切れ切れ爺さんの徒然撮影&日記

主に寺院や神社等を中心に、文化財の撮影と紹介。
時に世の中の不条理への思いを発言していく。

櫟谷七野神社 京都市上京区・・・パワースポットなんか!

2020-01-28 22:00:56 | 撮影


櫟谷七野神社(いちいだにななのじんじゃ)

 『この地は平安時代から鎌倉時代にかけて賀茂社に奉仕する斎内親王、即ち斎王が身を 清めて住まわれた御所(斎院) のあった場所であり、このあたりが紫野と呼ばれていたた め、「紫野斎院」とも称された。この斎院の敷地は、大宮通りと廬山寺通りを東南の角としており、約一五〇メートル四方を占めていた。
 斎王は嵯峨天皇皇女・有智子(うちこ)内親王を初代とし、累代未婚の皇女がト定され、約四〇〇年続き後鳥羽天皇の皇女・三十五代礼子 (いやこ)内親王をもって廃絶した。
 斎王の中には選子(のぶこ) 内親王や、式子(のりこ)内親王のように卓越した歌人もあり、斎院でしばしば歌合せが催された。また斎院にはほぼ五〇〇人の官人や女官が仕えており、女官にも秀れた歌人が少なくなかった。
 私達は、この文化遺産 斎院跡を顕彰し、後世に伝えるものである。
 平成十三年十一月吉日
 賀茂(紫野)斎院跡顕彰会』 (石碑より)

『神社の由緒
鎮座地 京都市上京区大宮通盧山寺上る西入社横町277番地
御祭神 高沙大神・春日大神・武甕槌命 他19柱
例祭日 10月16日

 社伝によれば平安時代55代文徳天皇(850年)皇后藤原明子ご懐妊の際、その安産お祈りのため、産殿の西方に大和国三笠山から春日の大神をお迎えして祈願したところ、儲君・後の清和天皇をご御平産になったと伝えられる。
 その春日大社御鎮座の場所が山城国葛野郡(かどのぐん)櫟谷(いちいだに)である。当時は櫟の森を谷川が流れていたのであろう。また、社名の「七野」とは、もと船岡山麓一帯にあった原野で、紫野・禁野・柏野・北野・平野・蓮台野・内野(神野・神明野・萩野・御栗栖野)のこと。これら七野の惣社として祀られたと伝えられる。伊勢神宮の斎院に準じて設けられた紫野斎院が廃絶された時、その屋敷神を七神祀った社だったと言う説もある。

 この七つの野に神供田があり、その石高は合わせて七百五十石に及んだという。
 この神社に、離れてしまった天皇の愛を復活させてほしいと祈ったのは、59代宇多天皇(894年)の皇后。社前の白い砂を三笠山の形に積み、祈願せよと のお告げを得て、その通りに砂山を作り祈った所、天皇の愛情が戻ったという。それ以来、社前に白砂を積めば浮気封じ・愛の復活の願いが叶うといわれ、社前 に積む砂も「高砂山」と呼ばれる様になった。
 その後、応仁・文明の戦乱時代、この七野あたりは細川勝元と山名完全が相対峙する戦場と化したため、社頭は殆ど灰燼に帰したのを、大内義興の台命あって永正9年(1582年)2月、七野各社を高台の一所に集めて再興がはかられた。

 織田信長が遊宴のために社を麓に引き下ろし、その跡に高殿を建てて神域を穢したことが、後に豊臣秀吉に聞え、秀吉は山内一豊をして再建せしめた。その 時、秀吉は各大名に石垣の寄進を命じ、その石には大名の家紋などが刻まれている。今は土や苔で見えにくくなっているが、秀吉の篤信が偲ばれる。
 以後、特に禁裏・仙洞・女院御所の崇敬篤く、大火焼失等の都度、これらからの再興がはかられてきた。
 なお、当社では、昔から毎年春になると、どこからともなく一頭の鹿が神前に現れるのを、奈良へ送るということがあった。明治6年(1872)以後見られ なくなったのであるが、この神縁により、明治28年(1895)、当社よりの依頼により奈良の春日神社から神鹿2頭を貸与された、という記録が、今日春日大社に残っている。』
  (神社HP 及び パンフレットより)



 櫟谷七野神社は、前回紹介した玄武神茶や健勲神社の少し南側にある。徒歩で10分もかからない。
 神社名そのものが難しい漢字を使っていて、何と読むのか全く分からないが、上記の通り創建も詳しいことはわかっていない。伝えられるところによると平安時代ということのようだ。神社の由緒や由縁は上記の石碑やパンフレットに記されていたので、それを参照してもらえればいいと思う。
  優に千年を越える長い歴史を持つ神社であり、斎王の名前から連想される通り、今現在も京都で続けられている「葵祭」の斎王代行列発祥の元ともなっている神社だ。当時もこのような行列が行われていたようだが、承久の乱で中断することになってしまう。
 それまでは天皇の皇女等が斎王を勤めていたが、後年復活するにあたって、天皇家とは切り離される形となり、今では斎王代として京都の若い女性が選ばれて勤めている。例年のことなので時期が来ると今年の斎王代は誰が選ばれるのか、ということが一部の人々の間で話題になるが、元は天皇家所縁の祭事であったこともあり、庶民とは程遠いところにあるものであった。その部分だけは今でも変わらない。つまり庶民にはとてもではないが選ばれるような素地がない。さまざまな条件があって、中でも一番厳しいのが「財力」と言ってもいいだろう。よく考えてみれば例年選ばれる斎王代は例外なく、いわゆる「いいところのお嬢様」ばかりであって、京都の中でも有数の名家富裕層などの家庭のお嬢様方だ。そりゃそうだ。斎王代に選ばれるには軽く数千万、とも言われている。大げさな数字ではないのかとも思われるが、あれこれ伝え聞く話によるとやはりそのくらいはかかってるようだ。
 ちなみに祇園祭りで選ばれる少年の稚児についても、噂として選出されるのに数百万などという話を聞いたこともある。その子達も皆さん私立の名門小学校に通う子達ばかりだ。何て話すと庶民とは程遠いところの話になってしまう。

 さて話がちょっと横へ行ってしまったが、この神社そのものは長い歴史と深い由緒を持ちながらも、実はあまり目立たないようなところにあり、路地を入ったところに鳥居が立っていて、こんなところに神社があるのか、といった感じだ。境内も決して広くはなく、ちょっとした児童公園のような雰囲気。
 一番奥が拝殿及び本殿となっていて、その前に銅製の鹿が置かれている。これは元々が春日大神の勧請によるものとして奈良との関係から、鹿がやってきたものというふうに考えられているようだ。拝殿と本殿の背後は京都の市街地が望める。
 またこの神社はある意味、知る人ぞ知る神社であって、一つのパワースポットの場とも言われている。というのも御利益の中に「浮気封じ」というものがあり、男女関係の生々しい問題について願いを叶えてくれるといったものがあるようだ。そういった点でもなかなか面白い神社とも言える。前回の神社と合わせて一緒に巡るのもいいかと思う。
      
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