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熊野醉軍

天に導かれるままに、旅紀行を綴っていきまする。

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2nd of September, 2006 06 深草十二帝陵

2006-09-06 00:04:57 | 近畿(京都)
 伏見稲荷を目指し歩いているのだが・・・・

 まだまだ道はある・・・・

 聖母女学院の近くで道標が・・・・
 深草北陵がすぐだべ! しかし、御陵が多いね、このあたりは・・・・




 北朝の天皇が多いな・・・・
 南朝寄りなのでちょっと好かんな・・・・

 さあ先へ進め!
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2nd of September, 2006 05 西岸寺

2006-09-05 23:55:46 | 近畿(京都)
 さて、誠心寺を後にして、さらにその道を北上していきました・・・・
 しばらくすると・・・・ 木の立て札が・・・・ まったく予定していなかったところですが、 西岸寺というらしい・・・・・



 はう???

 藤原忠通に所縁があるのですか??? ほえええ・・・・
 1156年に勃発した哀しい保元の乱という戦いに話は遡ります・・・・

 鳥羽法皇崩御のときに崇徳上皇はその元へはせ参じようとしたが拒まれ・・・・
 これが、皇族の兄崇徳上皇対弟後白河天皇という構図になってしまった・・・・
 事の発端は鳥羽法皇の祖父白河法皇が猿のロリコンボケだった為におこっている。平清盛もご落胤説があるくらいだ・・・・ 何せ、少女に手をつけまくっている。その中から、鳥羽天皇に后を与えたのだ・・・・ 生まれた時期から崇徳上皇の親が白河法皇であったのか鳥羽天皇であったのかわからない・・・・ ただ、鳥羽天皇は疑っており、崇徳上皇を、本来は叔父であるのに自分の子供として扱わなければいけない、ということから「叔父子」と呼んでいた・・・・ 本人には何もつみはないのに・・・・ まあ、とにかく、死ぬ前から、鳥羽法皇・後白河天皇対崇徳上皇という構図が出来ていたのだ。さらに摂関家では藤原忠実・頼長父子と忠実の長男藤原忠通が対立。源氏では、源為義と次男義賢以下の息子たちと東国に追いやられていた嫡男義朝(頼朝の父)、平家は平清盛と叔父忠正・・・・ これが、2つに別れての戦いとなったのだ・・・・

 結果、戦を知らぬくせに主導権を握った悪左府藤原頼長が鎮西八郎の進言を受け入れなかったために大敗し、敗北側はほぼ全員殺されることとなったのだ・・・・ 
 そう・・・懐かしい名前だったのだ・・・忠通・・・・

 そして九条兼実・・・・ 五摂家の祖だ。 『玉葉』で有名だ。 木曾義仲に近づくように見せかけ、義経たちが来たら頼朝に・・・・ 信用は出来ぬが、でも、頭はすごくよかったのでしょう・・・・ ちなみに、この兄に当たる松殿基房というかたは兄弟間での勢力争いのために木曾義仲に近づき、娘を正室に送っている・・・・ さらに、真実ではないであろうが、その娘は後に曹洞宗祖道元の母といわれる。

 さて、この寺の所縁からこんな事までうだうだと書けるのだが・・・・
 寺はイマイチだ・・・・・



 しかし、後ろの雲が気になる色だ・・・・
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2nd of September, 2006 04 浄土宗誠心寺

2006-09-05 08:03:41 | 近畿(京都)
 さて、藤森神社の横の道を北にまっすぐに進むと誠心寺というところに着きました。浄土宗の寺だそうです。




 京都市中京区に同名の寺で和泉式部の墓があるところがあるらしいが、こちらは別のお寺でございます。



 この寺は小さく、掃除も行き届いているようで、こぎれいな感じでした。
お堂の屋根と雲の位置関係もかなりGoodな感じでした。



 写経塔とは・・・・
 写経した紙を燃やして供養しているのだろうか???

 その横のお堂が開けられていたので中の仏像を写させてもらった!




 そして旅路を急ぎました・・・・

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2nd of September, 2006 03 藤森神社

2006-09-04 20:09:17 | 近畿(京都)
 9月2日の京都の旅、第一弾は藤森神社であった。
 前の二つの記事に、すでにそのことは述べているが、 しかし、ここが菖蒲の節句の発祥地だとは驚きだ!




 この鳥居については立て札に面白いことが書かれていた。



 ある意味、近藤勇は不遜なことをしたのかもしれないが、ただ、職務を全うするために合理的な態度で挑んだのだなあ、と思う。 ちなみに私は新撰組に興味はない・・・・

 まあ、それはともかく進むと拝殿の姿が見えてくる!



