油屋種吉の独り言

日記や随筆をのせます。

ちょっと、前橋まで。  (3)

2020-04-09 22:25:24 | 旅行
 初めての土地はいかなる人にも、それなり
に新鮮な思いを与えてくれる。
 目的地付近に着いたのは、お昼近く。
 前橋はさすがに広い街だった。
 まだ車中にいるうちに、かみさんはせがれ
とこれからの段取りを決めはじめる。
 「診てもらうのは一時半だから、ちょっと
その前に腹ごしらえしとこうね、Hちゃん」
 「うん」
 「あなた、どこかお店見つけてね。わたし
たち、この辺りでおりて、治療院さん見つけ
てるから」
 「ああ、わかった。そいでさ、どんなもの
が食べたいんだい?」
 「なんだっていいけど、できれば和食がと
れるところがいいわ」
 かみさんの一言で、わたしはあとでひとり、
飲食店をさがすはめになった。
 慣れない土地に入ってから、ずっとわたし
はナビの朱色の旗めざし、慎重に慎重をかさ
ねてきた。
 せまい路地が多く、終始徐行。
 神経質になりすぎ、わたしはひとつ曲がる
角をたがえたことも。
 「あら、こんなところかしら。全然、らし
くない建物ばっかり。ふつうのおうちじゃな
いのよ。ほらほら子どもがいるわよ。気をつ
けて。地図よく見て運転してよね。わかんな
くなったら、せっかく三時間もかけて来たの
がむだになるんだから」
 「ああ、わかった」
 かみさんの文句に逐一反論したい。
 だが、もしそれをやるとどうなるかわかっ
ている。ひとつの文句に対して、十数倍もの
お返しがある。
 よけいに気分がわるくなること請け合いと
わたしはむっつり口を閉ざした。
 車がようやく、利根川の土手の上を走り出
した。
 こちらはわが地方よりずっと暖かいらしく、
向こう岸の桜が見ごろを迎えていた。
 さすがは、坂東太郎の異名をとる川だけの
ことはある。
 川底までゆうに五十メートル、川幅は百メ
ートルくらい。
 こちらの岸に、幅六メートル未満の舗装道
路が造られ、そこをわが愛車は時速八メート
ルくらいで走った。
 道沿いに住宅がたちならぶ。
 「はっきりした看板、出てるよね」
 わたしが問うと、かみさんは、
 「わかるわけないじゃない。初めて来たん
だし」
 と、まったく平気な顔。
 誰に聞いたのか、お医者さまじゃないけど、
いい治療をしてくださるらしいわよ、そこに
行ってみましょうと言い出したのは、あくま
でもかみさんだった。
 だとしても、もしも求める治療院が見つか
らなかったら、彼女はあとあととんでもなく
不機嫌になってしまう。
 「ひょっとして、あれじゃないか。それら
しい看板がかかってるけど」
 おずおずとわたしが言うと、かみさんは後
部座席から身をのりだし、
 「あっそうだわ。波、なんとかなんてちゃ
んと書いてある。良かったわ見つかって」
 と、うきうきした調子で言った。
 二階建てのこじんまりした家。
 玄関先にも、裏の駐車場にも車が一台も止
まっていなかった。
 「車ないね」
 「当たり前よ。きっと食事に行ってらっしゃ
るのよ」
 「そうだろね」
 「何かあったら、いつでも電話してくださ
いねって、奥さまが言ってらっしゃったわ」
 せがれとかみさん。
 ふたりを車からおろし、わたしは手ごろな
飲食店をさがそうと、住宅地の中心部にとっ
て返した。 
 誰かにたずねなくては、と、まずは大通り
に面したまんじゅう屋さんに入った。
 年配の女店員さんがひとり、店の中を行っ
たり来たり。
 「あのう、すみません。ちょっとこのあた
り、わたし、不慣れなもので」
 「はい、だいじょうぶですよ。どうぞ」
 彼女のキップのいいしゃべり口に、わたし
はフレッシュな魅力を感じてしまった。
 それが表情に出たのだろう。
 彼女はちょっと警戒のまなざしをわたしに
向けた。
  
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