『鎌達稲荷神社
当神社は和銅四年元明天皇の御時(西暦七一一)の御鎮座とされるが、御神鏡の記録によると、仏教伝来(西暦五三八)の頃(飛鳥時代)の御鎮座とされ、伏見稲荷大社よりも古く、元稲荷とも伝えられている。
平安朝以降、元天文家で陰陽師であった安倍晴明が子孫、安倍土御門家の祭祀にして、平安朝及び人民に利益を施し、天下泰平・五穀成就を祈願したと伝えられている。御祭神の主神は、倉稲魂大神と猿田彦大神である。
倉稲魂大神は、五穀をはじめ、衣食住及び商工業繁栄の神と敬われ、万生業に福利を授け給ういわゆる開運の神である。
猿田彦大神は、天孫瓊々杵尊が御降臨の時、道案内された神で、広く人事を良きに導き給う神であり、家内安泰・交通導きの神である。主神二柱の鎌達様御信仰御利益由来には、幸運・勝負運を招き、奇蹟を生む神様の御霊験ありと敬われている。
京都市』 (駒札より)
南区の「けんたついなりじんじゃ」を訪れる。
神社の沿革は駒札の通りであり、いずれにしろ相当古い歴史を持つ。例によって事前の下調べなしに行ったので、またもや肝心なものを見逃してしまった。入口、境内もかなり狭い小さな神社だが、様々なパワースポットに関してとても有名らしい。
この日も平日だったが、女性を中心に何人もの人がお参りにやってきていた。写真を撮るにも対象が少なく、何枚か撮ったらすぐ終わりといった感じだ。ちょうどを撮り終えた時に、1人の女性が、ここのお守りの購入費はどうしたらいいのかと尋ねてきた。見てみると誰もいない社務所に、お守りが例示されており、金額が書かれていた。その横に数段重ねのをケースがあり、各自自分でお守りを選び取り、お金を本殿の賽銭箱に入れると言う方法だった。
女性はひとつのお守りを選んでその賽銭箱にお金を入れていた。続いて自分もどのお守りにしようか迷いながら、「病気平癒」のお守りを選んで800円を投入。このような方法をとっている神社は珍しく、完全に性善説に立っているんだろう。中にはお守りだけを盗ってお金を払わずに行ってしまう不届き者がいるかもしれないが、そういう者には逆のパワーが襲いかかるだろう。
このようにして短時間で神社を出て、次の目的地、大通寺へ向かう。ところが家に帰ってから色々調べてみると、ここのお守りの中に「サムハラ呪符」というのが、災難厄除・奇跡を生むお守りとして非常に有名だということを知った。このサムハラを名乗る神社は、大阪や岡山辺りにごくわずかあるだけで、非常に珍しいようだ。
サムハラの語源は諸説あるらしいが、とりあえず文字としては「○○○○」(漢字コードでの表示不可能)と表現する。これらは日本の漢字の中には存在せず、一種の記号のようなものとなる。あるいはまたサンスクリット語の saṃvara から来ているという説もある。いずれにしろ 不思議な文字だ。今度近くに行ったらサムハラのお守りを購入することにしよう。
『大通寺(遍照心院)
清和天皇の第六皇子貞純親王の御子、六孫王経基の子満仲が父の墓所に一宇を建立したのが起こりといわれる。その後、二百六十余年を経た貞応元年(一二二二)に、源実朝の妻、本覚尼が亡夫の菩提を弔っていたが、真空回心上人を請じて梵刹を興し、萬祥山遍照心院大通寺と名付
けた。「尼寺」と称して親しまれ、実朝の母、北条政子も大いにこの寺を援助したとわれる。後に「十六夜日記」の著者阿佛尼も入寺し、亡夫藤原為家を供養したとされる。
足利尊氏・義満をはじめ織田・豊臣氏の崇敬も厚く、徳川氏代々も大いに興隆に努め、元禄年間には今の六孫王神社が造営され、塔頭も多数建立された。東は大宮、西は朱雀を限りとし、南は八条、北は塩小路を境とする広大な境内であったが、江戸幕府の滅亡により衰微し、廃仏毀釈にあった。明治四十四年(一九一一)には旧国鉄の用地となり六孫王神社だけを残して現地に移転し逼塞した。
本堂には「本尊宝冠釈迦如来像」、脇には「源実朝像」が安置されている。また、創建当時から伝わる善女龍王画像、醍醐雑事記は重要文化財に指定されている。本覚寺置文、二巻、阿佛尼真蹟、阿佛塚など、国文学上重要人物を偲ぶにふさわしいものが多く、尊氏・義満の文書も
多数蔵されている。
京都市』 (駒札より)
続いて同じ南区の大通寺へ行く。
東寺のすぐ南側にある。到着して山門を撮影。正面扉は閉まっていたので、横の扉を開けようとしたところ、鍵がかかっていた。要するに中に入れない。ここはひょっとして非公開寺院なのか。寺の由緒については駒札があったので上に示しておく。
重要文化財を有するそれなりに知られたらお寺だと思う。仕方ないので門から身を乗り出して境内の様子を数枚だけ捕る。これ以上はどうしようもない。
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