『典籍雜攷』(山田孝雄:著、宝文館:1956年刊)という本に掲載されている「神宮文庫に傳ふる神代文字」という論文についてご紹介しています。
この論文の著者の山田孝雄氏は、漢字伝来以前には文字がなかったとする文献が多数存在することを指摘して「かみのみたから」を否定し、その最古の文献として『古語拾遺』(齋部廣成:著、大同二年刊)を挙げています。(大同二年は西暦807年)
この本の序文の冒頭には「蓋聞。上古之世。未有文字。」(けだしきく。じょうこのよ。いまだもじあらず。)と書かれているので、確かにこれだけを見れば、上古(大昔)には日本に文字はなかったことになります。
しかし、学者なら、まずは『古語拾遺』に書かれていることがすべて妥当であると証明してから、だから「蓋聞。上古之世。未有文字。」も信用できるのだと論じるべきではないでしょうか?
ところが、言語学者の松岡静雄氏は、『紀記論究 建国篇 師木宮』(同文館:1931年刊)という本において、「古語拾遺の所説の信ずべからざることは、前篇来屡々述べた通りである。」と語り、『古語拾遺』の正当性を否定しているのです。
つまり、山田氏は、引用した文献が信用できないことには目をつぶり、自分の主張に都合のいい部分だけを抜き出して「かみのみたから」を否定していることになります。
しかも、松岡氏によれば、『古語拾遺』は、中臣氏に比べて忌部氏が優遇されないことを不平とし、その祖先の功績を陳述したものだそうですから、実は平安時代初頭には、古事記や日本紀が神代文字で書かれた文献を参照していることが常識だったため、著者の齋部廣成(いんべひろなり)は、古事記や日本紀の正当性を否定する目的で、あえて序文の冒頭に「蓋聞。上古之世。未有文字。」と書いた可能性すら考えられるのです。
なお、山田氏は、『古語拾遺』の次に『革命勘文』(三善淸行:著、昌泰四年刊)を挙げていますが、そこに書かれた「上古之事、皆出口傳」(じょうこのこと、みなくでんにいづ)という文言は『古語拾遺』の冒頭の文章を言い換えただけのように思われます。(昌泰四年は西暦901年)
そもそも、山田氏は神代文字が存在しないことを証明するためにいったいどれくらいの労力を費やしたのでしょうか?
私がなぜこんなことを考えるかというと、それは、一般的に何かが存在しないことを証明するのは非常に困難であり、逆に、それが存在することを証明するのは比較的簡単なことだからです。
たとえば、神代文字が存在しないことを証明するためには、日本中の神社や仏閣、古文書を所有する個人などをくまなく調査して、もし「神代文字もどき」が発見されたら、それを科学的に否定することが必要だと考えられますが、果たして彼はそれをどれだけ実行したのでしょうか?
これに対して、神代文字が存在することを証明するには、先人が残してくれた資料に理論的な裏付けを加えるだけでよかったので、阿比留文字に関しては、や行の「い、え」とわ行の「う」があ行に移動していないことを根拠に、これが神代文字であることを証明することができたのではないかと思います。(参考:本ブログの「古代の五十音図」)
これは、『皇朝原始訓蒙』(梅村正甫:著、香泉書房:1873年刊) という本に載っている「土牘秀真文」(はにふたほつまぶみ)についても同様で、次の図に示すようにこの文字もやはりあ行には「い、う、え」が存在しません。
【土牘秀真文の五十音図】(梅村正甫:著『皇朝原始訓蒙』より、原図はいろは順)
山田氏は、神代文字など存在するはずがないという先入観で物事を見ていたため、こんな簡単なことも見逃してしまったのではないでしょうか?