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おらほの街河辺雄和のいいとこ発見 ~「女米木地区」の歴史に学ぶ~

2020-05-26 23:23:41 | 日記
雄物川下流の左岸に位置する女米木地区の歴史は、信仰の山「高尾山」の歩みと深い関係を持っているようです。
地元に伝わる「高尾山縁起」によると、高尾山は奈良時代の霊亀元年(715)に百合若大臣が開基したと伝えられている。しかし、確かな証拠があるわけでなく、詳しいことまでは分かっていない。
鎌倉、室町時代から戦国時代にかけて、「高尾山」は山伏、修験の霊場として知られるようになり、その麓に集験の寺、大王寺、大覚院、金剛院などが修験の寺として、つぎつぎに建立され、ある時期には女米木村そのものが、高尾山の所領となったこともあったようです。
「女米木」の名が記録の上に現れるのは、戦国末期の天正10年(1582)のことで、秋田地方の領主安東愛季(ちかすえ)から、横手城主小野寺氏に宛てた書状の中に「目々木」と記されているのが初見となります。
天正19年の出羽国秋田郡御蔵入目録写(秋田家文書)には、886名の村高をもち、太閤蔵入地に指定され、秋田実季(さねすえ)がこの村の管理に当たっていたことが記されている。
関ヶ原合戦以後、秋田氏に替わって佐竹氏が入部し、その支配下におかれ、正保4年(1647)の出羽一国絵図には「米木村」とあり、周辺の村々の中ではかなり大きな村高の村だったようです。

女米木村はうしろに高尾山を主峯とする広い山地をもち、江戸時代には国見・鳥越・岩出殿・木置場など四ヵ所は、運上山(利用料を上納して薪や草を刈り取っていた山)に指定され、山を監視するための山守もおかれていた。

国境に近い村だったため、東は小川を境に亀田藩繋村と接し、南側は高尾山から太平薬師にかけて、同じく亀田領君ヶ野村、滝俣村、名ヶ沢村とも接しており、延宝期以降しばしば境界争いが生じた。
特に宝暦年中(年次不詳)には、君ヶ野村との間に境争いが激化、両村民が山刀や鎌をふるっての大乱闘となりけが人の出る事態になりました。
その後も寛政7年(1795)、享和2年(1802)、文化2年(1805)にも紛争が発生、境界争いはとどまるところを知らなかった。
しかし、文化10年(1813)、幕府の助言もあり、秋田・亀田領藩の間に和解が成立し、関係する村々の間に境塚築立の話し合いが進み、以後大きな争いはなくなりました。

村の取りまとめ役として、肝煎(きもいり)と長百姓(おとなひゃくしょう)が置かれていました。
肝煎は村の代表者で、藩庁や給人の命をうけて年貢納入や宗門改を行うほか、村普請、山林保護、農事奨励、それに村内の争いごとの取りまとめをするなど、村政全体を司り、責任の重い職務でした。
長百姓は、組頭ともいわれ、有力農民の中から選ばれて、肝煎の補佐役として村政に関与しました。
百姓惣代は一般百姓の代表として、肝煎・長百姓の行う村政が、一般百姓の利益に反しないよう監視する役目でした。
このほか、山林保護にあたる山守(やまもり)と、藩境の監視にあたる拠人(こじん)も置かれ、村の要職とされていました。

幕末期から明治20年代にかけて、女米木村の旧家である藤原家の当主であった富吉氏が保存した地域の故文書・古記録の保存が残されている。
その中には、自ら記した戊辰戦争の記録のほか、佐竹藩政とその治下の村の動向に関するものや、亀田藩との境界紛争に関する記録などが含まれており、単に雄和町のみならず、秋田藩の歴史を考えるとき、重要な手がかりを与えてくれている。
また、女米木村の旧家で近世初期から肝煎を務めた安藤家の文書では、秋田・亀田両藩の境界争いに関する古文書や、漆木に関する調査報告書、村役人に対する辛労免、扶持米の書上、高尾山神社再建願等々が残されている。ほかにも村政に関わる数々の古記録、古文書が保存されていたはずだが、天明6年(1786)10月29日夜、居家が火災に遭い、多くの文書が失われてしまった。


出典:雄和町教育委員会・雄和町立図書館発行「雄和町史料集3 女米木村 藤原家文書」「雄和町史料集6 女米木村 安藤権三郎家文書」