古代の日本語

古代から日本語には五十音図が存在しましたが、あ行には「あ」と「お」しかありませんでした。

音韻の変遷

2023-04-23 11:30:28 | 古代の日本語

今回は、音韻の変遷について解説するわけですが、その前に音韻の定義について、『国語学の諸問題』(小林好日:著、岩波書店:1941年刊)という本に書かれている内容をご紹介します。

まず、音声と音韻の違いですが、われわれが具体的に聞く音声は百人百様で、それに訛(なまり)とか気分とかさまざまな属性を含んでいますが、一方、音韻は人が繰返して経験したたくさんの音声から抽象され脳裡に構成されている概念なのだそうです。

これを具体的に説明すると、「でんぽう」(電報)、「でんとう」(電燈)、「でんき」(電気)の三語における「ん」は、音声学では〔m〕、〔n〕、〔ŋ〕の三つのちがう音声ですが、音韻としては一つの平仮名の「ん」が表わすように、一個の音韻であるというわけです。(〔ŋ〕は鼻に抜ける音(鼻音)を表わす発音記号)

そして、音韻は概念ですから、音韻変化は口先で起こるのではなく、人の頭のなかで起こるということを理解することが大事なのだそうです。

ところで、この「ん」は、前回ご紹介した阿比留文字の五十音図には存在しない音韻であり、古代においては「ん」という音韻は存在しなかったということになります。

その証拠に、大阪の難波(なんば)は、古くには「なには」と発音されていましたし、商人(あきんど)は「あきひと」、殆(ほとんど)は「ほとほと」、簪(かんざし)は「かみさし」、東(ひんがし)は「ひむかし」でした。

このように、原音が「ん」に変化してその直後の清音が濁音になることを撥音便(はつおんびん:撥は「はねる」という意味)といいますが、『たまがつま』(本居宣長:著、清水重道:編、柴山教育出版社:1943年刊)という本によると、撥音便は奈良時代の終わりからぽつぽつ現われはじめたそうです。

また、「ん、ン」という平仮名・カタカナの字源に関して、『日本随筆大成 第二期巻四』(日本随筆大成編輯部:編、日本随筆大成刊行会:1928年刊)という本には、「に」の音が「ん」になることが多かったことから、「ん」は「に」の連書(つづけがき)、「ン」は「ニ」の急書(するどがき)であると書かれています。

実は、「ん、ン」の字源は漢字であるという説(例えば、「ん」の字源は「无」、「ン」の字源は「尓」など)があるのですが、私には『日本随筆大成』の説のほうが説得力があるように思われます。

さて、本題の音韻の変遷ですが、『国語学概説』(阿部三郎:著、明玄書房:1966年刊)という本には次のようにまとめられています。(か行、が行、な行、ば行、ま行、ら行は変化なし)

【音韻の変遷】(『国語学概説』より)

 
奈良時代
その後の音韻変化
変化した時期
あ行
a i u e o
a i u ye o
a i u e o
平安時代中期
江戸時代(他文献より)
さ行
sha shi shu she sho
(s、ts、ch説もある)
sa shi su she so
sa shi su se so
室町時代末期
江戸時代
ざ行
ja ji ju je jo
za ji zu je zo
za ji zu ze zo
室町時代末期
江戸時代
た行
ta ti tu te to
ta chi tsu te to
室町時代
だ行
da di du de do
da dji dzu de do
da ji zu de do
室町時代
江戸時代
は行
fa fi fu fe fo
ha hi fu he ho
江戸時代
や行
ya - yu ye yo
ya - yu - yo
平安時代中期
わ行
wa wi - we wo
wa - - - -
平安時代末期

この表を見ると、奈良時代には、さ行は〔sha,shi,shu,she,sho〕、ざ行は〔ja,ji,ju,je,jo〕、は行は〔fa,fi,fu,fe,fo〕などとなっていて、前回のた行と同様に父音が一定ですから、この表も阿比留文字の五十音図が古代の発音を表記したものであることを証明していると考えられます。

なお、この表に示された音韻の変化は、日本全国で一様に起こっているわけではなく、前回ご紹介したように、古い発音が長く保存されている地方も存在します。

例えば、この表では、わ行の〔wi,we,wo〕が平安時代末期に消失した(正確にはあ行の〔i,e,o〕との区別が失われた)ことになっていますが、明治時代に出版された『音韻調査報告書』(国語調査委員会:編、日本書籍:1905年刊)によると、埼玉県入間郡飯能地方の人は〔wi,we,wo〕を正しく発音していたそうです。

また、この表には記載しませんでしたが、音韻の細かい変化は数多くあり、例えば、は行の音は、平安時代中期以降、わ行・あ行の音と混同されるようになり、粟(あは)が「あわ」、飯(いひ)が「いい」、食(くふ)が「くう」、蠅(はへ)が「はえ」、塩(しほ)が「しお」などとなったそうです。

ところで、この表のあ行の欄を見ると〔e〕が〔ye〕に変化していますが、これは平安時代中期にあ行の「え」とや行の「え」の区別がなくなったと書かれていて、加えて室町時代末期の「え」が〔ye〕だったという説が紹介されていることから、このように表記しました。

そして、『近代日本語の新研究』(杉本つとむ:著、桜楓社:1967年刊)という本によると、江戸時代には「え」が現代と同じ〔e〕になったそうです。(「お」も、室町時代には〔wo〕で、江戸時代に〔o〕になったと書かれています。)

次回は、実はあ行の「え」は最初から存在しなかったというを説をご紹介します。

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