古代の日本語

古代から日本語には五十音図が存在しましたが、あ行には「あ」と「お」しかありませんでした。

年代推定 安康天皇と雄略天皇

2022-04-24 08:04:50 | 古代の日本語

『日本上代史の一研究』を参考にしながら倭の五王に関する年表を作成していて、今回は安康天皇と雄略天皇の時代です。

なお、年表の★印は、著者の池内宏氏が歴史的事実と判断した事項です。

また、年表に登場する百済新撰は、日本紀のなかで引用されている、失われた百済の歴史書です。

統治者
干支
西暦
特記事項
安康天皇 辛丑 461年 安康天皇が即位(仮定)
★百済の蓋鹵王が弟の昆支を倭に遣わす(百済新撰)
壬寅 462年 ★大明六年 済死し、世子興遣使して貢献す(宋書倭国伝)
癸卯 463年 安康天皇が暗殺される(安康紀3年)
雄略天皇 甲辰 464年 雄略天皇が即位(仮定)
乙巳 465年  
丙午 466年  
丁未 467年  
戊申 468年  
己酉 469年  
庚戌 470年  
辛亥 471年  
壬子 472年  
癸丑 473年  
甲寅 474年  
乙卯 475年 ★高句麗が百済を破り蓋鹵王を殺す(三国史記)
丙辰 476年 ★高句麗が百済の朝貢を妨害する(三国史記)
丁巳 477年 ★昇明元年 倭国遣使して方物を献ず(宋書順帝紀)
戊午 478年 ★昇明二年 倭国王武、遣使して方物を献ず、武をもって安東大将軍となす(宋書順帝紀)
己未 479年 ★宋が滅び、斉(南斉)が建国される
★建元元年 倭王武を鎮東大将軍となす(南斉書東南夷伝倭国条)
庚申 480年  
辛酉 481年  
壬戌 482年  
癸亥 483年  
甲子 484年  
乙丑 485年  
丙寅 486年 雄略天皇の没年(雄略紀23年)

ここで、安康天皇の即位は、倭の五王「興」に関する中国の記録の1年前と考えて、西暦461年と仮定しました。

また、安康天皇は即位から3年目に暗殺されているので、雄略天皇の即位は西暦464年と仮定しました。

そして、雄略天皇の没年は、雄略紀に即位から23年目と書かれているので、西暦486年と仮定しました。

なお、雄略天皇が西暦464年に即位したのであれば、その翌年までには朝貢があったはずですが、それが中国の歴史書に記録されていないのは、朝鮮半島の情勢が関係していたのかもしれません。

というのも、高句麗は、西暦476年に百済の朝貢を妨害しており、倭に対しても同様の妨害工作を行なった可能性が考えられるからです。

さて、雄略天皇は、西暦478年に安東大将軍の称号を、翌年に鎮東大将軍の称号を得ますが、これらが外交上どのような影響力を発揮したかはまったく不明です。

ただし、日本紀によると、この天皇は、自分に向かって突進してくる猪を弓で射止め、足で踏み殺した猛者だったそうですから、こういった称号とは無関係に、存在感のある人物だったようです。

もっともそれは、英雄としてではなく、恐怖すべき対象としての存在感だったようで、彼は二人の兄弟を切り殺し、皇位継承予定者の市邊押磐皇子(いちのへのおしはのみこ=履中天皇の皇子)をも射殺しています。

また、彼が誤って多くの人々を殺したため、民衆からは「太悪天皇」(いたくさがなきすめらみこと)と非難されたそうです。

実は、このような悪名高い天皇は他にもいて、第二十五代武烈天皇は、「造諸悪、不修一善」(もろもろのあしきことをなして、ひとつのよきことをもおさめたまわず)という人物だったそうです。

