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綺麗ゴト

「綺麗事では済まされない」なんて言うけど、綺麗な物に囲まれて生きてた方がハッピーじゃん。

自分の人生 棚卸し

2010-11-30 20:01:43 | ikuEizm

1つ前の記事で書いた準備講習で明らかにした部分について書きます。

●自分から見た自分

[長所]
 自分を信じて突き進むことができること。

[短所]
 時折、頭や気持ちを整理できなくなってしまうところ。

●他人(旦那)から見た自分
[長所]
 損得気にせず、努力できるところ。

[短所]
 自分の理想と現実の間を埋めようと、頑張りすぎて自分を追い込んでしまうところ。


自覚と他覚、似ているっちゃ似ているような気がしますね。。。
最終日に発表した自己PRの文章を紹介したいと思います。


実家が自営業で建設会社をやっていたので、幼い頃から働く大人を見て育ちました。早く自分も大人の仲間入りをした。認められたいと思っていました。

中学生でボランティアをすることによって、家と学校以外の社会へと飛び出して行きました。

私を形成するにあたり、経験が大きく影響している高校時代。演劇部の活動をしながら、飲食店、ドラッグストア、コンビニで3年間アルバイトをしました。立場や、関係性、厳しさ、充実感など、社会で働くことが、どういうことなのかを学びました。

商業高校に進学していたため、簿記やワープロ、電卓の資格を取得しました。やればやるだけ理解できて、帳簿が埋まっていく簿記が楽しく、自分の性格に合っていると感じ、卒業後は事務の仕事を選ぼうと思いました。

その反面、演劇部で何かを作り上げることの喜びを知ったり、アルバイトのお給料でチケットを買って観に行ったコンサートや舞台に魅了され、何かを作り上げる仕事に就きたいという思いもありました。

進路について迷いに迷ったあげく、テレビ業界の仕事をすることにしました。自分で行きたい専門学校の資料を集め、体験入学や見学会に何度も足を運んで、親には最終的に決めた段階で話をして、自分の意思を伝え説得しました。

専門学校に進学した私は、親元を離れ、友人とルームシェアをして生計を立てたり、アルバイトで事務やテレビカメラマンのアシスタントをして、自分は何がしたくて、何ができるのかを探しました。

カメラマンのアシスタントをする上で、自分を表現する仕事の厳しさや難しさ、大変さを知り、卒業後はテレビ局で放送する映像を保存・管理・データベース化する仕事を選びました。

データベースの奥深さ、分かりやすい文章表現、ミーティングで相手に伝えることを学びました。専門学校で身につけた機材の知識が役に立ち、機材管理担当者を任されることになり、頼られることの喜び、やりがいを感じました。この仕事が自分に合っていると感じていましたし、何より楽しかったですし、スタッフ同士も仲良く、長く続けたいと思っていましたが、どうしても学生の頃からの創作意欲を留めておくことができなくなり、自分自身も後ろ髪を引かれる思い、周りにも惜しまれ、ブライダルカメラマンへと転身しました。

ブライダルカメラマンの職場は、個性派揃い。自分で考えてまとめて意見を出し、みんなが納得すれば実現できる会社です。カメラアシスタントをしながら、現場経験や撮影技術を身につけて行きます。そして、みんなで意見を出し合ってこだわりの商品開発をしたり、業務改善に取り組んだり。お互いの技術や能力を高め合っていく日々。

社内で有志を募って老人ホームで生活する人を撮影して、当日プリントアウトしてプレゼントをするボランティアをする機会もありました。結婚式場スタッフということで、今まではあまり経験してこなかったクオリティの高いサービスを求められる職種で、目標は限りなくあり、やってもやっても終わりの見えない、やればやるほど自分を高めることのできる仕事でした。

仕事に集中しすぎて、タイムカードを押した後も終電になることも多々。結婚式当日は、始発で出社。重い機材を持って1日中動き回る過酷な経験をしました。しかし、その苦労も、ご新郎新婦、ご家族、ご親戚、ご友人。ゲストの方の笑顔や感謝、感動、お礼によって、一気に吹っ飛び、次への活力となりました。

