『三之宮
祭神は鵜鵜草葺不合尊で醍醐天皇の延喜年中(西暦九〇一~九二二)に本社殿を建立し、のち醍醐天皇をも合祀した。 その後はなはだしく退廃したが、後小松天皇(西暦一三九二~一四一二)の勅によって再興された。 後水尾天皇もまた深く当宮を崇敬し、慶長十八年(西暦一六一三)社殿を改築せしめ、 元和九年(西暦一六二三)勅願所の綸旨を賜うた。明治に至るまで、 毎年宮中より神供米一石を下賜されていた。』
(石碑説明書きより)
『大般若経宝蔵の由縁
三之宮は延喜年中(九〇一~九二三)の創建と伝えられ、往古より山科七郷の総鎮守的存在であった。
後、応永三年(一五九六)に、後小松天皇より山科郷に大般若経六百巻と大般若十六善神本尊を下賜され、三之宮宝蔵に之を納め、尓来(それより)近世に至るまで毎年三回山科郷士が廻り持ちで輪読供養されていた。
其の後、元和三年(一六一七)神社境内に別当寺妙智院が造営され、是より大般若経輪読の際には僧が修行することとなったが、明治維新の神仏分離令発令に伴い廃止された。
この経典は、郷中の最も尊重するもので、うち三巻は御宸筆で其の餘は当時の親王、公卿、門跡方の書写せられたものである。
平成十三年正月 三之宮氏子有志 識』 (境内説明書きより)
山科にある三之宮へ行く。既に何度か訪れていてかつて桜の撮影もしている。今回久しぶりに桜撮影で訪れた。この辺りは山科の中でもかなり早くから開けた土地であり、当神社も 平安時代に創建されたという。その創建がちょうど延喜年間であり「延喜式神名帳」の編纂とほぼ重なる時期であり、式内社として扱われているが、確定的な要素はない。とりあえず神名帳に記載されている「宇治郡 十座 大五座 小五座」の「山科神社二座 並名神大 月次新嘗」に比定されている。しかしこれが実際にそうなのかどうかは諸説あるということだ。
三之宮とあれば当然、一之宮、二之宮があるだろうということになる。かつては山科神社が一之宮として、そして中臣神社が二之宮として、さらにここの三之宮となっていた。中臣神社は今現在では、山科神社の御旅所となっている。
境内はかなり広くかつてお寺があり、明治の神仏分離令によって寺は廃寺となった。神社 そのものはかなり立派な本殿を有し、これは京都市の暫定指定文化財になっている。こういった点から、1000年以上の歴史のある由緒のある神社だと言えよう。
桜の木は全体で数本しかないが、それぞれが比較的大きく多くの花を咲かせていた。第一鳥居の脇にある桜はなかなか見事なもので、神社の存在感を高めている。本殿前の境内では左右にそれぞれ大きな桜の木が満開の花を咲かせていた。おそらく近所の人であろう。ポツポツと訪れて本殿に参拝していく。地域に根付いた地域全体の鎮守社といった存在になっているようだ。
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