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古代の日本語

古代から日本語には五十音図が存在しましたが、あ行には「あ」と「お」しかありませんでした。

古語拾遺の正当性

2025-04-19 10:55:56 | 古代の日本語

『典籍雜攷』(山田孝雄:著、宝文館:1956年刊)という本に掲載されている「神宮文庫に傳ふる神代文字」という論文についてご紹介しています。

この論文の著者の山田孝雄氏は、漢字伝来以前には文字がなかったとする文献が多数存在することを指摘して「かみのみたから」を否定し、その最古の文献として『古語拾遺』(齋部廣成:著、大同二年刊)を挙げています。(大同二年は西暦807年)

この本の序文の冒頭には「蓋聞。上古之世。未有文字。」(けだしきく。じょうこのよ。いまだもじあらず。)と書かれているので、確かにこれだけを見れば、上古(大昔)には日本に文字はなかったことになります。

しかし、学者なら、まずは『古語拾遺』に書かれていることがすべて妥当であると証明してから、だから「蓋聞。上古之世。未有文字。」も信用できるのだと論じるべきではないでしょうか?

ところが、言語学者の松岡静雄氏は、『紀記論究 建国篇 師木宮』(同文館:1931年刊)という本において、「古語拾遺の所説の信ずべからざることは、前篇来屡々述べた通りである。」と語り、『古語拾遺』の正当性を否定しているのです。

つまり、山田氏は、引用した文献が信用できないことには目をつぶり、自分の主張に都合のいい部分だけを抜き出して「かみのみたから」を否定していることになります。

しかも、松岡氏によれば、『古語拾遺』は、中臣氏に比べて忌部氏が優遇されないことを不平とし、その祖先の功績を陳述したものだそうですから、実は平安時代初頭には、古事記や日本紀が神代文字で書かれた文献を参照していることが常識だったため、著者の齋部廣成(いんべひろなり)は、古事記や日本紀の正当性を否定する目的で、あえて序文の冒頭に「蓋聞。上古之世。未有文字。」と書いた可能性すら考えられるのです。

なお、山田氏は、『古語拾遺』の次に『革命勘文』(三善淸行:著、昌泰四年刊)を挙げていますが、そこに書かれた「上古之事、皆出口傳」(じょうこのこと、みなくでんにいづ)という文言は『古語拾遺』の冒頭の文章を言い換えただけのように思われます。(昌泰四年は西暦901年)

そもそも、山田氏は神代文字が存在しないことを証明するためにいったいどれくらいの労力を費やしたのでしょうか?

私がなぜこんなことを考えるかというと、それは、一般的に何かが存在しないことを証明するのは非常に困難であり、逆に、それが存在することを証明するのは比較的簡単なことだからです。

たとえば、神代文字が存在しないことを証明するためには、日本中の神社や仏閣、古文書を所有する個人などをくまなく調査して、もし「神代文字もどき」が発見されたら、それを科学的に否定することが必要だと考えられますが、果たして彼はそれをどれだけ実行したのでしょうか?

これに対して、神代文字が存在することを証明するには、先人が残してくれた資料に理論的な裏付けを加えるだけでよかったので、阿比留文字に関しては、や行の「い、え」とわ行の「う」があ行に移動していないことを根拠に、これが神代文字であることを証明することができたのではないかと思います。(参考:本ブログの「古代の五十音図」)

これは、『皇朝原始訓蒙』(梅村正甫:著、香泉書房:1873年刊) という本に載っている「土牘秀真文」(はにふたほつまぶみ)についても同様で、次の図に示すようにこの文字もやはりあ行には「い、う、え」が存在しません。

土牘秀真文の五十音図
【土牘秀真文の五十音図】(梅村正甫:著『皇朝原始訓蒙』より、原図はいろは順)

山田氏は、神代文字など存在するはずがないという先入観で物事を見ていたため、こんな簡単なことも見逃してしまったのではないでしょうか?

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「かみのみたから」に対する批判

2025-03-30 08:43:48 | 古代の日本語

これまで10回にわたって『ついに現われた幻の奉納文 伊勢神宮の古代文字』(丹代貞太郎・小島末喜:著、小島末喜:1977年刊)という本の内容をご紹介してきましたが、いかがだったでしょうか?