結婚を機に仕事に打ち込みすぎることのないよう、柔軟な対応をしていこうと思っています。そこで、今まで自分に合っていると感じ、やろうとしてきた事務の仕事をもう一度選びました。その中でも医療事務というのは、自身が通院した時に高齢者を窓口で対応している様子を見て、そこにある親切、親しみ、やさしさを感じ、興味を持ちました。

また私の母が介護ヘルパーの仕事をしていて聞く話、義理の母が民生委員や習字教室の先生など、地域に根付いたコミュニケーションの中で生活しているので、人との関わりを大切にして、近所の方が来るようなクリニックでの仕事を希望し、今までの経験を生かした事務、温もりのある対応、創造力でも斬新な発想で納得のいく仕事ができるよう頑張っていこうと思います。



こんな感じで、3日間の講習を受けたことにより、今まで整理できていなかった部分がスッキリとしましたし、次の新しい目標が見えてきました。何をしたらいいか分からない、もやもやしている自分を整理するには、自分の経験を順番に書き出して、そこで味わったやりがい、楽しかったこと、悔しかったこと、嬉しかったことなど、気持ちを書き出してみると、何となく、今現在の自分、そして今後何をやっていこうと考える参考になると思うので、是非、時間を設けて、自分の人生を棚卸ししてみることオススメします!

3日間の準備講習

2010-11-30 19:06:03 | ikuEizm

11月末の3日間、職業能力開発センターの医療事務講座を受けるにあたり、母子と女性枠で受講する人は準備講習に参加する義務がありました。最初は、就職支援セミナーと名を打って、自己PR文章を掛けるようになる形式張った感じの話を聞いたり、ビデオを見るものだと思っていて、行きたくなかったし、気が重かったわけです。そんな思い気持ちをかばんに詰め込み、医療事務講座を受けるための義務だから仕方ないと、重い足取りで会場に向かい1日目を迎えました。

周りは、もちろん誰1人知っている人なんかいなくって、慣れない場所。緊張の面持ちで、会場入りします。教室に入って名前の確認をされ、ついつい急性を名乗ると係の男性が表情を曇らせています。それを見て私は慌てて訂正。名簿には、新しい名字の私の名前がしっかりと明記されていました(笑)

集まったのは、年齢、世代がバラバラの女性が25名。

定刻になり、人数が揃わない様子でしたが、開始しました。セミナーの講師は、職業能力開発センターのキャリアカウンセラーの方で、全く壁を感じない、わざとらしくもない、自然でやわらかく暖かみのある中年の女性でした。

まず最初に「教室の前に誕生日順に1列に並んで下さい」という指示。
プロフィールを与えられている訳でもなく、名前も知らない人たち。自分たち同士で声を掛け合って自分の立ち位置を探って行きます。それは、目的がハッキリしている分、協力的であっという間に整列しました。その後、隣同士でジャンケンをして勝ち上がって行きます。そして1番最後まで勝ち続けた人に称号を・・・といって、誰もがしっている有名人の名前が書かれた紙を勝ち続けた人に見せないように背中に貼り、それをみんなからヒントを得て宛てるというゲーム。ヒントを出す人は、YESかNOでしか答えられません。勝ち続けた人の感の良さで大正解!そんな感じで講習が始まりました。

その後、遅れて来た人が到着。申し訳なさそうに教室に入っている人を決して責めることなく、お待ちしていましたと笑顔でお迎えする講師。教室の雰囲気が悪くなることはありませんでした。

続いて、自分が今までしてきた社会経験を紙に書いて、簡単な紹介をしました。自分の今までを見直すいい機会でした。

そして、隣の人と話をして取材、隣の人の紹介をしましょうという課題。自分が相手のことを良く知り、みんなに性格に伝えなければならず、よく相手の話を聞き、しっかり自分の話を相手にする。必要に迫られてコミュニケーションをとります。しかし、不思議と相手のことをスゴく理解できましたし、相手の発表からは、自分の知らなかった一面を知ることができたりと、ずーっと一緒にいるけど、よく知らない友達よりも仲良くなれました。不思議ですね。

