古代の日本語

古代から日本語には五十音図が存在しましたが、あ行には「あ」と「お」しかありませんでした。

卑弥呼の後継者

2021-10-31 08:53:17 | 古代の日本語

今回は、卑弥呼の後継者、台与に関する私の推測です。

卑弥呼の宗女、台与は13歳で王となったものの、その後の消息が不明ですが、三世紀後半に日本を統治したことは間違いないと思われます。

一方、第十代崇神天皇は、古事記において没年が記されている最初の天皇ですが、没年の戊寅(つちのえとら)は西暦318年と推定でき、この数字はその後の歴史的事実とうまく整合するようです。

また、崇神天皇は、古事記に「初国知らしし天皇」(はつくにしらししすめらみこと)と書かれていて、「初国知らしし」は「初めて国を統治なさった」という意味なので、崇神天皇の代になってやっと王権が天皇家に戻されたようです。

そうなると、三世紀末には台与から崇神天皇へ権力が移譲されたと考えるのが妥当ですが、それでは、なぜ崇神天皇が王になることができたのか、その秘密が系図に関係しているのではないかと思い、日本紀を調べてみました。

すると、第八代考元天皇の皇后となった鬱色謎命(うつしこめのみこと)という、物部氏の血統の女性が、非常に重要な人物であることが分かりました。

崇神天皇の系図

ここで、「うつしこめ」という名前の意味は、『紀記論究 建国篇 大和缺史時代』(松岡静雄:著、同文館:1931年刊)という本によると、「うつ」は完美、「しこ」は尊厳の意を有し、「め」は女だそうです。

出雲を治めた大国主命も、葦原色許男(あしはらしこを)という別名を持っていましたから、「うつしこめ」が女王にふさわしい名前であることは間違いなさそうです。

また、『古事記』(藤村作:編、至文堂:1929年刊)によると、物部氏の始祖の宇麻志麻遅命(うましまぢのみこと)は、天津瑞(あまつしるし)を持って天下った迩藝速日命(にぎはやびのみこと)が畿内の豪族の娘・登美夜毘賣(とみやびめ)と結婚して生まれた人物なので、鬱色謎命は血統的にも申し分のない存在だったはずです。

さらに、物部氏は、軍事を担当する有力氏族であり、かつ祭祀も執り行なっていましたから、この鬱色謎命が台与である可能性は相当高いのではないでしょうか?

一方、崇神天皇の和名は「御間城入彦五十瓊殖」(みまきいりひこいにゑ)で、「御間城入彦」というのは、『紀記論究 建国篇 師木宮』(松岡静雄:著、同文館:1931年刊)という本によると、妻の御間城姫の居住地「みまき」に入り婿として入籍していたことを意味するそうですから、彼は皇太子ではなかったと思われます。

これは、卑弥呼の死後の混乱を教訓にして、台与の後継者の選定には特に慎重にならざるを得なかったため、彼女が生存中は後継者が未定だったと考えればつじつまが合います。

そして、台与の死後、豪族たちが血統と人望を考慮して候補者を絞った結果、台与の孫である「御間城入彦」が後継者に選ばれたのではないでしょうか?

第二代から第九代までの天皇は、事績の記録が皆無であることから欠史八代とよばれていて、その存在を疑う人も多いようですが、これは、王として君臨したのが初代の神武天皇だけだったためでしょう。

実際、三世紀には、卑弥呼と台与の二人の女王が大和朝廷の支配者となったわけですから、第九代までの天皇家の事績に関しては、ないものは書けなかったというのが真相だと思われます。

次回も「魏志倭人伝」の続きです。

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卑弥呼

2021-10-24 09:29:04 | 古代の日本語

「魏志倭人伝」の内容をご紹介していますが、今回は、日本の古代史においてとりわけ神秘的な存在である「卑弥呼」に関する記述です。

原文
事鬼道能惑衆年已長大無夫婿 (卑弥呼は)鬼道を事とし、よく衆を惑わす、年すでに長大、夫婿なし
有男弟佐治國自爲王以来少有見者 男弟あり、国を佐治す、王と為りてより以来、見る者有ること少なし
以婢千人自侍 婢千人を以ておのずから侍る
(中略)
 
卑彌呼以死大作冢徑百餘歩徇葬者奴婢百餘人 卑弥呼以て死す、大いに冢を作る、径百歩あまり、徇葬する者奴婢百人あまり
更立男王國中不服更相誅殺當時殺千餘人 更に男王を立つ、国中服さず、更に相誅殺し、当時千人あまりを殺す
復立卑彌呼宗女壹與年十三爲王國中遂定 また卑弥呼の宗女台与を立つ、年十三にして王となり、国中遂に定まる