 そして拝殿から本殿を望む!



 祭神は十二神だが、複雑なメンバーだ・・・・




 ところで、少し祭神について・・・・


早良親王 750(天平勝宝2)~785(延暦4)

 光仁天皇の皇子。母は高野新笠。能登内親王・桓武天皇の同母弟。妻子がいたという記録はない。立太子以前親王禅師と称され、死後崇道(すどう)天皇と尊称された。
 761(天平宝字5)年、11歳のとき出家し、東大寺等定僧都を師とし、羂索院に寄住。768(神護景雲2)年、東大寺より大安寺東院に移住。770(宝亀1)年、21歳のとき登壇受戒。同年父白壁王が即位し(光仁天皇)、以後親王禅師と呼ばれた。この頃東大寺運営の主導権を握ったとも言われ、宝亀2年には実忠に命じて大仏殿副柱を構立している。781(天応1)年4月、兄山部親王が即位する(桓武天皇)と、皇太弟に立てられた。この時32歳。仏教界に重きを置き人望もあった早良親王を父光仁が推輓したものかという。同年4.14、藤原田麻呂が東宮傳、大伴家持が春宮大夫、林稲麻呂が春宮亮となる。一説に、この頃家持が集めた歌集が早良皇太子に献上され、後の万葉集勅撰の契機となったともいう。785(延暦4)年9.23夜、長岡京造営工事を検分中の藤原種継が賊に弓で射られ翌日死亡するという事件が起こり、取り調べの結果、家持・五百枝王・紀白麻呂・大伴継人・大伴永主・林稲麻呂らによる皇太子早良親王を担いだ謀反であると断定される。親王は乙訓寺(現長岡市今里)に幽閉され、抗議の断食をし、10日余り後、船で淡路に移送の途中、高瀬橋(河内国、淀川の橋)のあたりで憤死。淡路に埋葬される。792(延暦11)年6.10、陰陽寮で卜定したところ、安殿親王の病が早良親王の怨霊の祟りと判明する。延暦16年5月、宮中に怪異あり、早良親王の魂鎮めが行われる。延暦18年2月、賀美能親王元服の時、再び早良親王の魂鎮め。800(延暦19)年7月、怨霊鎮魂のため早良親王を崇道天皇と追称する。

 ・・・・・・怨霊系だ

井上内親王 717(霊亀3)~775(宝亀6)

 聖武天皇の皇女。母は県犬養広刀自。同母弟に安積親王、同母妹に不破内親王がいる。白壁王に嫁し、他戸王・酒人女王らを産む。死後、吉野皇后とも称された。
 養老5年(721年)9月11日に五歳で伊勢の斎王にト定される。6年後の神亀4年(727年)、伊勢に下向する。天平16年(744年)1月13日、弟の安積親王の死により、斎王の任を解かれ、退下する。帰京後、白壁王(光仁天皇)の妃になる。天平19年(747年)、無品から二品に叙される。天平勝宝6年(754年)、酒人内親王を産む。その後、他戸親王を産む。
 光仁天皇が宝亀元年(770年)10月1日に即位し、同年の11月6日、皇后となる。その翌年の宝亀2年(771年)の1月23日、息子の他戸親王が立太子される。
 宝亀3年(772年)3月2日、光仁天皇を呪詛したとして皇后を廃され、同年の5月27日には他戸親王も皇太子を廃され、二人は幽閉される事になった。宝亀4年(773年)1月2日には山部親王(後の桓武天皇)が立太子し、10月19日、井上内親王と他戸親王は大和国宇智郡(現在の奈良県五條市)没官の邸に幽閉される。 その後、井上内親王はやがて幽閉先で宝亀6年(775年)4月27日、息子の他戸王と共に逝去した。この不自然な死には暗殺説も根強い。

 宝亀7年(776年)から天災地変がしきりに起こり、廃后・廃太子の怨霊と恐れられ、また廃后は竜になったという噂が立った。同8年(777年)、光仁天皇は遺骨を改葬させ、墓を御墓と追称。さらに延暦19年(800年)、崇道天皇(早良親王)の名誉回復にあわせ、井上内親王を皇后と追号し、御墓を山陵と追称する。陵墓は奈良県五條市御山町の宇智陵と比定されている。のちに霊安寺御霊神社に祀られた。

 ・・・・・・ 二人の怨霊系が加えられているのが興味深い・・・・




 藤森神社の案内についてはこちらを見てください。

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2nd of September, 2006 02 力石

2006-09-04 15:50:37 | 近畿(京都)


 まあ、どこの神社にも多い話ではあるけれども、石関係の話がところどころにあるものだ。さざれ石もあちこちにあって、「君が代」にあるさざれ石と言い張るところも多いし・・・・

 このかへし石は、藤森神社に伝わる石のお話でござります。

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2nd of September, 2006 01 菖蒲の節句

2006-09-04 13:44:43 | 近畿(京都)


 土曜日の京都散策は伏見稲荷からもう一駅奈良寄りにある藤森から始めた。藤森神社はそこそこ有名らしいが・・・・・

 なんと、菖蒲の節句の発祥地とか言う情報が・・・・ まじですか???? 

