」と読むのが正解なら、少し東の玉島(現在の岡山県倉敷市西南地区)の可能性が高いのかもしれません。

次に、彌彌を「みみ」と読んでいますが、これは天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと=天照大御神の御子)をはじめ、多くの貴人の名前の末尾に用いられている言葉なので、支配者の尊称としてふさわしいと思われます。

次に、彌彌那利を「みみなり」と読んでいますが、これは意味不明なので、三世紀に特有の日本語だと考えるのが妥当なようです。

なお、投馬国に至って、副官の名称が「ひなもり」から「みみなり」に変わったのは、都に近づいて「ひな」(田舎)ではなくなったためだと思われます。

次回は、「魏志倭人伝」の解読に役立つと思われる、稲荷山古墳から出土した鉄剣の文字をご紹介します。

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三世紀の日本語

2021-11-07 08:56:14 | 古代の日本語

これまで、「魏志倭人伝」の旅程について長々とご紹介してきましたが、これは、邪馬台国で使われていた言語を特定するためでした。

その結果、本ブログの「邪馬台国の正体」で考察したように、邪馬台国は大和朝廷だったと推定できますから、邪馬台国の言語は日本語であったという結論が導かれます。

つまり、「魏志倭人伝」には三世紀の日本語が音写されていると考えられますから、今回からは、本題の「古代の日本語」について論じていきたいと思います。

そこで、以前と同様に『上代日支交通史の研究』(藤田元春:著)の内容に基づいて、音写された日本語の解析を対馬国の部分から行なっていきます。

原文
始度一海千餘里至對馬國 はじめて一海を渡ること千余里、対馬国に至る
其大官曰卑狗副曰卑奴母離 その大官は「ひこ」といい、副官は「ひなもり」という
(中略)
 
又南渡一海千餘里名曰瀚海至一大國 また南に一海を渡ること千余里、(海の)名は瀚海といい、「いき」国に至る
官亦曰卑狗副曰卑奴母離 官はまた「ひこ」といい、副官は「ひなもり」という
(中略)
 
東南陸行五百里到伊都國 東南に陸行すること五百里、「いと」国に到着する
官曰爾支副曰泄謨觚柄渠觚 官は「にき」といい、副官は「しまこ、ひほこ」という

藤田氏は、卑狗を「ひこ」と読んでいますが、吉備の支配者を吉備津彦と称したように、支配者が「地名+彦」でよばれることは古代の日本では普通にあったことですから、「対馬彦」、「壱岐彦」(あるいは壱岐津彦)という支配者がいたとしても不思議ではありません。

なお、本ブログの「壱岐の「い」はや行だった」という記事でご紹介したように、藤田氏は一大を一支の誤りとして「いき」と読んでいます。

次に、卑奴母離を「ひなもり」と読んでいますが、「ひな」は「田舎」、「もり」は「守」と推測できますから、これは大和朝廷から派遣された、辺境を守護する役人の称号だったのかもしれません。

次に、伊都を「いと」と読んでいますが、『大日本国語辞典』によると、「伊」はあ行の「い」を表記する漢字ですから、三世紀には、あ行の「い」とや行の「い」が共存していたと考えられます。

次に、爾支を「にき」と読んでいますが、藤田氏は別のところで「ヌシと読むべし」と書いていて、「縣主(あがたぬし)のヌシである」と結論づけています。

しかし、これでは一大を一支の誤りとして「いき」と読んだことと矛盾しますから、三世紀の日本語には「にき」という尊称があったと考えるのが正しいのかもしれません。

最後に、泄謨觚柄渠觚を「しまこ、ひほこ」と読んでいますが、これも解読が困難ですから、結局、伊都国の官名は三世紀に特有の日本語だと考えるのが妥当なようです。

なお、伊都国に関しては、「郡使往来常所駐」(郡使が往来し常に駐(とど)まる所)とも書かれていて、帯方郡の使者をもてなす特別な立場の国だったようなので、大和朝廷から外交官が派遣されていたのは間違いないでしょう。

したがって、武官である卑奴母離に対して、泄謨觚柄渠觚は外交官だった可能性が高いと思われるのですが、西暦313年に帯方郡が滅んでからは、その重要性が失われて、官名が忘れられてしまったのかもしれません。

次回も「魏志倭人伝」の続きです。

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