古代の日本語

古代から日本語には五十音図が存在しましたが、あ行には「あ」と「お」しかありませんでした。

奴国の読みと意味

2021-11-14 09:05:17 | 古代の日本語

『上代日支交通史の研究』の内容を基に、「魏志倭人伝」に音写された三世紀の日本語をご紹介しています。

今回は、伊都国を出発してからの記述です。

原文
東南至奴國百里 東南、「ぬ」国に至る、百里
官曰兕馬觚副曰卑奴母離 官を「しまこ」といい、副官を「ひなもり」という
(中略)
 
東行至不彌國百里 東に行き、「ふみ」国に至る、百里
官曰多模副曰卑奴母離 官を「たま」といい、副官を「ひなもり」という
南至投馬國水行二十日 南、「とも」国に至る、水行二十日
官曰彌彌副曰彌彌那利 官を「みみ」といい、副官を「みみなり」という

藤田氏は、奴を「ぬ」と読んでいますが、『日本語源』(賀茂百樹:著)には、「野(ヌ) 古はナともヌともいへり。延(ヌラ)りとしたる広き野原の状を云ふ。」と書かれているので、福岡平野に栄えた国の名称が「ぬ」というのは理にかなっているようです。

ただし、本ブログの「壱岐から奴国へ」でご紹介したように、奴国はのちの儺縣(なのあがた)だと考えられますから、地名の発音が変化しにくいことを考慮すると、奴という漢字の発音が、三世紀には「な」だったが、その後変化したため、音を表記する漢字が奴から儺に変わったのだと思われます。

したがって、奴国は「な」国と読むのが正しく、意味は「平原」の国だと思われるのです。

次に、兕馬觚を「しまこ」と読んでいますが、これは支配者の称号としては意味不明なので、三世紀に特有の日本語だと考えるのが妥当なようです。

次に、不彌を「ふみ」と読んでいますが、本ブログの「壱岐から奴国へ」でご紹介したように、これは宇瀰(うみ=現在の糟屋郡宇美町)の前身だと考えられます。

次に、多模を「たま」と読んでいますが、日本紀には大国主命の別名として大国玉神(おほくにたまのかみ)という名前が挙げられていますから、「たま=ぬし」であったのなら、支配者の尊称として不足はなさそうです。

次に、投馬を「とも」と読んでいますが、これについては、本ブログの「奴国から邪馬台国へ」でご紹介したように、現在の広島県福山市鞆(とも)の浦とするのが藤田氏の推理です。

また、これを「たま」と読む可能性にも触れ、鞆の浦沖の玉津島に言及していますが、これはあまりにも小さな島なので、もし「たま」と読むのが正解なら、少し東の玉島(現在の岡山県倉敷市西南地区)の可能性が高いのかもしれません。

次に、彌彌を「みみ」と読んでいますが、これは天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと=天照大御神の御子)をはじめ、多くの貴人の名前の末尾に用いられている言葉なので、支配者の尊称としてふさわしいと思われます。

次に、彌彌那利を「みみなり」と読んでいますが、これは意味不明なので、三世紀に特有の日本語だと考えるのが妥当なようです。

なお、投馬国に至って、副官の名称が「ひなもり」から「みみなり」に変わったのは、都に近づいて「ひな」(田舎)ではなくなったためだと思われます。

次回は、「魏志倭人伝」の解読に役立つと思われる、稲荷山古墳から出土した鉄剣の文字をご紹介します。

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