2日目は、朝の教室が一気に和やかになっています。昨日、よく理解し合えた人との会話が盛り上がります。

午前は、いくつかのグループに分かれて、コピー用紙40枚とはさみを使って、どこのチームがより高く積み上げることができるかを競争しました。自分の意見を出して、人の意見を聞いて、まとめる。そんな力の訓練だったのでしょう。私がいたチームともう1チームが天上まで積み上げ、同点優勝でした。

午後は、午前のグループで決めた「埼玉県を日本一住みやすい県にする」というテーマで話し合って、案を出し合い、まとめ、グループ発表を行いました。自分が考える意見以外にもたくさんの意見が出て、とても参考になりました。

3日目は、一段とにぎやかな教室。医療事務講座の人とOA事務スペシャリストの2つコースが入り交じっているクラスで、今後の授業が一緒にできない人もいて、一緒の時間を惜しむように話している気がしました。

1日の作業は、自分の自己PRを作成する個人作業でした。講師のアドバイスもいただきながら、今までの経験を整理して、この2日間で発見した自分のことを文章にしていきます。私は、すごくすごく集中して文章を時間内に書き上げました。文章を書き出すとどんどん書けるけど、結局まとまらない私。いつもは、そうなんですが、今回は強い芯が通っている文章を書くことができました。講師も私のことは、何も心配していないと。それを発表して、今回の準備講習が終了となりました。

私は、隣に座った人ともスゴく仲良くなれたし、相手が今までやって来た仕事にも興味を持つことができました。そして、結婚をしたばかりで、周りに結婚している同年代の人が少ないのもあって、日常生活の話、子供の話などたわいもない話にスゴく興味があって、為になったし、楽しかったです。

講師の先生も好感を持って、お別れするのが、とても惜しかったので、連絡先を聞きました。きっと、これから先、出産した後、仕事と育児のことで悩むことが出てくるでしょう。その時に、自分では混乱してわからなくなってしまったことでも先生に聞けば、たった一個のアドバイスでも、ふと気づけるような、気持ちが楽になるような気がするのです。

最後に、講師の先生は「私が老人になったら、あなた達のいる病院に行きたいわ。スゴくいいものを持っていると思うの。2つの気持ちがぶつかり合っている、あなたの将来、きっと素敵なものになるから、2つとも大切にして行って欲しい。将来が楽しみだわ」と言ってくれました。その言葉は、私にとっての宝物で大きな自信と勇気になりました。

この3日間の講習は、混乱した夏を越えて来た私にとって、大きな力になるとても良いものでした。

低空飛行の安定

2010-08-28 08:18:38 | ikuEizm

写真は、26日の夕方に撮影した空。虹じゃないんですけど、雲がの色が分かれていて、なんとも不思議な空でした。

先週の日曜日から色んなことがありました。なかなかパソコンに向かっている時間がないのですが、どうしても残しておきたい出来事&気持ちなので、記します

□日曜日□
珍しく私が日曜日休み。
お父さんが外泊で家にいたので、いい機会。わがままを言って、急にスケジュールを合わせてもらい、彼のご両親がうちの両親に挨拶にきてくれましたご両親が話に聞いて思っていたほど父の様態が良くなく、少し驚いた感じでしたが、挨拶することができてホッとしたようでした。

父は、私がカメラマンを始めた頃から家族写真を撮ってほしいと言っていました。でも私は、どうせ撮るなら、きちんとした格好できちんと残したかったので、「誰かの結婚式に」と撮影してあげていませんでした。しかし、この両親が揃うことが今回の機会を逃したら、もうないような気がして、前日会社に行く電車の中で、兄弟のスケジュールを確認して、全員揃ってデジカメですけど、布団の上でしたけど、並んで撮影しました。

意識朦朧としている父を無理やり座らせて撮影。それでも分かっているようで、「家族写真取るよ。せーの!」と声を掛けるとカメラに一生懸命顔を向けていました。家族5人で撮影した写真は目然がバッチリ来ていて、優しい表情でした。

妹が撮影した彼と私と両家両親の写真を見ると、母の頭の上に、白い光のオーブが写っていました。きっと母方のおばあちゃんが来ていたんだね。なんてがあったりして(笑)

早々に切り上げて、彼氏のお父さんと彼が、ソフトボールの試合に出かけました。私は、またまた空いた午後と、またまた手にした嵐の国立競技場コンサートに行きました。その話は、また今度☆

