古代の日本語

古代から日本語には五十音図が存在しましたが、あ行には「あ」と「お」しかありませんでした。

年代推定 神功皇后

2022-03-27 09:38:43 | 古代の日本語

今回からは、応神天皇から雄略天皇までの時代について、少し厳密に年代を推定し、漢字が輸入された時代背景を考察していきたいと思います。

そこで今回は、応神天皇の幼少期、すなわち母親の神功皇后が摂政だった時代について、『日本上代史の一研究 日鮮の交渉と日本書紀』(池内宏:著、近藤書店:1947年刊)という本を参考にしながら、年表を作成してみました。

この本の著者の池内宏氏は、『文禄慶長の役』、『東洋史論叢』、『元寇の新研究』、『満鮮史研究』などの本を書いている歴史学者で、虚偽の記述が多い古代の記録を精査して、歴史的事実と認められる事項を抽出しているので、その部分には★印をつけてあります。

なお、年代の決定方法ですが、神功紀には神功皇后の六十九年(没年)が己丑(つちのとうし)の年と書かれているので、この年を西暦389年と考えて年表を作成しました。

こうすると、己丑の翌年は庚寅(かのえとら)ですから、本ブログの「漢字の音訳時期」で、応神天皇が即位した庚寅の年を西暦390年と判断したことと整合がとれます。

また、年表に登場する三国史記は、この時代の朝鮮半島の記録で、平安時代末期(西暦1145年)に高麗で編集されたものです。

統治者
干支
西暦
特記事項
神功皇后 壬戌 362年 仲哀天皇の没年(古事記)
癸亥 363年 応神天皇の誕生はこの前後か?
甲子 364年 新羅に倭人襲来(三国史記)
乙丑 365年  
丙寅 366年  
丁卯 367年 ★百済朝貢(神功紀47年)
戊辰 368年  
己巳 369年 ★新羅征伐(神功紀49年)
庚午 370年  
辛未 371年  
壬申 372年 百済が七枝刀を献上(神功紀52年)
癸酉 373年  
甲戌 374年  
乙亥 375年 ★百済の近肖古王の没年(三国史記、神功紀55年)
丙子 376年  
丁丑 377年  
戊寅 378年  
己卯 379年  
庚辰 380年  
辛巳 381年  
壬午 382年 ★新羅征伐(神功紀62年)
癸未 383年  
甲申 384年 ★百済の近仇首王の没年(三国史記、神功紀64年)
乙酉 385年 ★百済の枕流王の没年(三国史記、神功紀65年)
丙戌 386年  
丁亥 387年  
戊子 388年  
己丑 389年 神功皇后の没年(神功紀69年)

これを見ると、三国史記に書かれている百済王の没年が、神功紀の記述と一致しており、この年表はかなり信頼できるのではないかと思われます。

なお、この時代の日本を取り巻く情勢ですが、西暦313年に高句麗が楽浪郡を滅ぼし、朝鮮半島北部の高句麗、西南部の百済、東南部の新羅の三国が対立する時代となっています。

参考までに、『大日本読史地図』の「任那と三国」という地図の一部をご覧ください。

任那と三国(一部)
【任那と三国(一部)】(『大日本読史地図』より)

この当時、朝鮮半島南部に任那を所有していた日本は、高句麗に圧迫されていた百済と友好関係を築く一方、新羅とは敵対し、何度も戦闘があったようです。

したがって、百済と友好関係を結んだことが、漢字が伝来するきっかけとなったようです。

次回も年代推定の続きです。

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古代歌謡の分析5

2022-03-20 07:59:42 | 古代の日本語

前回までは、仁徳天皇の時代にも、于がわ行の「う」、伊がや行の「い」を表記する漢字だったということを論じました。

そこで今回は、あ行の「う」が初めて使われたと思われる歌謡をご紹介しましょう。

次の歌は、雄略天皇の十三年に、歯田根命(はたねのみこと)という人物が、山邊の小島子という采女(うねめ=天皇の御膳を給仕する官女)と密通したことが露見して、馬8頭、大刀8本で罪の祓いをした際に、歯田根命が詠んだとされるものです。(参考文献:『紀記論究 外篇 古代歌謡(下)』)

原文
読み
意味
耶麼能謎能 やまのめの 山邊の
故思麼古喩衞爾 こしまこゆゑに 小島子ゆえに
比登涅羅賦 ひとてらふ 人の誇りとする
宇麼能耶都擬播 うまのやつげは 馬の八毛(8頭)は
鳴思稽矩謀那欺 をしけくもなし 惜しいこともない

ここで注目すべきは宇麼(うま=馬)で、この言葉が日本紀の歌謡に登場するのはこれが最初です。

また、『日本語原』によると、馬(うま)、牛(うし)、梅(うめ)、魚(うを)は漢字の朝鮮音に由来する外来語で、いずれもあ行に分類されています。(なお、魚は「うお」と書かれていますが、正しくは「うを」だと思われます。)