こういった貴重な資料を、内容を精査することなく頭からニセモノと決めつけてしまう人が多いことは残念ですが、これまでの調査によって、これらの「かみのみたから」が国宝級の文化財であることが明かになったのではないかと思います。

さて、この調査をあまり長く続けるのは読者の皆さんを退屈させてしまうと思われるので、この続きはまた別の機会に譲ることにして、今回は、「かみのみたから」に対する批判がどのようなものなのかご紹介したいと思います。

私が調べたところ、『典籍雜攷』(山田孝雄:著、宝文館:1956年刊)という本に掲載されている「神宮文庫に傳ふる神代文字」という論文が、「かみのみたから」に対する批判として最も有名なもののようで、その主張を要約すると以下の4点となります。

1.漢字伝来以前には文字がなかったとする文献が多数存在すること。

2.古くから言い伝えられている日文(ひふみ)四十七音について、無意味な音の羅列で荒唐無稽であること。

3.奈良朝頃までは日本語にア行のエとヤ行のエとが日常の語にも明かに区別されていて四十八音であったこと。

4.「かみのみたから」には、神代の記事や、神代の神々の書というものが無く、どう見ても明治時代の人の手に成ったものであること。

なお、日文四十七音とは、次の図に示すような、「ひふみよいむなやこともちろらねしきるゆゐつわぬそをたはくめかうおえにさりへてのますあせゑほれけ」という呪文のような文字列です。

日文四十七音

この本の著者の山田孝雄氏は、文化勲章を受章した国語学者なので、これらの批判は一見もっともな指摘のように思われるかもしれませんが、実は独断と偏見に満ちた非常識な議論であって、とても学者が書いたものとは思われないのです。

私がそう考える理由を列挙すると、以下のようになります。

1に関しては、神代に文字があったと書かれている文献(釈日本紀、神代巻口訣)も存在するので、無意味な議論となっています。

2に関しては、日文四十七音の意味は、『五十音図説』(亀田鶯谷:著、一二三社:1878年刊)という本に説明されており、決して無意味な音の羅列ではありません。山田氏は、自身の不勉強や頭の悪さを棚に上げて、十分な調査もせずに荒唐無稽だと決めつけているのです。

3に関しては、このブログで論じてきたように、奈良時代初頭にはア行のエが存在しなかったことは明白ですから、奈良朝頃までは四十八音だったという山田氏の認識は根本的に間違っています。

4に関しては、紙が存在しなかった古い時代の記録が無いのは当たり前であり、しかも紙は劣化するため、模写を繰り返して後世に伝える必要があるので、明治時代に模写されたとしても何の不思議もありません。

ただし、この説明では納得できないという方もおられるでしょうから、次回以降、この問題をさらに詳しく論じていきたいと思います。

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和気清麻呂の奉納文 その2

2025-02-02 09:20:14 | 古代の日本語

『ついに現われた幻の奉納文 伊勢神宮の古代文字』(丹代貞太郎・小島末喜:著、小島末喜:1977年刊)という本の内容をご紹介しています。

今回ご紹介するのは、和気清麻呂の2枚目の奉納文ですが、これは前々回ご紹介した、道鏡事件が『続日本紀』編集者の創作であるという説に関係すると思われるものです。

【和気清麻呂の2枚目の奉納文】

番号
読み
解釈
古代文字の種類
15
わかみかとはあめつちのは 我がみかどは天地のは 阿比留文字
しめよりこのかた 和気清麿(花押) じめよりこのかた 和気清麻呂 阿比留文字+漢字
きみとやつことさたまれり 君と奴と定まれり 阿比留文字

まず、この奉納文の意味を知るため、同じような文言が使われている文献がないか探したところ、『平田翁講演集』(平田篤胤:著、室松岩雄:編、法文館書店:1913年刊)という本に、前々回ご紹介した宇佐神宮の御託宣の原文「我國家開闢以來、君臣定矣」を、

「わがみかどはあめつちのはじめよりこのかた、きみとやつことさだまれり」

と読んでいるのを発見しました。つまり、この奉納文は宇佐神宮の御託宣の前半部分であると解釈できるのです。

なお、「みかど」については、『大日本国語辞典』を調べてみると、5番目に「帝王の治め給ふ國土。國家。」と書かれているので(次図参照)、「みかど=国家」で問題ないでしょう。

みかど

【みかど】(上田万年・松井簡治:著『大日本国語辞典』より)

したがって、この奉納文が存在するということは、和気清麻呂は宇佐神宮の御託宣として確かにこの文言を持ち帰ったのだと思われます。

ところで、前々回ご紹介した『訓読続日本紀』には、孝謙上皇が淳仁天皇を退位させた際に、その根拠として、彼女が父親の聖武天皇から、「王(おほきみ)を奴(やつこ)となすとも、奴を王と云ふとも、汝(いまし)の爲(せ)むまにまに・・・」と言われたことを挙げています。

つまり、自分には、聖武天皇から王(皇族男子)を奴(臣下)にする権限が与えられているという主張です。(なお、王を皇族男子と解釈する理由は、本ブログの「舎人親王の奉納文」で解説済み)

ここからは私の想像となりますが、道鏡事件には次のような経緯があったのかもしれません。

1.何らかの理由で、和気清麻呂は宇佐神宮の御託宣を持ち帰った。(弓削道鏡とは無関係)