□月曜日□
通常どおり会社へ出かけました。会社について、頭痛とクラクラするので少し休憩してから仕事を始めました。

□火曜日□
朝早くから健康診断を受けに新宿へ。朝から血を3本も抜かれてヘロヘロになりました。そのまま新宿でお昼まで時間をつぶし、社内の写真の台紙工場を見学。皆さん暑い中で細かい作業をしていて、とても大変そうでした。まず一番に改善しなければならないのではないかと思いました。

夕方からケリーの代々木コンサートに向かいました。食欲もなく、もうすでにヘロヘロのバテバテで、いつものようには、動けませんでした。好きなことですら、思い切り楽しめないなんて…自分の弱さにガッカリしましたグッズもカチュームとキーホルダーが売り切れでバックとうちわがありました。迷ったのですが、結局、購入しませんでした。好きな気持ちが疲労感と無気力感に負けた感じでした。

□水曜日□
昨夜は実家に泊まり、ゆっくり寝ることができました。ケリーコンサート2日目に向かう前に、方向は逆ですが、大宮駅まで、オーダーしたを受取に行かなければならず、早めにグッズに並んで友達が欲しいと言っていたキーホルダーを買えたら買おうと思っていましたが、結局、列に並ぶこともできずに売り切れでした。

家を出る直前に母から電話がありました。入院している父の様態が悪くなったと病院から母へ連絡があったということでした仕事が終わったら病院に母が行って、状況を確認するから、私はコンサートに行ってきなさいと言われ、落ち着かない中、会場入りしました。

今まで好きなことをしなさいと言ってきた父は、私がコンサートを放り出して、病院に言っても喜ばない。コンサートが終わるまできっと大丈夫という確信がありました。そしてきっとケリーのコンサートなら、こんな状況の私にメッセージをくれるはずという気持ちがあったから、コンサートを入ることを決めました。しかしどうしても落ち着きませんでした。コンサート中は大丈夫でも病院に行く途中で間に合わなかったらどうしようとか。

開演頃からコンサート中も不安な母からメールが来て、何度も携帯を広げたりして周りの方に迷惑をかけてしまいました。こんなことなら、最初から入らなければ良かったと少し後悔しましたが、ケリーは「一度しかない人生、光を放て、光輝け!」とメッセージを投げてくれました。その時、もう自力で何かを表現することが難しくなっている父は、もう既に1度死んでいるのかもしれないと思いました。

何か父に聞きたいことがあって話しかけても、もう答えをもらうことはできません。そうなる前に聞きたいことは聞いておいた方がいい。話したいことは話した方がいい。やりたいことはやった方がいい。光輝くことはもう難しくて、人生の幕を閉じる準備をしている。そんな父が何を思っているかなんて分からなくて、必死に痛みや苦しさに耐えながら、ひと呼吸ひと呼吸を繰り返す。普段私たちは、なんの意識も苦労もせず、呼吸することができるのに。

ケリーのコンサートは、最後までいることができませんでした。もう居ても立ってもいられなくなって、アンコールで会場を後にして病院に向かいました。一緒にいた友達にも迷惑をかけてしまいました。

病院に到着すると、酸素ボンベから供給される酸素を取り入れるため、鼻につけるチューブを口で呼吸しているので、口につけていました。絡んだ痰を上手に出すことができず、ゴロゴロいいながら呼吸をしていました。痰のつまりで呼吸が苦しくなると、吸引します。その吸引がのどの奥まチューブを入れるので、苦しくて動けない父がもがいていました。母の腕をギュッと握って耐えます。そんな様子が一晩中繰り返されました。

私たちは、そのまま病院で朝を迎えました。

□木曜日□
私は、仕事だったので、彼に帰りがてら、八潮駅まで送ってもらうことになり、病院を後にしました。車で走っている途中、車酔いと疲れのせいか、もうどうにもできなくなるほど息苦しいし、頭痛もするし、おまけにお腹までいたくなってきました。早く横にゴロンとしたくて、結局八潮駅で電車に乗ることはできませんでした。彼の実家で、過呼吸になってパニックになって、落ち着いた所で寝て。彼に起こされると、母から父の様態が悪化したと連絡が入ったということで、シャワーを浴びてご飯を少し食べてお昼過ぎに病院へ向かいました。