天皇家の歴史は権力争いの歴史であり、皇族間で殺し合うことが珍しくなかったため、こういった暴君が出現したことは不思議ではないのかもしれませんね。

以上で倭の五王の年表が完成し、私自身、これで四世紀後半から五世紀末頃までの日本と朝鮮半島の状況がすっきりと理解できるようになりました。

次回からは、本題の「古代の日本語」に戻りたいと思います。

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年代推定 反正天皇と允恭天皇

2022-04-17 09:34:13 | 古代の日本語

前回までの考察によって、漢字が輸入された時代背景は明らかになったと思われますが、せっかくなので、残りの倭の五王についても年表を作成していきたいと思います。

今回は、反正天皇と允恭天皇の時代です。

なお、年表の★印は、『日本上代史の一研究』の著者の池内宏氏が歴史的事実と判断した事項です。

統治者
干支
西暦
特記事項
反正天皇 丁丑 437年 反正天皇が即位(仮定)
戊寅 438年 ★元嘉十五年 倭国王珍を安東将軍となす(宋書文帝紀)
★讃死して弟珍立つ(宋書倭国伝)
己卯 439年  
庚辰 440年  
辛巳 441年 反正天皇の没年(仮定)
允恭天皇 壬子 442年 允恭天皇が即位(仮定)
癸未 443年 ★元嘉二十年 倭国王済、遣使奉献す(宋書倭国伝)
甲申 444年  
乙酉 445年  
丙戌 446年  
丁亥 447年  
戊子 448年  
己丑 449年  
庚寅 450年  
辛卯 451年 ★元嘉二十八年 倭国王済の称号の変更(宋書倭国伝)
壬辰 452年  
癸巳 453年  
甲午 454年  
乙未 455年 ★百済の蓋鹵王が即位(三国史記)
丙申 456年  
丁酉 457年  
戊戌 458年  
己亥 459年  
庚子 460年 ★大明四年 倭国遣使して方物を献ず(宋書孝武帝紀)
允恭天皇の没年(仮定)

ここで、允恭天皇の没年は、次回ご紹介する倭の五王「興」(安康天皇)に関する中国の記録の2年前と考えて、西暦460年と仮定しました。

そして、允恭天皇の即位は、倭の五王「済」に関する中国の記録の1年前と考えて、西暦442年と仮定しました。

同様に、反正天皇の即位は、倭の五王「珍」に関する中国の記録の1年前と考えて、西暦437年と仮定しました。

すると、反正天皇の没年は必然的に西暦441年となりますが、これは、反正天皇の在位期間が5年であるとする古事記の記述と整合がとれます。

なお、日本紀によると允恭天皇の没年は即位から42年目となっていますが、これも応神天皇や仁徳天皇の場合と同様の作為で、この場合は在位期間が23年延長されていることになります。

さて、反正天皇は、高句麗に遅れること25年、百済に遅れること22年にして、やっと安東将軍の称号を得ます。

ただし、反正天皇は自らを「使持節都督・倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事・安東大将軍」と称して上表したそうですから、安東将軍という称号には満足しなかったと思われます。

なお、秦韓・慕韓は、三国(高句麗・百済・新羅)時代以前に存在した辰韓・馬韓のことで、この時代には有名無実化していた国名だそうです。

また、この長い称号は、朝鮮半島南部が倭の属領であることを主張したもので、対半島政策に役立てるための一つの方便として大国の威を借りようとしたものと考えられるそうです。

そして、この称号に百済が入っているのは、西暦367年の朝貢開始以来、百済が倭に服属し続けていたためで、西暦455年に即位した蓋鹵王も西暦461年に弟の昆支を倭に人質に出しているので、この関係は五世紀になっても変わらなかったようです。

一方、允恭天皇は、西暦451年に「使持節都督・倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事・安東将軍」という称号を得ることに成功します。

この称号を、反正天皇が自称したものと比較すると、百済を削って加羅を加えていますが、加羅は実質的には任那の別名なのだそうです。

つまり、宋は、百済王に鎮東大将軍という称号まで授けた手前、百済を倭の属領と認めることはできなかったということのようです。

次回も年代推定の続きです。

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年代推定 仁徳天皇と履中天皇

2022-04-10 08:14:24 | 古代の日本語

漢字が輸入された時代背景を考察するため、『日本上代史の一研究』を参考にしながら年表を作成していて、今回は仁徳天皇と履中天皇の時代です。

この時代の朝鮮半島の資料は極めて乏しいのですが、中国の歴史書に倭の朝貢のことが書かれていて、そこに五人の王の名前が登場することから、これを倭の五王とよんでいます。

