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山科区にある歓喜光寺に行ってきた。
外環状線を北上し名神高速道路との交差部分を東の方へ入ると、京都橘大学キャンパスが見えてくる。そのすぐ横にお寺がある。門の横にある駐車場に停めて石段を上がると門がある。
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入ってすぐに多くの石地蔵が並ぶ。横には地蔵堂があり、石造南無地蔵が安置されている。この 台座には「宝永七年八月二四日」と刻まれている。西暦では1710年で、富士山の宝永の大噴火のすこしあとのことだ。この奥の方に社務所があり、さらに奥へ進むと本堂がある。
この本堂は元は別の寺院のものであったが、歓喜光寺に移築されてきた。桃山時代の建立で京都府の登録有形文化財。400年余り経っている。本堂の正面には大正時代に作られた石造の大日如来が建っている。これは日露戦争に対して多くの人が亡くなったことを弔い、平和の願いを込めて建てられたものである。
歓喜光寺の由来については、門のところに掲げられていたが、ウィキペディアの文章とほぼ同じものであり、以下に wikipedia の解説文を載せておく。お寺自体は説明にある通り100年余り前にこの地へ移転してきたこともあって、全体的には真新しさを感じる。少し高い所にあり環境的にはなかなか良いところと言える。
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『歓喜光寺は、六条道場「紫苔山河原院」と号して六条派の本山である。もとは府下八幡にあって善導寺と称し、一遍の肉親と言われる聖戒が創建。正安元年(1299年)に九条関白忠教の庇護を得て、京都六条河原の源融公邸跡に移り『六条道場 河原院 歓喜光寺』とした。
また、付近にあった菅原道真の社を鎮守として菅公像を境内に安置する。その後、高辻烏丸・四条京極と移転したが明治の神仏分離によって、境内の社は独立し現在の錦天満宮となった。明治40年東山五条にあった法国寺と合併して自基をここに移した。なお本堂は「法国寺(府文化財)」のもので、豊臣秀頼の母・淀君の二世安楽の為に建立されたと伝えられる。(以下略)』
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