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おらほの街河辺雄和のいいとこ発見 ~「相川地区」の歴史に学ぶ~

2020-05-30 15:05:15 | 日記
雄物川の下流左岸に位置する相川村(現秋田市雄和相川)は、戦国末の記録「出羽国秋田郡御蔵入目録写」(天正19年(1591))に、「七百六拾五石壱斗八升三合鮎川村」として搭載されている古い村である。
同村ははじめ秋田実季(さねすえ)の領地であったが、天正18年(1590)太閤検地の結果、一時豊臣秀吉の蔵入地(直轄地)に組み入れられ、秋田実季が委託管理していた。
その後関ヶ原の合戦があり、慶長7年(1602)佐竹慶宣が常陸国から秋田に移されるに及び、その支配下におかれた。

佐竹氏は地方知行制(じかたちぎょうせい)(藩士の禄高に応じて土地・百姓を給付す知行形態)をとり、相川村ははじめ佐竹氏の家臣大塚資郷の知行地となった。ところが大塚資郷が重税を課したので百姓が苦しみ元和7年(1621)2月、藩の蔵入地にしてほしいと訴えた。これへの藩の重臣梅津政景の処理がよかったので、大塚資郷も相川村百姓も納得し大事に至らなかった。これが原因となったのか、その後相川村は佐竹家の一族、佐竹北家(明暦2年角館の所領となる)の知行地に給地替えとなり、以後幕末まで角館佐竹家の支配を受けた。

村役人としては肝煎と長(おとな)百姓がおかれた。
肝煎は村の代表者として、藩庁や給人の命をうけて、法令伝達・年貢納入・戸籍改・宗門改などをおこなうほか、村普請(土木工事)・山林保護・農事奨励・検見立会・訴訟仲裁など村政全体を司るなど、藩行政の末端として、また、村落共同体の指導者として重要な役割を果たした。肝煎の選出には藩から指名される場合もあったが、村方の推挙によることもあった。
長百姓は別に組頭ともいわれ、有力農民の中から選ばれ、肝煎の補佐役として村政の重要事項に関与した。
このほか相川村には山林の保護を担当する山守(やまもり)と、藩境監守にあたる拠人(こにん)がおかれた。

相川村で代々肝煎を務めた徳右衛門家の当主が代々書き継いできた記録「萬日記」には、慶長7年(1602)佐竹義宣の秋田入部から書き起こし、寛政10年(1799)まで、約200年間の村政、藩政の重要事項が記録されている。
記録には、検知、用水池修理、水野目林保護、作食米願、年貢上納、村の治安維持、家中騒動、制札交付、水害復旧、洪水救済、井戸掘、貨幣交換、代官交代、給人屋敷修理、村内人事、久保城火災復興、寺院建替、隣村との紛争処理、祭礼執行、肝煎交代、不正事件処理など多岐にわたり、秋田藩近世村落史研究上の貴重な史料となっている。


出典:雄和町教育委員会・雄和町立図書館発行「雄和町史料集1 相川村 萬日記」