この本では、歴史学者の那珂通世氏や歴史・地理学者の吉田東伍氏の説を紹介して、倭の五王を次のように比定しています。

倭の五王 該当する天皇
仁徳天皇
反正天皇
允恭天皇
安康天皇
雄略天皇

つまり、仁徳天皇は倭王「讃」であり、次の履中天皇は倭の五王ではなかったようです。

参考までに、この時代の天皇家の系図が本ブログの「漢字の音訳時期」にあるので、よかったらご覧ください。

なお、年表の作成にあたり、当時の交通事情や、中国への使いが正月の祝賀行事に参列した可能性などを考慮して、中国の記録の前年に天皇が即位したと仮定しました。

また、年表の★印は、著者の池内宏氏が歴史的事実と判断した事項です。

統治者
干支
西暦
特記事項
仁徳天皇 壬子 412年 仁徳天皇が即位(仮定)
癸丑 413年 ★義熙九年 高句麗、倭国・・・方物を献ず(晋書安帝紀)
★安帝の時、倭王讃あり(南史東夷伝)
甲寅 414年  
乙卯 415年  
丙辰 416年  
丁巳 417年  
戊午 418年  
己未 419年  
庚申 420年 ★晋(東晋)が滅び、宋(劉宋)が建国される
辛酉 421年 ★永初二年 倭讃、萬里貢を修む(宋書倭国伝)
壬戌 422年  
癸亥 423年  
甲子 424年  
乙丑 425年 ★元嘉二年 讃また司馬曹達を遣し表を奉り方物を献ず(宋書倭国伝)
丙寅 426年  
丁卯 427年 ★高句麗が平壌に遷都(高句麗の南下)
戊辰 428年  
己巳 429年  
庚午 430年 ★元嘉七年 倭国王、遣使して方物を献ず(宋書文帝紀)
辛未 431年 仁徳天皇の没年(仮定)
履中天皇 壬申 432年 履中天皇が即位(仮定)
癸酉 433年  
甲戌 434年  
乙亥 435年 はじめて諸国に国史(ふみひと)を置いた(履中紀4年)
丙子 436年 履中天皇の没年(仮定)

ここで、履中天皇の没年は、次回ご紹介する倭の五王「珍」(反正天皇)に関する中国の記録の2年前と考えて、西暦436年と仮定しました。

そして、履中天皇の在位期間は、日本紀によると6年、古事記によると5年なので、短い方の5年を採用し、履中天皇は西暦432年に即位したと仮定しました。

そう考えると、必然的に仁徳天皇の没年は西暦431年になりますから、在位期間は20年だったと計算できます。

なお、日本紀によると仁徳天皇の没年は即位から87年目となっていますが、これも応神天皇の場合と同様の作為で、仁徳天皇の場合は実に67年も在位期間が延長されていることになります。

さて、倭が晋(東晋)に朝貢した西暦413年は、高句麗の広開土王が没し、子の長寿王が即位した年で、高句麗もまたこの年に晋に朝貢し、長寿王は征東将軍という称号を授けられています。

また、前回登場した百済の腆支王は、西暦416年に朝貢し、鎮東将軍という称号を授けられています。

朝鮮半島では、この長寿王のときに高句麗の勢力がますます盛んになり、百済と新羅を圧迫した結果、百済はかつて敵対していた新羅と協力して高句麗に対抗するようになっていったそうです。

一方、中国では、西暦420年に晋が滅んで、宋(劉宋)が建国されました。

その際、宋の武帝は高句麗と百済に建国を告げ、長寿王を征東大将軍に、腆支王を鎮東大将軍にそれぞれ昇進させています。

倭が、西暦421年に宋に朝貢したということは、こういった海外の情報収集に努めていた証拠でしょう。

仁徳天皇は、交通の便がよい難波高津宮(現在の大阪府大阪市中央区)に皇居を移しましたが、これは海外の情報収集が目的だったのかもしれません。

続いて、西暦425年の朝貢では、「表を奉り」と書かれていますが、この表は漢文で書かれていたはずですから、この朝貢は、西暦405年に始まったと思われる漢字の習得が順調に進み、漢文で意思疎通ができるようになったことを意味しているようです。

