テケの日記帳

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JR東海さわやかウォーキング 山岡鉄舟の命を助けた望嶽亭

2020年01月26日 17時29分14秒 | 富士山と その周辺観光とグルメ
JR東海さわやかウォーキングで静岡市清水区にある興津駅~薩埵峠~由比駅のコース(2019年12月15日)をウォーキングというよりのんびりと散歩した話です。

過去記事
JR東海さわやかウォーキング 興津駅~薩埵峠 編  
JR東海さわやかウォーキング 薩埵峠~由比宿 編 1/2
JR東海さわやかウォーキング 薩埵峠~由比宿 編 2/2

興津地区と由比地区の境にある薩埵峠を越えて由比の倉沢地区にきました。坂を下り終えて道が合流しているところに望嶽亭(ぼうがくてい)があります。



説明看板を転記しておきます。
『間の宿(あいのしゅく) 藤屋 薩埵峠の東登り口に位置しているところから一名を坂口屋といわれ、本来は藤屋と称して茶店を営み、磯料理、あわび、さざえのつぼ焼きを名物としていました。 ここより富士山の眺望がよいので「望嶽亭」と称し、文人墨客が好んで休憩したといわれています。』

由比宿から興津宿までのあいだにあるから「間の宿」って言うんだね。昔はもっと規模が大きくて脇本陣でもあったそうです。

【望嶽亭藤屋 地図】住所:静岡市清水区由比西倉澤84-1



歌川広重が描いた「望嶽亭」のチラシをもらったので載せておきます。絵の右下の看板には「名物 さざいの壺焼」と書いてあるように見えます。室町時代にはすでに茶店として知られ、富士を見ながら食べるサザエ、アワビは旅人のあこがれだったようです。賑わってますね。二階でくつろいでいる二人の男は『東海道中膝栗毛の弥次さん喜多さんである』と言われています。

ここで、ちょっと余談ですが『東海道五十三次』は、歌川広重による浮世絵木版画で1832年に江戸から京都へ御所に馬を納める御馬献上の公式派遣団の1人として、東海道を旅して数多くのスケッチを描き、家に帰りつくと広重はすぐに『東海道五十三次』の作製に取り掛かり、第1回目の版を出したといわれています。

でも、最新情報では幕府に公式派遣団への同行を命じられたとされる以前の1832年3月には、隠居していることが判明し、同行は不可能と考えられているそうです。実際には東海道を旅しておらず、以前に描かれた「東海道名所図会」の挿絵などを模写し、『東海道五十三次』の浮世絵を製作したという説が有力ですって。石に変更されたはずの三条大橋の橋げたが200年前の木製のままになっていることなどが理由だそうです。

広重は13歳のとき父から火消同心職を継ぐわけですが、現代のように気軽に旅に出れるわけでもないし、東海道を弥次喜多道中のように個人で旅するのは命がけだったようですし、まして火消をやってたら江戸を離れられなかったでしょうね。。

ところで、東海道五十三次の望嶽亭藤屋の絵は1832年あたりで出版されたとなっているので、1854年に発生した安政東海地震の前ということになり、巨大地震で海底が隆起する前の絵ということになりますね。海底隆起後は砂浜ができたそうです。(安政東海地震は、駿河湾西側および甲府盆地では軒並み震度7と推定される江戸時代後期の嘉永7年11月4日(1854年12月23日)に発生した東海地震です。)

前置きが長くなってしまいましたが、さあ、中へ入りましょう。^^;


この日はさわやかウォーキングの人々でごった返していました。現在は23代当主の長女、手塚喜和子さんが管理してくれていますが、他家に嫁いでいることもあり予約が必要になります。でも、一人でも予約が入ると午前10時から午後3時まで無料で開けてくれているそうです。とても熱心に説明してくれる方で、次回も参加して今度はじっくり話を聞きたいと思う。市からは一切援助を受けないで、喜和子さんと兄弟で切り盛りしてくれているようですが将来もなんとか存続していってほしいですね。


とにかく歴史が古いので史料がたくさん!


誰の書なのかわからないけど撮ってみました。^^;


窓からJR東海道線や東名高速道路が見えます。その窓際の廊下を右へと進むと蔵座敷があり、入口には、厚さ二十センチ程の漆喰で固められた頑丈な両開きの扉がついています。蔵座敷は江戸時代に増築された一番新しい建物ですって。(入口撮り忘れました。。)その蔵座敷が山岡鉄舟の命を救った要の舞台になります。山岡鉄舟の命を望嶽亭の当主が官軍から守った話は新聞記事などでサラッと知っていたのですが、今回改めて調べてみるとホント、劇的な救出劇だったことがわかり感動しました。


蔵座敷の中にも史料がいっぱい。みんな興味津々で見てました。


写真禁止の張り紙があったので聞いてみると、鉄舟の置いていったピストルを写さないように警察から指導があったからだそうで、他は撮って良いと言われました。でも、ネットには出回ってる。。。これ以上、悪人の目に触れないようにって言う思惑なのかもしれません。。

ここから山岡鉄舟が徳川慶喜の意をくんだ勝海舟の命で江戸を発ち、途中で望嶽亭の主人を通じて命辛々(いのちからがら)、官軍の追手から脱出し駿府の西郷隆盛と会見するまでの話をしたいと思います。

山岡鉄太郎(鉄舟)

山岡鉄舟人物談
西郷隆盛から「金もいらぬ、名誉もいらぬ、命もいらぬ人は始末に困る」と言わしめた人物で「始末に困る人なければ、共に天下の大事を誓い合うわけにはいかない」と高く評価した。西郷と勝海舟の江戸城明け渡しの会談にも同席する。貧乏な旗本出身だが、剣・禅・書に通じた無私無欲な侍であった。