 菖蒲の節句とは??? いわゆる端午の節句・・・だ・・・・

「「端」は初めで、「午」は午(うま)の日。古来、5月初めの午の日に行われていた。
平安時代に宮廷行事として、天皇をはじめ文武官が菖蒲で作った鬘(かつら)を冠につけて邪気を祓う呪いや、馬射(うまゆみ)をしたのがはじまり。 江戸期にはいると武家では厚紙の兜や兜人形などを戸外に飾ったり武者絵幟が立てられ、やがて町人も次第に室内に兜や武者人形、絵幟などを飾るようになった。

 今の鯉幟(こいのぼり)が登場したのは江戸時代の終わりころで、当時の風俗画には江戸の空を一斉に翻る様子がしるされている。また、端午の節供は菖蒲の節供、五月節供とも言われる。」

 菖蒲は邪気を祓い尚武(しょうぶ)に通じる。

 尚武の意味は武事、軍事を重んじること、また字音が「勝負」にもつながる。

 それで五月人形は甲冑なんかな?

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2006.07.22 7 舞妓2

2006-08-09 00:56:05 | 近畿(京都)
 従弟の結婚式での舞妓の踊りですが、動画のほうはYouTubeでアップさせてもらいました。

http://www.youtube.com/watch?v=wHfktl4s4jA












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2006.07.22 6 舞妓1

2006-07-31 04:27:07 | 近畿(京都)
 従弟の結婚式と披露宴の間に舞を見る時間も設けられていたので写真を!






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2006.07.22 4 平安神宮3

2006-07-28 01:52:08 | 近畿(京都)
 さて、平安神宮の続きです。
 太極殿に向かって右側には蒼龍楼があります。






 向かって左は、まず白虎です。



 そして、白虎楼ですねえ。





 そして正面の太極殿。




 玄武と朱雀はないのだろうか????
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2006.07.22 3 平安神宮2

2006-07-27 05:48:16 | 近畿(京都)
 では、応天門を抜けて撮った境内の写真です。



 これは、石の蒼龍から太極殿、白虎楼を望む姿です。
 個人的にはかなり気に入った写真の一枚ですね。

 動画はここで見れます。

http://www.youtube.com/watch?v=8mCrZmf-BTM

 水の音が入りいい感じですが、ブレが大きいです・・・



 これは蒼龍。方位を司る四神の1つの青龍のことですね。反対側には白虎がございます。



 こちらは太極殿。
 再建されたものらしいですが・・・・ いい感じで写真が撮れたか、と・・・・
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2006.07.22 2 平安神宮1

2006-07-27 05:03:21 | 近畿(京都)
 22日土曜日は従弟の結婚式で平安神宮の近くまで来ました。
 始まる前に少し時間があり立ち寄ってきました。まずは、バス内から撮った鳥居の写真です。



 この後、バスから降りて、待合に滞在せずに歩いて平安神宮へ!

 晴れていたにもかかわらず曇りのような写真ですが勘弁してくだされい!




 汗をかきかき、さらに進みますとああ、応天門が見えます。応天門の変・・・ 伴善男でしたっけ???



 習いましたね、日本史の時間に!



 二枚目の応天門の写真は綺麗に撮れたと思います。

 ところで、少し一般情報を!

平安神宮(へいあんじんぐう)は、京都府京都市左京区にある神社である。旧社格は官幣大社、勅祭社。現在は神社本庁の別表神社。

1895年(明治28年)に平安遷都1100年を記念して、平安京遷都当時の天皇であった第50代桓武天皇を祀る神社として創建された。皇紀2600年にあたる1940年(昭和15年)に、平安京で過ごした最後の天皇である第121代孝明天皇が祭神に加えられた。

また創建を記念して平安京遷都の日である10月22日に時代祭が行われるようになった。

           (出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)
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2006.07.22 1 変な地名

2006-07-25 03:20:22 | 近畿(京都)
 22日は従弟の結婚式のためにみんなでマイクロバスで京都へと向かった。
 と、面白い地名が・・・・



「五条別」ですか? ごじょうわかれ・・・・

 なんでだろう???

 上がり、下がり、やら色々と京都はわかりにくいところだっぺ・・・
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