したがって、本ブログの「漢字の音訳が意味するもの」でご紹介した、水(sui)を「すゐ」(suwi)、類(rui)を「るゐ」(ruwi)などと音訳する作業は、この間に行なわれていたと思われます。

最後に、履中天皇の四年(西暦435年頃か?)に、はじめて諸国に国史(ふみひと)を置いたことが日本紀に書かれているので、この時期には漢字の読み書きができる人が増えて、地方の記録も作成されるようになったようです。

このことは、本ブログの「稲荷山古墳の鉄剣」でご紹介した、西暦471年に制作されたと考えられる埼玉県出土の鉄剣に、115文字の漢字が刻まれていたことと整合がとれるようです。

次回も年代推定の続きです。

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年代推定 応神天皇

2022-04-03 08:00:54 | 古代の日本語

漢字が輸入された時代背景を考察するため、『日本上代史の一研究』を参考にしながら年表を作成していて、今回は応神天皇の時代です。

なお、この年表に登場する阿華王は、三国史記には阿莘王と書かれていますが、日本紀には阿花王と書かれているので、莘は華の誤りなのだそうです。

また、年表の★印は、著者の池内宏氏が歴史的事実と判断した事項です。

統治者
干支
西暦
特記事項
応神天皇 庚寅 390年 応神天皇即位(応神紀元年)
辛卯 391年 ★倭の侵攻(広開土王の碑)
高句麗の百済侵略(三国史記)
壬辰 392年 ★百済の阿華王が即位(三国史記、応神紀3年)
癸巳 393年 ★百済が高句麗と交戦(三国史記)
甲午 394年  
乙未 395年 ★百済が高句麗と交戦(三国史記)
丙申 396年 ★高句麗の百済征伐(広開土王の碑)
丁酉 397年 ★百済が太子の腆支を倭国に人質に出す(三国史記、応神紀8年)
戊戌 398年  
己亥 399年  
庚子 400年 ★高句麗が新羅を救って倭を破る(広開土王の碑)
辛丑 401年  
壬寅 402年  
癸卯 403年  
甲辰 404年 ★高句麗が倭と百済の連合軍を破る(広開土王の碑)
百済が馬2頭を献上(応神紀15年)
乙巳 405年 ★百済の阿華王の没年、腆支王が即位(三国史記、応神紀16年)
百済から王仁が来朝(応神紀16年)
丙午 406年  
丁未 407年  
戊申 408年  
己酉 409年  
庚戊 410年  
辛亥 411年 応神天皇の没年はこれ以前か?

これを見ると、三国史記に書かれている百済王の即位年や没年が応神紀の記述と一致しており、この年表もかなり信頼できるのではないかと思われます。

当時の朝鮮半島では、百済が高句麗に圧迫されていたため、百済には日本との友好関係を深めなければならない理由が存在したわけです。

また、日本も、高句麗には勝てなかったようですから、当時の大国だった中国の後ろ盾を得る必要があると判断して、その手始めとして漢字で書かれた文献と、それを教授できる人材を百済に求めたのでしょう。

そこで、応神天皇の十六年に、百済から王仁が来朝し、漢字の知識を日本人に教えることになったようです。

ここで注目すべきは、その前年に馬二頭が百済から贈られたことで、古事記によるとこの二頭はつがいだったので、このときから日本で馬の繁殖が始まったようです。

前々回ご紹介したように、雄略天皇の時代の歌謡に「うま」という言葉が使われているのは、この繁殖事業が成功して馬の数が増えた結果、この外来語が広く知られるようになったからだと思われます。

なお、応神天皇の没年は、日本紀によると即位から41年目となっていますが、これは神功皇后を魏志倭人伝の卑弥呼に比定したことによる作為で、仁徳天皇や允恭天皇なども在位期間が不自然に延長されています。

実際には、次回ご紹介する倭の五王に関する中国の記録から、応神天皇の没年は西暦411年かそれ以前だと考えられるのです。

次回も年代推定の続きです。

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