もうついにダメかなと思ったけれど、血圧が落ちたところで安定。何とも低空飛行で安定しています。しかし、果実に弱って来ています。母が親戚に連絡すると次から次へ駆けつけてくれました。父は話していることは分かるので、一生懸命反応を返します。目をパチッとしたり、手を握ったり。40年の付き合いがあるいとこのおじさんが話し掛けた時が一番大きな反応を示していました。

大勢が病室に居て、この人たちがみんな帰ってしまったら、寂しがりやの父はどうなってしまうのだろうと考えると、時間が過ぎて行くのが怖くて、私はまた調子が悪くなりました。私たちも帰り、明日の仕事に備える予定だったのに、また病院に泊まってしまいました。看護師さんにも心配されてしまいました。

母が夜、一旦家に帰ったので、妹と彼と3人で朝を迎えました。

□金曜日□
今日は、ゆっくり会社に行くことにしました。
お昼頃、父の古くからの友人が、母から連絡を受けてやってきました。変わり果てたその姿にがっかりしていました。父は、昨日ほど反応がなくなりました。痰を取る時もあまり抵抗しなくなりました。確実に近づいて来ているような気がします。

二晩、父の病室で過ごして、色んな人が会いに来てくれたのを見て、私は以前から、父を親だと思えないと言っていましたが、父は父なりの方法で親をやっていたんだなと思いました。ダメな親も子供を成長させることができるんです。一概にダメかどうかもわからないですけど。でも私から見た父は、手本にならないたよりにできないダメな親でした。しかし、そんな父の様子を見て色々考えさせられる、そうやって父は子育てをしているのではないかなと。思たことを父の意識のあるうちにと思い、病室で言葉にしました。特に反応はなかったけど、何を思ったのかな。きっと元気でも、私の話に応えなんてくれないと思うし。

そして私は、仕事に向かいました。

職場で父の話をしました。みんな真剣に聞いてくれました。涙ぐんで聞いてくれた人もいます。そして私は、仕事をやめる決意を伝えました。

今までは、「自分による自分のための人生」を基準に好きなことを選んで好きなようにやってきましたけど、それではもうダメで、「自分による人のためになり自分のための人生」でなければならないなと思い始めました。

自分がやりたい気持ちをいくら貫いても、体がついてこない、周りに心配をかける、周りが私の仕事ばかりを優先してくれる、そんな状況であってはならないと思いました。

あと理想は元気で、周りが私を見て、明るい気持ちになったり、元気になったり、やる気になったり、楽しくなったり、そんな人になりたいと私は思いました。仕事は、しばらく休憩して、また自分の体の負担にならない程度で楽しみややりたいことを見つけて行けばいいと思います。それまでちょっとお休み。

今まで働くことが当たり前で、好きなことを仕事にすることが条件だったのに、それに比べてずいぶん変わった選択をするようになったなと変わった自分を実感しました。

という感じで、考え方も状況も大きく変わった1週間だったような気がします。
それと、最後に。
まだ父に伝えてないひと言があります。まだ「ありがとう」と言えていません。
まだこの言葉を父に伝える勇気がありません。だって、そんなこと娘に言われてしまったら、肩の荷がおりてしまうでしょ。

へそ曲がり

2010-08-16 21:10:29 | ikuEizm

寸志に込められる意味として「少しばかり」や「心ばかり」と、ささやかな気持ちを表します。

私は、へそ曲がりです。こういった形で表される人からのささやかな気持ちを受け取るのですが、実は自分の中ではスゴくプレッシャーになっていたりもします。これに見合うことを私はできているのだろうか?出来ていないとしたら、これからへの期待なのではないか?そんなことがグルグルしてしまいます。

いつから素直に喜べなくなってしまったのだろう・・・。

最近、今までの自分と変わって来ていることをマジマジと実感することが多く少し寂しい気持ちになります。


父親

2010-07-08 14:23:46 | ikuEizm
このブログにも色々書いたこと(→)がありましたが、私は、父親のことを今まで、「人の良くない手本」として、絶対にそうなりたくないと思って生きてきました。