2.その文言は「わがみかどはあめつちのはじめよりこのかた、きみとやつことさだまれり」だった。

3.これは聖武天皇の言葉を否定するものだったため、称徳(孝謙)天皇はこれに激怒し、清麻呂を大隅に配流した。

4.しかし、『続日本紀』編集者は、この事件を道鏡の野望を阻止した物語に脚色するため、御託宣の後半部分を創作し、道鏡がこれに激怒したことにした。

参考までにご紹介すると、前々回の「『続日本紀』と道鏡事件」(中西康裕:著)という論文では、道鏡事件創作の動機を次のように推測しています。

すなわち、第四十九代光仁天皇の即位は天武系から天智系への皇統の転換であり、その子である第五十代桓武天皇には「新王朝」創設という意識があったため、『続日本紀』編纂にあたって、皇位継承をめぐる混乱、すなわち道鏡事件を創作することによって「前王朝」の失態を現出させ、「新王朝」誕生は革命であったという根拠にしたのではないかというものです。

確かに桓武天皇は、平安遷都によって千年の都を築き、蝦夷の反乱を平定して領土を北方に拡大し、律令政治の改革を断行した名君ですから、「新王朝」における革命の旗手を自任していた可能性は高く、道鏡事件を「創作」する動機はあったと言えそうです。

そう考えると、この奉納文も、歴史的な事実を検証する上で非常に貴重な資料であると思われるのです。

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和気清麻呂の奉納文

2025-01-05 10:23:39 | 古代の日本語

『ついに現われた幻の奉納文 伊勢神宮の古代文字』(丹代貞太郎・小島末喜:著、小島末喜:1977年刊)という本の内容をご紹介しています。

今回は、本来なら「13」という番号が割り当てられている藤原千常という人物の奉納文ですが、この人は10世紀後半に活躍した武将で、弓削道鏡よりも200年ほど後の時代の人なので省略し、より歴史的価値が高い、次の和気清麻呂の奉納文をご紹介します。

【和気清麻呂の奉納文】

番号
読み
解釈
古代文字の種類
14
とほつみおやのみたまよよのおやたちうからやか 遠皇祖の御魂 代々の祖達 親族(うがらやか 阿比留文字
のみたまあめにのほりてかへりことまをしひの ら)の御魂 天に登りて返り言申し 日の 阿比留文字
わかみやにととまりき わけきよまろふみ 少宮に留まりき 和気清麻呂書 阿比留文字

この奉納文に書かれた文言は、日本紀にも使われているので、『日本紀標註』(敷田年治:著、小林林之助:1891年刊)という本を参考にして解説します。

まず、1行目の「とほつみおや」は、孝徳紀元年秋七月の條に「遠皇祖」の訓として使われているので、皇室の祖先を意味しているようです。

ちなみに、皇室以外の氏族の祖先は「遠祖」(とほつおや)と書かれています。

また、「うからやかり」は、顕宗紀元年の條の直前に「親族」の訓として「うがらやから」と書かれているので、「り」は「ら」の間違いだと思われます。(赤字の部分)

次に、2行目の「あめにのほりて・・・」以降に対応する部分は、神代上の伊弉諾尊(いざなぎのみこと)の最期の記事に、「登天報命仍留宅於日之少宮矣」と書かれていて、「あめにのぼりてかへりことまをしたまひき、かれ、ひのわかみやにとどまりましぬ」と訓がつけられています。

和気清麻呂は、『和気清麻呂公』(岡山県教育会:1940年刊)という本によると、天平五年(西暦733年)に生まれているので、この奉納文を日本紀(西暦720年完成)から引用して書いたことはとても自然なことだと思われます。

そう考えると、「登天報命仍留宅於日之少宮矣」という文章は、実は敬語を省略して「あめにのぼりてかへりことまをし、ひのわかみやにとどまりき」と読むのが正しいということになります。

また、全体の意味は、「皇室の祖先の御魂や、代々の祖先・親族の御魂は、(伊弉諾尊と同じく)天に登り、(神々に)あいさつを申し上げ、日の少宮に留まった」となります。

3行目の最後は奉納者の署名で、「わけきよまろ」に相当する人物は和気清麻呂と考えられますから、これまでと同様、氏(うぢ)と名の間に「の」を挿入することはなかったということが分かります。

また、末尾の「ふみ」は、単純に考えれば「文」ですが、「〇〇が書いた」という意味を考慮すると「書」という漢字を当てるのがふさわしいと思われます。(次図参照)

「書」という漢字の意味
【「書」という漢字の意味】(土屋鳳洲:著『明解漢和大字典』より)

この奉納文は、日本紀の正しい訓読みと、和気清麻呂の正しい読み方を明らかにしていると考えられますから、これまでと同様、非常に歴史的価値の高いものであると判断できるのです。

