<<ルート>>
1.熊野神社 ⇒ 2.御辰稲荷神社 ⇒ 3.須賀神社 ⇒ 4.聖護院
⇒ 5.岡崎神社 ⇒ 6.尊良親王墓 ⇒ 7.金地院 ⇒ 8.南禅寺
⇒ 9.熊野若王子神社 ⇒ 10.大豊神社 ⇒ 11.冷泉天皇陵
⇒ 12.法然院 ⇒ 13.慈照寺 ⇒ 14.吉田神社 ⇒ 15.宗忠神社
⇒ 16.陽成天皇陵 ⇒ 17.下鴨神社(賀茂御祖神社)
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岡崎神社からみなみのほうへ行くとちょっとした住宅街があるがその一角に
後醍醐天皇の皇子の一人である尊良親王のお墓がある。「尊」の字を与えられている親王なので、後醍醐天皇のお気に入りであったのかもしれない。
「ウィキペディア」による親王の説明を引用。
尊良親王(たかよししんのう/たかながしんのう、1310年(延慶3年)?-1337年4月7日(延元2年/建武4年3月6日))は、後醍醐天皇の皇子。母は二条為世の娘・為子。宗良親王の同母兄。名前の読みが二種類あることについては、後醍醐天皇の皇子の読みを参照。
幼少時は吉田定房に養育された。1326年に元服し、中務卿に任じられた。1331年1月には一品に叙任されたことから、一品中務卿親王と称された。元弘の乱では父と共に笠置山に赴いたが、敗れて父と共に幕府軍に捕らえられ、土佐国に流された。しかし脱出して翌年には九州に移り、その後、京都に帰還した。1335年、足利尊氏が後醍醐天皇に反逆すると、上将軍として新田義貞と共に討伐軍を率いたが、敗退した。翌年、九州に落ちた尊氏が力を盛り返して上洛してくると、義貞と共に北陸に逃れた。しかし1337年3月6日、尊良親王が拠った越前国金ヶ崎城に足利軍が攻めて来る。尊良親王は義貞の子・新田義顕と共に懸命に防戦したが、敵軍の兵糧攻めにあって遂に力尽き、3月6日に義顕や他の将兵と共に自殺した。
自殺の寸前、義顕は尊良親王に落ち延びることを勧めたが、尊良親王は同胞たちを見捨てて逃げることはできないと述べて拒絶したという。
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最期の時、親王は、新田義顕に「切腹の作法を教えよ」といい、彼は、一文字で腹を切り手本を見せ、親王も同様に一文字に腹をお切りになられて最期を迎えたという。