『化野念仏寺
寺伝によれば、化野の地にお寺が建立されたのは、約千二百年前、弘法大師が、五智山如来寺を開創され、野ざらしとなっていた遺骸を埋葬したと伝えられる。その後、法然上人の常念仏道場となり、現在、華西山東漸院念仏寺と称し浄土宗に属する。
本尊阿弥陀仏座像は湛慶の作、参道の釈迦・彌陀二尊の石仏と共に鎌倉彫刻の秀作とされている。
現在の本堂・庫裡は、正徳二年(一七一二)十一月、岡山より来た寂道和尚によって中興されたものである。
境内にまつる八千体を数える石仏・石塔は往古あだし野一帯に葬られた人々のお墓である。
何百年という歳月を経て無縁仏と化し、あだし野の山野に散乱埋没していた石仏を明治中期、地元の人々の協力を得て集め、極楽浄土で阿弥陀仏の説法を聴く人々になぞらえ配列安祀してある。
この無縁仏の霊にローソクをお供えする千灯供養は、地蔵盆の夕刻よりおこなわれ、光と闇と石仏が織りなす光景は浄占現の感があり、多くの参詣がある。石仏や石塔が、肩をよせ合う姿は空也上人の地蔵和讃に
これはこの世の事ならず死出の山路のすその
なるさいの河原の物語・・・
みどり児が河原の石をとり
あつめこれにて廻向の塔をつむ
一重つんでは父の為二重つんでは母の為・・・
とあるように、嬰児が一つ二つと石を積み上げた河原の有様を想わせる事から西院の河原という。
あだし野は化野と記す。「あだし」とははかない、むなしいとの意で、又「化」の字は「生」
が化して「死」となり、この世に再び生まれ化る事や、極楽浄土に往生する願いなどを意図している。
この地は古来より葬送の地で、初めは風葬であったが、後世土葬となり人々が石仏を奉り、木遠の別離を悲しんだ所である。
兼好法師の徒然草に
あだし野の露消ゆる時なく鳥部山の烟立ちさ
らでのみ住果っる習ならば如何に物の哀もな
からん世は定めなきこそいみじけれとしるさ
れ、式子内親王は、
暮るる間も
待つべき世かはあだし野の
松葉の露に嵐たつなり
と歌い、西行法師も
誰とても
留るべきかはあだし野の
草の葉毎にすがる白露
と人の命のはかなさを詠んでいる。
竹林と多聞塀を背景に、茅屋根の小さなお堂は、この世の光はもとより母親の顔すら見る事もなく露と消えた「みず子」の霊を供養するみず子地蔵尊で、毎月お地蔵様の縁日には、本堂にみず子地蔵尊画像をおまつりする。
仏舍利塔の内部は、納骨堂で、一時預かり納骨・永代供養納骨・合葬納骨など、御遺骨を納めて頂けます。』 (パンフレットより)
『化野念仏寺
華西実漸院(かさいさんとうぜんいん)と号吉浄土宗の寺で、境内には付近から出土した多数の石塔や石仏が立ち並んでいる。
化野は古くから鳥辺野、蓮台野とともに葬地として知られ、
誰とても とまるべきかは あだし野の
草の葉ごとに すがる白露
という西行の歌にもあるように、「化野の露」は、人生の無常の象徴として和歌などで広く使われている。
寺伝によれば、弘仁年間(八一〇~八二四)に、空海上人がこの地に葬られた人々を追善するため、小倉山寄りを金剛界、曼荼羅山寄りを胎蔵界と見立てて千体の石仏を埋め、中間を流れる曼荼羅川の河原に五智如来の石仏を立て、一宇を建立して五智山如来寺と称したのが始まりといわれている。当初は真言宗であったが、鎌倉時代の初期に法然上人の常念仏道場となり浄土宗に改められ、念仏寺と呼ばれるようになった。
正徳二年-(一七一二)に寂道上人が再建したといわれている本堂には、本尊の阿弥陀如来坐像
が安置されている。
毎年八月二十三、二十四日に行われる「千灯供養」では、八千体にも及ぶ無縁の石仏等に灯
供えられ、多くの参詣者でにぎわう。
京都市』 (境内駒札より)
京都市西京区。一大観光地の嵐山がある。春や秋などのシーズンには大混雑するほどの観光客で賑わう。 JRや京福電鉄の駅の周辺には、天龍寺をはじめとする有名な寺院が散在し、嵐山の渡月橋界隈も名所として大いにアピールされ、必然的に観光客が集中する状態になっている。この周辺一帯から少し北に行くと住宅地から農地が広がり、観光客の姿もかなり減る。そんな中に今回訪れた「化野念仏寺」がある。
関西に在住している人にとってみれば、テレビのニュースや情報番組によく登場するので、大半の人が境内の様子まで知っている。特に8月の「千灯供養」は夜間のライトアップも含めて、幻想的な様子がニュースで流され、かなり有名でもある。昼間にここを訪れると、ある意味非常に地味な雰囲気を感じる。特に大きな本堂があるわけでもなく、重要文化財の仏像があるということもなく、そこそこの広さがある境内には、小さな石像、石造仏、五輪塔などが所狭しと並べられていて、独特の景観を見せてくれる。若い女性などは、それらの石造物を見て、「かわいい」などと言ってる場面をテレビで見たこともあるが、このお寺の果たしている役割というのは、あまり知られていないかもしれない。確かに予備知識も何もなければ、多くの小さな石像が並んでいるお寺だ、ということで終わってしまうかもしれない。
かつて都だった平安京は、華やかな雰囲気が感じられるかもしれないが、この地に住んでいたのは何も、天皇をはじめとする貴族達だけではない。周辺には多くの農民をはじめとする庶民たちが暮らしていた。今と違って平均寿命も短く、出産時の胎児の死亡率も極めて高く、ひとたび疫病が流行すれば、何万人という人々が亡くなっていた。貴族と違って、一般庶民は死ねば丁寧に葬られてお墓が建つというわけではなく、それぞれ定められた場所に運ばれ、野ざらしにされた。土葬ではなく風葬という状態で、死骸は鳥に食われ、腐敗して骨だけになって、やがてその骨も粉々になって、人知れず何もかもがなくなっていく状態だった。
この化野という土地は、そのような多数の御遺体が集められ、野ざらしにされた場所だった。名も無きそのような人々の死を悼んで弔ったのが、空海上人と言われている。おそらく周辺の人々も一緒になって、野ざらしにされた人々のために数多くの石造物を作ったのだろうと思われる。そしてそれらがここの念仏寺に集められ、供養されている。詳しいことは上の説明書きにある通り。
このようなことを知ると、気軽な形で物味遊山で見学をするなんていうことはできない。はるか昔のことであっても、大きな歴史の中では、天皇や貴族や武士達がこの日本という国を作ってきたのではなく、むしろ名もなき貧しき人々によって作られたと言うべきだろう。決してそういった人々が、ひとくくりに語られるべきではなく、一人一人に大切な人生があったはずだ。そういったことへの思いを馳せながら、境内に並べられた石造物を見ると、全く違って見えてくる。ある種の無常感のような感覚が目の前の景色から入ってくる。並べられているのは8000体とも言われているが、実際に野ざらしにされた遺骸は何万、何十万ということだろう。これらの石造物が並べられた中に入ることができるが、この内部での写真撮影は禁じられている。亡くなった人々への当然の配慮だ。
化野念仏寺は一見すると、とても地味に感じられるが、その歴史を知ることによって味方は一変する。嵐山観光をする際には、少し距離があるが、是非とも訪れて、様々な思いを感じるのもいいことではないかと思う。
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