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弓削道鏡の奉納文

2024-12-09 12:42:08 | 古代の日本語

『ついに現われた幻の奉納文 伊勢神宮の古代文字』(丹代貞太郎・小島末喜:著、小島末喜:1977年刊)という本の内容をご紹介しています。

今回は、弓削道鏡の奉納文ですが、実は彼の奉納文だけは日本の古代文字ではなく漢字で書かれていて、2枚奉納されていますが、それらをまとめて「12」という番号が割り当てられています。

【弓削道鏡の奉納文】

番号
順番
内容
12
1枚目 天平神護元年 道鏡法師
     三月
2枚目 應神天皇(姿絵)
天平神護元年三月 大政大臣道鏡法師

なお、この時代のことは『続日本紀』(しょくにほんぎ)という歴史書に詳しく書かれているので、『訓読続日本紀』(藤原継縄・他:撰、今泉忠義:訳、臨川書店:1986年刊)という本を参考にして説明を進めていきます。

また、奉納文の「應」は「応」の旧字体であり、天平神護元年は西暦765年で、その前年の十月九日に第四十六代孝謙天皇が重祚(ちょうそ)して、第四十八代称徳天皇となっています。

孝謙天皇は、第四十五代聖武天皇の第一皇女で、彼女は西暦758年に第四十七代淳仁天皇に譲位して上皇となるのですが、結局西暦764年に淳仁天皇を退位させて重祚したわけで、当時の最高実力者だったようです。

また、孝謙上皇は称徳天皇となってからも弓削道鏡を寵愛したことは有名で、前年九月に大臣禅師(おほおみぜんじ)の位を道鏡に授け、天平神護元年閏(うるう)十月には太政大臣禅師(おほまつりごとおほおみぜんじ)に昇進させ、文武百官に道鏡を拝賀させています。

次に当時の時代背景ですが、宇佐神宮では御託宣が頻繁に下されており、東大寺の大仏建立(西暦752年完成)の際にも、この事業が成功することを神が請け負うことや、必要な黄金が国内から産出することを予言する御託宣が下されていたそうです。

なお、宇佐神宮とは、八幡神(やはたのかみ、はちまんしん)を祀る全国四万余りの八幡宮の本宮で、現在の大分県宇佐市にあり、八幡神とは、応神天皇、神功皇后、比売大神の三柱の神を合わせたものだそうです。

したがって、道鏡が応神天皇の姿絵を奉納したのは、彼の八幡神に対する信仰心の表明だったのかもしれません。

そういった状況において、神護景雲三年(西暦769年)九月に、「道鏡を皇位につければ天下太平になるだろう」という宇佐神宮の御託宣が朝廷にもたらされ、道鏡は深く喜びます。

このとき、称徳天皇は和気清麻呂を宇佐神宮に派遣し、改めて御託宣を持ち帰るように命じ、この際、道鏡は清麻呂に昇進を約束したのですが、新たな御託宣は、

「我が国家(くに)開闢(はじめ)より以来(このかた)君臣定りぬ。臣を以て君と為すこと、未だ之れあらず。天つ日嗣(あまつひつぎ)は必ず皇緒を立てよ。無道の人は宜しく早く掃(はら)ひ除くべし」

【原文】我國家開闢以來、君臣定矣、以臣爲君、未之有也、天之日嗣必立皇緒、無道之人宜早掃除。

という内容で、道鏡を皇位につけてはならないことが明白でした。

このため、これに怒った道鏡は清麻呂を大隅に配流したのですが、称徳天皇の死後、結局道鏡は失脚したというのが『続日本紀』の記録です。

これに対して、『日本史研究(369)』(日本史研究会:1993年5月刊)という雑誌に、「『続日本紀』と道鏡事件」(中西康裕:著)という論文が掲載されていて、『続日本紀』の記述をそのまま信用することはできないということが論じられています。

これを簡単に説明すると、

1.もし称徳天皇が道鏡を天皇にするつもりだったのなら、わざわざ和気清麻呂を宇佐神宮に派遣する必要がないこと。

2.道鏡失脚後、和気清麻呂は以前の地位に戻されたが、道鏡の野望を阻止した最大の功労者としては処遇が不十分であること。

3.称徳天皇の死後、道鏡は下野国薬師寺を造る別当(長官)に左遷されたが、皇位を狙ったものに対する罰としては処分が軽すぎること。

といった点を指摘して、道鏡事件そのものが『続日本紀』編集者の創作であるという結論を導いています。

確かに、もし道鏡が本当に皇位を狙ったのであれば、いわゆる逆賊(反逆者)ですから、伊勢神宮にこのような奉納文が残されたまま放置されているというのもおかしな話です。

そう考えると、この奉納文も、歴史的な事実を検証する上で非常に貴重な資料であると言うことができるのではないでしょうか。

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