これを意訳すると、卑弥呼は鬼道を司る能力があり、それによって民衆を惑わし、長く生きたももの、結婚はせず、弟が国を治める手助けをし、彼女が王となってからは、彼女を見る者は少なく、女の召使いが千人もいました。

(鬼道に関しては、「世界の秘密-日本の霊性 5.神憑り」で考察していますので、よかったら参考にしてください。)

卑弥呼が死ぬと、大きな塚を築き、奴婢百人あまりが殉死者として一緒に埋葬されました。

その後、男の王を立てたものの、国中が承服せず、互いに攻めて殺し合い、当時千人あまりが死ぬ事態となったため、卑弥呼の宗女「台与」を王に立てたところ、国中がついに安定したということです。

なお、原文の最後の行の「壹與」は、以前ご紹介した『読史叢録』には「臺與」の誤りであると書かれているので、それにしたがい、新字体で「台与」と表記しました。

また、「宗女」とは「正しい血筋の女」といった意味かと思いますが、直系の子孫ではないようです。

次回は、台与について、正しい血筋の女性であることをヒントに、系図から可能性が高いと思われる人物を考察します。

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邪馬台国の正体

2021-10-17 06:45:48 | 古代の日本語

前回まで、「魏志倭人伝」を地理学的観点から論じている『上代日支交通史の研究』の内容をご紹介してきましたが、その結論をまとめると次のようになります。

1.楽浪郡から九州北岸(末盧国)までの距離は一万二千里(約1200km)で、古代に確定していた。

これは、一里が約100mという、非常に古い尺度が用いられていることからも、間違いないと思われます。

なお、本ブログの「壱岐から奴国へ」という記事でご紹介したように、壱岐から末盧国までの距離だけは不正確でしたが、これはひょっとすると「魏志倭人伝」の間違いで、実は壱岐から奴国までの距離が千里あまり(約100km)ということだったのかもしれません。

これなら、すべての測量が正確に行なわれていたことになりますから、そう考えると、古代に確定していたのは「楽浪郡から奴国まで一万二千里」となります。

2.時代が変わって尺度も変わったので、魏の使者は混乱を避けるため、九州北岸(奴国)から邪馬台国までの距離を日数で記録した。

3.九州北岸から「水行三十日(約540km)+陸行一月」の距離にあった大都市は、現在の奈良県北部に相当する「大和」以外になく、「邪馬台」は「やまと」である。

つまり、邪馬台国は大和朝廷であり、古事記や日本紀に書かれている神武天皇は実在したということです。

「魏志倭人伝」には、神武天皇が日本を統一した後のことを描写していると思われる部分があるので、ついでにご紹介しておきましょう。

原文
其國本亦以男子爲王 その国、本また男子を以て王となす
住七八十年倭國亂相攻伐歷年 住むこと七八十年、倭国乱れ、相攻伐すること歴年
乃共立一女子爲王名日卑彌呼 すなわち共に一女子を立てて王となす、名を卑弥呼という
(中略)
 
景初二年六月倭女王遣大夫難升米等 景初二年(西暦238年)六月、倭の女王、大夫難升米等を遣わし
詣郡求詣天子朝獻 郡に詣り、天子に詣りて朝献せんことを求む

また、後漢書の東夷伝には、「安帝永初元年倭國王帥升等獻生口百六十人願請見」と書かれていて、永初元年(西暦107年)に倭国王(神武天皇?)が生口(奴隷?)160人を献上して謁見を請い願ったことが記録されています。

これらを総合的に解釈すると、神武天皇が二世紀の初めに日本を統一しますが、二世紀の終わり(西暦180年頃?)には国が乱れて、豪族間の戦争状態が長く続いたようです。

そこで登場したのが卑弥呼で、豪族たちが協力して彼女を王に立てることによって、三世紀前半には再び日本が統一されたようです。

次回も「魏志倭人伝」の続きです。

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邪馬台国までの距離

2021-10-10 10:38:27 | 古代の日本語

「魏志倭人伝」を地理学的観点から論じている『上代日支交通史の研究』の内容をご紹介しています。

今回は、邪馬台国(女王国)までの距離を記述した次の文章についてご紹介します。

原文
自郡至女王國萬二千餘里 郡より女王国に至るまで、一万二千里あまり

これを普通に解釈すると、帯方郡から女王国まで一万二千里あまりとなります。

また、前々回までの検討結果から、帯方郡-末盧国間の距離は約一万里でした。

したがって、末盧国-女王国間は約二千里(200km)と計算できますが、これでは奴国-女王国間が「水行三十日(約540km)+陸行一月」とした前回の内容と矛盾してしまいます。