つまり、雄略天皇の時代以前に朝鮮半島経由で漢字が輸入され、こういった外来語が一般に広まった結果、雄略天皇の時代には「うま」(馬)という言葉も普通に使われるようになっていたと考えられるのです。

そして、外来語の発音の影響を受けて、この時代にはわ行の「う」があ行に移動していたのではないかと思われるのです。

なお、外来語の「う」があ行であることは、次の図に示すように「うを」を「いを」とも言うので、間違いないと思われます。(「う」がわ行なら「ゐを」となるはずです。)

いを(魚)
【いを(魚)】(『大日本国語辞典』より)

また、「うを」を「いを」と言うのであれば、や行の「い」もあ行に移動していたと考えてよさそうです。

そこで次回からは、少し厳密な年代推定を行ない、漢字が輸入された時代背景を考察していきます。

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古代歌謡の分析4

2022-03-13 08:25:52 | 古代の日本語

前回は、仁徳天皇の時代にも、于がわ行の「う」を表記する漢字だったということを論じました。

そこで今回は、本ブログの「古代歌謡の分析1」で論じた、応神天皇の時代には伊がや行の「い」を表記する漢字であったという結論が、仁徳天皇の時代にも通用するのか調べてみました。

次の歌は、仁徳天皇の四十年に、天皇が異母妹の雌鳥皇女(めどりのひめみこ)を妃にするため、異母弟の隼別皇子(はやぶさわけのみこ)を仲人として遣わしたところ、雌鳥皇女が隼別皇子と恋仲になり、皇子の舎人(とねり=従者)たちが詠んだとされるものです。

なお、漢字の表記と読みについては『日本紀標註』を、意味については『紀記論究 外篇 古代歌謡(上)』を参照しました。

原文
読み
意味
破夜歩佐波 はやぶさは ハヤブサは
阿梅珥能朋利 あめにのぼり 天に昇り
等弭箇慨梨 とびかけり 飛び翔けり
菟岐餓宇倍能 つきがうへの いつき(槻=けやき)の上の
娑弉岐等羅佐泥 さざきとらさね 小鳥を捕れ

仁徳天皇の和名は大鷦鷯(おほさざき)で、鷦鷯は借字ですが、これがミソサザイという小鳥を意味するので、隼別皇子をハヤブサに、仁徳天皇を小鳥に見立てて、皇子が天皇を倒すようそそのかす内容となっています。

ここで注目すべきは伊菟岐(いつき)で、「つき」は強い木という意味であって種名ではなく、他の巨木と区別するために「い」を冠したものだそうです。

また、「ゆつき」(由槻)という山名もあるところから、この「い、ゆ」は齋(さい=飲食や行ないを慎み、心身を清める行為)という意味でなければならないのだそうです。

つまり、「い」は「ゆ」と同じ意味の言葉ですから、「いつき」の「い」はや行の「い」に間違いないでしょう。

したがって、仁徳天皇の時代においても、伊がや行の「い」を表記する漢字だったと思われるのです。

次回も古代歌謡の分析です。

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古代歌謡の分析3

2022-03-06 10:40:55 | 古代の日本語

前回は、応神天皇の時代には、宇、于、紆、禹の4文字がわ行の「う」を表記する漢字だったということを論じました。

そこで今回は、次の仁徳天皇の時代においても、于がわ行の「う」を表記する漢字だったかどうか検証してみました。

次の歌は、仁徳天皇の二十二年に、天皇が、妃をもう一人皇居に住まわせるため、皇后の同意を求めて詠んだとされるものです。

なお、漢字の表記と読みについては『日本紀標註』を、意味については『紀記論究 外篇 古代歌謡(上)』を参照しました。

原文
読み
意味
于磨臂苔能 うまひとの 長老の
多菟屢虛等太氐 たつることだて 建言(によれば)
磋由豆流 さゆづる 予備の弓弦(を必要とする)
多由磨菟餓務珥 たゆまつがむに 途絶えた間を継ぐためには
奈羅陪氐毛餓望 ならべてもがも 並べてみたいものである

ここで、「うさゆづる」とは、弓の弦(つる)が切れた場合に使う予備の弦で、『大日本国語辞典』によると、これは「をさゆづる」とも言うので、于がわ行の「う」を表記する漢字だったことは間違いないでしょう。

うさゆづる
【うさゆづる】(『大日本国語辞典』より)

したがって、仁徳天皇の時代には、わ行の「う」は、まだあ行に移動していなかったと思われるのです。

なお、この歌は、次のように括弧の部分を補って解釈すると、意味がよく理解できるそうです。

【歌の解釈】長老の意見によれば、切れた部分を継ぐためには予備の弦を必要とする。(それと同様に、皇居の空いた寝室をみたすために、妃をもう一人いれて)並べてみたいものである。

次回も古代歌謡の分析です。

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