古代の日本語

古代から日本語には五十音図が存在しましたが、あ行には「あ」と「お」しかありませんでした。

君が代の起源

2023-11-26 09:21:27 | 古代の日本語

前回は志賀島の金印をご紹介したので、今回は志賀島にまつわる逸話をご紹介したいと思います。

まず、志賀島には志賀海神社という古い神社があり、ここに伝わる山誉め祭は、神功皇后に披露したことが起源とされていて、神功皇后は、この祭りを志賀島に打ち寄せる波が絶えるまで伝えよと命じたそうです。

このため、志賀海神社は神功皇后ゆかりの神社として有名ですが、実は、山誉め祭のなかで語られる言葉に「君が代」の歌詞が登場することでも有名です。


【志賀海神社の山誉め祭】(画像はYouTube動画「志賀島 志賀海神社 山誉め祭」より)

ちなみに、『国歌君が代講話』(小田切信夫:著、共益商社書店:1929年刊)という本によると、「君が代」は、明治維新の際に国家としての体裁を整える上で国歌が必要となり、当時親しまれていた「蓬莱山」という薩摩琵琶歌の歌詞の一部を採用したものだそうです。

また、この歌詞の起源は、10世紀の初めに編纂された古今和歌集で、第一句が「我が君は」となっていたものを、誰かが平安時代末までに「君が代は」に改作したのだそうです。

したがって、もし志賀海神社に伝わる山誉め祭が昔から変わっていないとすれば、神功皇后は4世紀の人物ですから、山誉め祭こそが「君が代」の起源だということになるのです。

次に、志賀島を治めていた氏族ですが、『糟屋郡志』(福岡県糟屋郡:編、1924年刊)という本には、志賀海神社について「奉仕の神官三十余戸あり、皆阿曇氏なり。」と書かれています。

古事記には、海神として有名な綿津見(わたつみ)三神を阿曇連(あづみのむらじ)らが祖神(おやがみ)として奉斎していたことが書かれていて、これが志賀海神社の祭神と一致するので、この阿曇氏(あづみうぢ)が代々志賀島を統治していたようです。

また、古事記や日本紀には、神武天皇の祖父と父がともに海神の娘を妻としたことが書かれているので、海神は天皇家の外戚であり、その子孫である阿曇氏は古代の有力氏族であったわけです。

現在、長野県に安曇(あづみ)という地名が残されているのも偶然ではなく、『日本古語大辞典』の「アツミ」の項目によると、阿曇連の一族が木曽川をさかのぼって信濃に定住したからだそうです。

同様に、愛知県の渥美半島にもその名が残されていますし、東国を「あづま」とよぶのも阿曇氏が進出したためだそうですから、阿曇氏は大いに繁栄して日本各地に移り住んだようです。

ところで、本ブログの「邪馬台国の正体」でご紹介したように、神武天皇は二世紀の初めに日本を統一して西暦107年に後漢に使いを送ったと思われます。

一方、志賀島の金印は、前回ご紹介したように西暦57年に後漢の光武帝が倭奴国の使者に与えたとされるものですから、両者の時間差は50年で、西暦57年はちょうど神武天皇の祖父である山幸彦の時代だったと考えることができます。

山幸彦は、なくした釣り針を探して海神の宮を訪れ、海神の娘である豊玉姫と結ばれたと伝えられていますから、ひょっとすると海神の宮は志賀島かその近くにあって、山幸彦もこの金印を見ていたのかもしれませんね。

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