古代の日本語

古代から日本語には五十音図が存在しましたが、あ行には「あ」と「お」しかありませんでした。

邪馬台国の正体

2021-10-17 06:45:48 | 古代の日本語

前回まで、「魏志倭人伝」を地理学的観点から論じている『上代日支交通史の研究』の内容をご紹介してきましたが、その結論をまとめると次のようになります。

1.楽浪郡から九州北岸(末盧国)までの距離は一万二千里(約1200km)で、古代に確定していた。

これは、一里が約100mという、非常に古い尺度が用いられていることからも、間違いないと思われます。

なお、本ブログの「壱岐から奴国へ」という記事でご紹介したように、壱岐から末盧国までの距離だけは不正確でしたが、これはひょっとすると「魏志倭人伝」の間違いで、実は壱岐から奴国までの距離が千里あまり(約100km)ということだったのかもしれません。

これなら、すべての測量が正確に行なわれていたことになりますから、そう考えると、古代に確定していたのは「楽浪郡から奴国まで一万二千里」となります。

2.時代が変わって尺度も変わったので、魏の使者は混乱を避けるため、九州北岸(奴国)から邪馬台国までの距離を日数で記録した。

3.九州北岸から「水行三十日(約540km)+陸行一月」の距離にあった大都市は、現在の奈良県北部に相当する「大和」以外になく、「邪馬台」は「やまと」である。

つまり、邪馬台国は大和朝廷であり、古事記や日本紀に書かれている神武天皇は実在したということです。

「魏志倭人伝」には、神武天皇が日本を統一した後のことを描写していると思われる部分があるので、ついでにご紹介しておきましょう。

原文
其國本亦以男子爲王 その国、本また男子を以て王となす
住七八十年倭國亂相攻伐歷年 住むこと七八十年、倭国乱れ、相攻伐すること歴年
乃共立一女子爲王名日卑彌呼 すなわち共に一女子を立てて王となす、名を卑弥呼という
(中略)
 
景初二年六月倭女王遣大夫難升米等 景初二年(西暦238年)六月、倭の女王、大夫難升米等を遣わし
詣郡求詣天子朝獻 郡に詣り、天子に詣りて朝献せんことを求む

また、後漢書の東夷伝には、「安帝永初元年倭國王帥升等獻生口百六十人願請見」と書かれていて、永初元年(西暦107年)に倭国王(神武天皇?)が生口(奴隷?)160人を献上して謁見を請い願ったことが記録されています。

これらを総合的に解釈すると、神武天皇が二世紀の初めに日本を統一しますが、二世紀の終わり(西暦180年頃?)には国が乱れて、豪族間の戦争状態が長く続いたようです。

そこで登場したのが卑弥呼で、豪族たちが協力して彼女を王に立てることによって、三世紀前半には再び日本が統一されたようです。

次回も「魏志倭人伝」の続きです。

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