これに対して、藤田氏は、後漢書の安帝紀、永初元年の條に「倭國去樂浪萬二千里」(倭国は楽浪を去ること一万二千里)と書かれていることなどを根拠に、一万二千里というのは楽浪郡から九州北岸(末盧国)までの距離であると論じています。

そして、楽浪郡は現在の平壌(ピョンヤン)、帯方郡は臨津江(イムジン河)附近であろうと述べているので、仮にイムジン河と漢江の合流地点を帯方郡の拠点とすると、楽浪郡-帯方郡間は陸路で約200km、すなわち二千里となります。

これを地図に描くと次のようになります。

邪馬台国までの距離
【邪馬台国までの距離】(国土地理院地図に上書き)

つまり、古代の尺度が使われていた時代において、楽浪郡から九州北岸まで一万二千里という距離が確定していて、これを「魏志倭人伝」も踏襲したというのが藤田氏の見解です。

確かに、楽浪郡は西暦紀元前108年に設置されていて、帯方郡の設置は西暦204年なので、楽浪郡を起点として、古代の尺度で九州北岸まで一万二千里という測量がなされたと考えるのが理にかなっており、これですべてが矛盾なく説明できるようです。

そして、九州北岸(奴国)から「水行三十日(約540km)+陸行一月」の位置にあったとされる大きな都市は「大和」(現在の奈良県北部)以外には考えられませんから、「邪馬台国九州説」は自然に消滅することになります。

次回も「魏志倭人伝」の続きです。

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奴国から邪馬台国へ

2021-10-03 09:07:43 | 古代の日本語

「魏志倭人伝」を地理学的観点から論じている『上代日支交通史の研究』の内容をご紹介しています。

今回は、奴国を出発してからの記述です。(魏の使者は陸を移動して不彌国まで行きましたが、使者の船は奴国の港で待機していたと考えました。)

原文
南至投馬國水行二十日 南、投馬国に至る、水行二十日
(中略)
 
南至邪馬壹國女王之所都 南、邪馬台国に至る、女王の都とする所
水行十日陸行一月 水行十日、陸行一月

ここで、藤田氏は、「邪馬壹」は「邪馬臺」の誤りであるとしていて、「臺」は「台」の旧字体なので、「邪馬壹」を「邪馬台」と表記しました。

さて、奴国からは再び船で移動したわけですが、ここで問題になるのが、「水行二十日」がどの程度の距離に相当するのかということです。

この議論は、里数の換算と同様に複雑なので結論だけ申し上げると、藤田氏は「水行二十日=約360km」と算出しています。

これを信じるなら、一日に18kmしか移動しなかったということですから、古代の旅は非常にのんびりしていたようです。

また、里数を書いていない理由は、九州北岸までの里数は古くから知られていたため、古代の尺度で記述されていて、奴国から邪馬台国までの距離は魏の時代の新しい尺度となってしまうので、混乱を避けるためにあえて日数だけを記述したと考えられるそうです。

そして、「投馬国」は「鞆」(とも=広島県福山市鞆の浦)であろうと推測していますが、博多から鞆の浦までの距離を実測すると確かに約360kmとなります。

続いて、「水行十日」(約180km)で到着する地点は大輪田の泊(現在の神戸港西側)であろうと推測し、そこから一か月かけて大和に到着したと論じています。

つまり、藤田氏は、「邪馬台」を「やまと」と読み、「邪馬台国九州説」を否定しています。

なお、神戸から大和まで一か月というのは長すぎるような気もしますが、藤田氏によると、遣隋使の小野妹子が隋の使者「裴世清」一行を伴って帰国した際には、難波に新館を建てて四月から六月までそこに留まり、入京したのは八月だったそうですから、おもてなしに時間をかけたと考えれば不思議はないようです。

それよりも問題なのは、奴国から投馬国、邪馬台国へは南に移動したと書かれているのに、藤田氏の解釈では進路が東になってしまう点です。

もっとも、『読史叢録』(内藤虎次郎:著、弘文堂:1929年刊)という本の「卑彌呼考」には、「邪馬台国九州説」に対する反論として、

「然れども支那の古書は方向を言う時東と南と相兼ね、西と北と相兼ぬるは常例ともいふべく、・・・」

と述べて、東を南と書くことがあるとしており、さらに、方向の記述に混乱が見られる例として、『後魏書』の「勿吉伝」には、「東南行」と書くべき部分に「東北行」と書かれていることを指摘しています。

確かに、前回ご紹介したように、末盧国から伊都国、奴国へと東南に移動したと書かれているのに、実際には東に進んでいるので、方角に関する記述はあまり正確ではなかったのかもしれません。

次回も「魏志倭人伝」の続きです。

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