江戸無血開城 山岡鉄舟中心要約
 鳥羽・伏見の戦いに敗れた徳川慶喜は、恭順の意思を固め上野寛永寺にて謹慎生活を送っていたが、新政府幹部に赦免の嘆願書を送った慶喜に対して新政府側の強硬論者である西郷隆盛は、慶喜の切腹と徳川家討伐を強く主張していた。
 当時、慶喜から全権を委ねられていた勝海舟は、イギリス公使 ハリー・パークスが内乱による日本市場の混乱を恐れていることを知り、パークスから新政府への圧力を掛けさせ、一方で、幕臣精鋭隊長の山岡鉄太郎(鉄舟)を駿府に赴かせることとした。
慶応四年(1868年)3月5日 
 山岡は西郷を知らないこともあり勝に面会する。勝と西郷は旧知の仲であり、滞りなく西郷に面会できるようにと書状を持たせる。会った後帰宅。
3月6日
 早朝、山岡は薩摩藩士の益満休之助(幕府方により逮捕され処刑される直前に勝に身請けされていた)を同伴して江戸を発ち、西の駿府に向けて出発。品川、川崎、小田原と官軍の陣中を益満のおかげで捕らえられず箱根に着いた。しかし、益満が体調を崩したため、ここで別れ、駿府での再会を約束して山岡は単身で駿府に向け出発。
3月7日 
 山岡は深夜、薩埵峠までくると官軍に追われ引き返し危機一髪で望獄亭の当主に助けられ、蔵座敷で漁師に変装、隠し階段より脱出する。詳しい話は山岡鉄舟の危機を救った藤屋・望嶽亭 のサイトで知ったのですが、とてもリアルに官軍・山岡・望獄亭の情景が表現されていて参考になりました。しかも、海から船で脱出したときに清水次郎長が関わり望獄亭当主と子供の頃から縁があったなんて不思議な因果を感じます。
 次郎長についてはコチラ⇒清水次郎長 その後半生の偉業に敬意を表します
 

蔵座敷の隠し階段。普段、置床(おきどこ)が置かれている下は木の引き戸になっていて、畳をはずしてその引き戸を開くと地下につながる階段があります。ここから山岡鉄舟は官軍の魔の手から逃れたと思うと感慨深いものがあります。


置床に敷かれている半畳のタタミは見学用に立てかけてありました。

3月8日
 山岡は清水湊の次郎長宅で静養。

3月9日
 山岡は次郎長の警護と道案内で厳重な警備の官軍の目を逃れて無事、駿府城下に入ると西郷との会談を求める。西郷は勝からの使者と聞いて伝馬町の松崎屋源兵衛宅で山岡と会見を行い、山岡の真摯な態度に感じ入り、交渉に応じた。
 このとき、箱根の関所で別れた薩摩藩士の益満とはどの様に落ち合ったのか不思議だったので調べたらはっきりしなかったのですが、山岡・益満・勝との関係や箱根から駿府の間の行程について興味深い考察が書いてあるサイトがあったのでリンクしておきます。⇒随行する薩摩藩士・益満休之助/江戸城の無血開城を実現した幕末の偉人「山岡鉄舟」の生き方を学ぶ研究会
 それでは、有名な山岡と西郷の会見内容をウィキの抜き書きで紹介します。
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山岡鉄舟 - Wikipedia

3月9日、益満休之助に案内され、駿府で西郷に会った鉄舟は、海舟の手紙を渡し、徳川慶喜の意向を述べ、朝廷に取り計らうよう頼む。この際、西郷から5つの条件を提示される。それは、

一、江戸城を明け渡す。
一、城中の兵を向島に移す。
一、兵器をすべて差し出す。
一、軍艦をすべて引き渡す。
一、将軍慶喜は備前藩にあずける。
というものであった。このうち最後の条件を鉄舟は拒んだ。西郷はこれは朝命であると凄んだ。これに対し、鉄舟は、もし島津侯が(将軍慶喜と)同じ立場であったなら、あなたはこの条件を受け入れないはずであると反論した。西郷は、江戸百万の民と主君の命を守るため、死を覚悟して単身敵陣に乗り込み、最後まで主君への忠義を貫かんとする鉄舟の赤誠に触れて心を動かされ、その主張をもっともだとして認め、将軍慶喜の身の安全を保証した。これによって奇跡的な江戸無血開城への道が開かれることとなった。
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 江戸城総攻撃まであと6日というギリギリのところで、勝海舟と西郷隆盛の会談により『江戸無血開城』が決定、慶喜公の切腹処分がまぬがれることになった前段として命を懸けた山岡鉄太郎と西郷隆盛の駿府会談があったのです。


駿府(現、静岡市)上伝馬町の松崎屋源兵衛宅で山岡鉄舟は東征軍大総督府参謀の西郷隆盛と会見し交渉・妥結し、勝海舟・西郷隆盛の正式な会談に実質的な道筋を付けました。写真は、上がペガサート横の「西郷隆盛・山岡鉄舟会見の碑」。下が隣のホテルシティオ静岡で、外壁には会見場所として内容を紹介した説明板があります。現在は繁華街の一隅で当時を偲ばせる景観はなくモニュメントが残るのみですが、それでも歴史ファンであれば訪れたい場所ですね。詳しい内容はコチラ⇒西郷隆盛・山岡鉄舟会見の碑 | 静岡・浜松・伊豆情報局

【山岡鉄舟・西郷隆盛の駿府会談場所 地図】住所:静岡県静岡市葵区御幸町3-21


ここまで、長文読んでいただきありがとうございました。

PS:未来記事へリンクJR東海さわやかウォーキング 由比駅ゴール 編

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