古代の日本語

古代から日本語には五十音図が存在しましたが、あ行には「あ」と「お」しかありませんでした。

能登半島は島だった

2021-09-05 10:23:57 | 古代の日本語

前回、日本紀には古事記よりも古い記録が収集されているとお伝えしましたが、今回はその証拠の一つをご紹介しましょう。

日本人は、自国のことを古来より大八洲(おおやしま)とよんでいましたが、八つの島の具体的な名前について、古事記には次のように書かれています。

 
古事記
淡路島 四国 隠岐 九州 壱岐 対馬 佐渡 本州

一方、日本紀には、「一書曰」(あるふみにいわく)という書き出しで、次のように本文以外にも多くの説を収集しています。(なお、「おのごろ島」、「淡洲」(あわしま)の所在は不明です。)

日本紀
母胎
本文
淡路島 本州 四国 九州 隠岐 佐渡 能登 周防大島 吉備の児島
説2
本州 淡路島 四国 九州 隠岐 佐渡 能登 吉備の児島
説3
淡路島 本州 四国 九州 隠岐 佐渡 能登 周防大島 吉備の児島
説4
淡路島 本州 四国 隠岐 佐渡 九州 壱岐 対馬
説5
おのごろ島 淡路島 本州 四国 九州 吉備の児島 隠岐 佐渡 能登
説6
淡路島 本州 淡洲 四国 隠岐 佐渡 九州 吉備の児島 周防大島

これを見ると、日本紀の諸説において、登場する島々が古事記と一致するのは「説4」だけであり、それ以外には「壱岐」と「対馬」が登場しません。

これについて、『上代日支交通史の研究』(藤田元春:著、刀江書院:1943年刊)という本には、古代には日本海航路が最初に発見され、次に瀬戸内航路が発見され、最後に九州から朝鮮半島に渡る航路が重要視される時代がやってきたことが書かれています。

つまり、航路上の重要な八つの島が「大八洲」であり、それらが日本紀において一定しないのは、時代とともに使われる航路が変化したためであり、結局、古事記の記述が最も新しく、日本紀にはより古い所伝が記されているのだそうです。

さて、ここからは余談ですが、日本紀の表で「能登」と書いた部分は、正確には「越洲」(こしのしま)と表記されていて、これを「越」(こし=越前+越中+越後)のことだと考える人もいます。

しかし、日本紀に記載された大八洲が古代の航路上の重要な島だったとするなら、「越洲」は能登半島のことだと思われるのです。

というのも、能登半島は古代には島だったからで、現在JR七尾線が走る邑知潟(おちがた)平野が海峡だったことが、『山水小記』(田山花袋:著、富田文陽堂:1917年刊)という本に次のように書かれています。

「昔は海潮がこの平野を貫いて流れた。宝達(ほうだつ)、石動(いするぎ)、二山の麓には北海の波が凄まじく打ち寄せた。」

参考までに、「国立研究開発法人 産業技術総合研究所 / 地質調査総合センター」の「地質図Navi」の画像をご覧ください。

能登半島
【能登半島の地質図】(出典:産総研地質調査総合センターウェブサイト

これを見ると、邑知潟平野が堆積層(淡い水色の部分)であることからも、この部分はかつて海底であり、能登半島が大きな島だったことは明らかです。

吉備の児島(岡山県児島半島)も、現在は半島ですが、『児島湾開墾史』(井土経重:著、金尾文淵堂書店:1902年刊)という本によると、これが陸続きとなったのは寛文(かんぶん=1661年から1673年)以降のことだそうですから、こちらは360年前にはまだ島だったようです。

次回からは、日本紀以外の古い資料について検証していく予定です。

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