家族が小さな頃からずっと住んで来た家を出て母の実家に引っ越したけど、そこで上手く行かなくなった時、私は父に父が働いて生計を立てて皆と生活して欲しいと泣いて頼んだ。声は届きませんでした。結局、妹達が働き出すまでの4年間、私がその穴埋めをしました。一家の柱のなるべき人が役割をなしていない。私にとって一般的な父親像というものは欠落しています。

その父親が肺がんでそう長くないようです。

※ココからは、私の父親の死について記しています。
決して明るい話ではありません。興味のない方はご遠慮ください。


今まで、家族がバラバラに暮らすようになった私が19歳のころから、働きもせず、食事もとらず、毎日ただ酒を飲む死を待つような日々を送る父親。

どうせなら、早く死んでしまえばいい、どうでもいいと思っていました。吐血して苦しんでいる姿を見ても自業自得でしょなんて、なんとも思っちゃいなかった。

しかし実際に、主治医から残りの命が残りわずかと聞かされ、いつ急変してもおかしくない、もし、そのときがきたら、延命処置はどうするかなど、確認されると、たまらなくなりました。母は、延命処置はしないで下さい。本人が苦しくないようにして下さいと言っていました。もうそうしてきたのだから「仕方ない」と母は自分自身に言い聞かせているようでした。娘として意見は?と聞かれ、私もそれでいいと答えました。

父親は、どんな父親でも父親でした。

私の小さな頃から、父と母はケンカばかりしていた、子供以外の家族嫌気の差している母。その愚痴を聞きながら育った私。なぜ母が父と離婚しないのか不思議でならなかった。

私が20歳を過ぎると、ヒステリックになっていることもあるけど、よく見ていると、母は父のことが好きなんだなと思う瞬間も見えてきました。

この先、父親は、遅かれ早かれ亡くなります。
肺のがんの腫瘍からの出血で急変した場合、病院にいてどんなに医師の対応が早くても助からないそうです。
窒息死です。地球上にいるのに息ができないなんて、どんなに苦しいのでしょう。想像するといたたまれません。

でも私は窒息死って一定のところまではもの凄く苦しいけど、一定のラインを越すと眠りに襲われると思います。その睡魔の先に死があるような気がします。その睡魔に襲われている時に人生の思い出を走馬灯で見るのかな。

その時、私は、ただ見ているしかできないのかな。
今、父にしてあげられること、なんだろう。

私がカメラマンになった頃から、父親は、家族写真が撮りたいと言っていました。
でも私は、撮ってあげていません。
撮ってしまったら、父親の少ない生きる糧がなくなってしまうような気がして。
誰かの結婚式で、皆が綺麗な格好をして笑っている姿でね、と。
それまで、持つのかな。

電車の窓に映った疲れ切っている自分の顔を見て、あー父親の顔に似ているなと思ったりして。


どうしてこんなことをブログに記すのか?

「綺麗ゴト」
綺麗な物に囲まれて生きてた方がHAPPY☆じゃん!

読んで気分がHAPPY☆になれるような記事を集めたいと思って書き続けているこのブログ。
そりゃHAPPYなことばかりある人生の方が素敵かもしれない。
でも、HAPPYの裏側には必ずUNHAPPYが潜んでいることを忘れてはならない。
人生、誰にだって苦しい時期があると思います。
その苦しいのは、ずっと続くわけじゃない、あなただけじゃない。
その分、HAPPYの時に人は輝けるんだと思います。

EndlessSHOCKのコウイチのセリフにこんな言葉があります。
「俺達はひとつ苦しめば、ひとつ表現が見つかる。ひとつ傷つけば、またひとつ表現が作れる、ボロボロになる。…そのぶんだけ輝けるんだぞ」

役者ではないので、しっくり来ない部分もありますが、少し共感できる言葉を最近聞いたので。

この記事は、読んでいただいて、何らかのメッセージが伝わると思ったので、公開しています。
そして何より、これからの自分の為に文書にしました。
今までの文章だって、未来の自分の為に書いています。もしかしたら、このブログを一番読んでいるのは未来の自分なのかもしれません。