古代の日本語

古代から日本語には五十音図が存在しましたが、あ行には「あ」と「お」しかありませんでした。

稲荷山古墳の鉄剣

2021-11-21 10:16:56 | 古代の日本語

今回は、「魏志倭人伝」を解読するための参考資料として、埼玉県の稲荷山古墳から出土した鉄剣についてご紹介します。

『倭王と古墳の謎』(学生社:1994年刊)という本の第四章「埼玉古墳群とワカタケル」(日野宏:著)によると、稲荷山古墳は全長117メートルの巨大な前方後円墳で、この地方の首長の墓だと考えられるそうです。

そして、この古墳から出土した鉄剣には、115文字の漢字が金象嵌で刻まれていて、持ち主とその祖先の名前、および、当時の天皇の名前と宮廷の地名が次のように書かれていたそうです。

原文
読み
解説
意富比垝 おほひこ 初代
多加利足尼 たかりのすくね 二代目
弖已加利獲居 てよかりわけ 三代目
多加披次獲居 たかひしわけ 四代目
多沙鬼獲居 たさきわけ 五代目
半弖比 はてひ 六代目
加差披余 かさひよ 七代目
乎獲居臣 をわけの臣 八代目(持ち主)
獲加多支鹵大王 わかたけるの大王 雄略天皇
斯鬼宮 しきの宮 磯城の宮

まず、初代の意富比垝を「おほひこ」と読んだのは、古事記に「意富・・・」と書いて「おほ・・・」と読む人名が多数登場することに加えて、本ブログの「卑弥呼の後継者」でご紹介した崇神天皇の系図に、天皇の伯父かつ義父として登場する大彦命(おほひこのみこと)に比定したためかもしれません。

大彦命は、第九代開化天皇の兄にして、四道将軍の一人で、崇神天皇の時代に北陸道(こしのみち=越前+越中+越後)を平定した武将です。

この人は、『磐鹿六雁命御事績』(三宅孤軒:編著、全国同盟料理新聞社:1929年刊)という本によると、五男一女をもうけ、その子孫はいずれも大変繁栄したそうですから、関東地方に進出した子孫がいても不思議ではないのかもしれません。

次に、二代目の多加利足尼を「たかりのすくね」と読んだのは、多加利は「たかり」としか読めませんし、『国史大系 第七巻』(経済雑誌社:1898年刊)という本に収録された「先代旧事本紀」(せんだいくじほんぎ)に、足尼を「すくね」と読んでいるからでしょう。

ちなみに、『大日本国語辞典』によると、「すくね」(宿禰)は、「上古、臣下を親しみ尊びて呼べる称」だそうです。

次に、三代目の弖已加利獲居を「てよかりわけ」と読んだのは、獲を「わ」と読む理由については次回お話しすることにして、弖は天の異字体で、万葉仮名で読むと、弖は「て」、已は「よ」、居は「け」となるからでしょう。

以上の知識があれば、あとは漢和辞典を使って、四代目の多加披次獲居は「たかひしわけ」、五代目の多沙鬼獲居は「たさきわけ」と読むことができます。

次に、六代目の半弖比を「はてひ」と読んだのは、万葉仮名で読むと、半が「は」となるからでしょう。

次に、七代目の加差披余は、漢和辞典を使って「かさひよ」と読むことができます。

次に、八代目の乎獲居を「をわけ」と読んだのは、万葉仮名で読むと、乎が「を」となるからでしょう。

次に、獲加多支鹵大王については、この人が誰なのかを推測することによってどう読むかを決定したと思われるので、次回はこの点について深く掘り下げていきたいと思います。

最後の斯鬼は、崇神天皇などが皇居を置いた磯城(しき=現在の奈良県桜井市)に比定したのだと思われます。

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