9月2日の京都の旅、第一弾は藤森神社であった。
前の二つの記事に、すでにそのことは述べているが、 しかし、ここが菖蒲の節句の発祥地だとは驚きだ!
この鳥居については立て札に面白いことが書かれていた。
ある意味、近藤勇は不遜なことをしたのかもしれないが、ただ、職務を全うするために合理的な態度で挑んだのだなあ、と思う。 ちなみに私は新撰組に興味はない・・・・
まあ、それはともかく進むと拝殿の姿が見えてくる!
そして拝殿から本殿を望む!
祭神は十二神だが、複雑なメンバーだ・・・・
ところで、少し祭神について・・・・
早良親王 750(天平勝宝2)~785(延暦4)
光仁天皇の皇子。母は高野新笠。能登内親王・桓武天皇の同母弟。妻子がいたという記録はない。立太子以前親王禅師と称され、死後崇道(すどう)天皇と尊称された。
761(天平宝字5)年、11歳のとき出家し、東大寺等定僧都を師とし、羂索院に寄住。768(神護景雲2)年、東大寺より大安寺東院に移住。770(宝亀1)年、21歳のとき登壇受戒。同年父白壁王が即位し(光仁天皇)、以後親王禅師と呼ばれた。この頃東大寺運営の主導権を握ったとも言われ、宝亀2年には実忠に命じて大仏殿副柱を構立している。781(天応1)年4月、兄山部親王が即位する(桓武天皇)と、皇太弟に立てられた。この時32歳。仏教界に重きを置き人望もあった早良親王を父光仁が推輓したものかという。同年4.14、藤原田麻呂が東宮傳、大伴家持が春宮大夫、林稲麻呂が春宮亮となる。一説に、この頃家持が集めた歌集が早良皇太子に献上され、後の万葉集勅撰の契機となったともいう。785(延暦4)年9.23夜、長岡京造営工事を検分中の藤原種継が賊に弓で射られ翌日死亡するという事件が起こり、取り調べの結果、家持・五百枝王・紀白麻呂・大伴継人・大伴永主・林稲麻呂らによる皇太子早良親王を担いだ謀反であると断定される。親王は乙訓寺(現長岡市今里)に幽閉され、抗議の断食をし、10日余り後、船で淡路に移送の途中、高瀬橋(河内国、淀川の橋)のあたりで憤死。淡路に埋葬される。792(延暦11)年6.10、陰陽寮で卜定したところ、安殿親王の病が早良親王の怨霊の祟りと判明する。延暦16年5月、宮中に怪異あり、早良親王の魂鎮めが行われる。延暦18年2月、賀美能親王元服の時、再び早良親王の魂鎮め。800(延暦19)年7月、怨霊鎮魂のため早良親王を崇道天皇と追称する。
・・・・・・怨霊系だ
井上内親王 717(霊亀3)~775(宝亀6)
聖武天皇の皇女。母は県犬養広刀自。同母弟に安積親王、同母妹に不破内親王がいる。白壁王に嫁し、他戸王・酒人女王らを産む。死後、吉野皇后とも称された。
養老5年(721年)9月11日に五歳で伊勢の斎王にト定される。6年後の神亀4年(727年)、伊勢に下向する。天平16年(744年)1月13日、弟の安積親王の死により、斎王の任を解かれ、退下する。帰京後、白壁王(光仁天皇)の妃になる。天平19年(747年)、無品から二品に叙される。天平勝宝6年(754年)、酒人内親王を産む。その後、他戸親王を産む。
光仁天皇が宝亀元年(770年)10月1日に即位し、同年の11月6日、皇后となる。その翌年の宝亀2年(771年)の1月23日、息子の他戸親王が立太子される。
宝亀3年(772年)3月2日、光仁天皇を呪詛したとして皇后を廃され、同年の5月27日には他戸親王も皇太子を廃され、二人は幽閉される事になった。宝亀4年(773年)1月2日には山部親王(後の桓武天皇)が立太子し、10月19日、井上内親王と他戸親王は大和国宇智郡(現在の奈良県五條市)没官の邸に幽閉される。 その後、井上内親王はやがて幽閉先で宝亀6年(775年)4月27日、息子の他戸王と共に逝去した。この不自然な死には暗殺説も根強い。
宝亀7年(776年)から天災地変がしきりに起こり、廃后・廃太子の怨霊と恐れられ、また廃后は竜になったという噂が立った。同8年(777年)、光仁天皇は遺骨を改葬させ、墓を御墓と追称。さらに延暦19年(800年)、崇道天皇(早良親王)の名誉回復にあわせ、井上内親王を皇后と追号し、御墓を山陵と追称する。陵墓は奈良県五條市御山町の宇智陵と比定されている。のちに霊安寺御霊神社に祀られた。
・・・・・・ 二人の怨霊系が加えられているのが興味深い・・・・
藤森神社の案内については
こちらを見てください。