私の町吉備津

岡山市吉備津に住んでいます。何にやかにやと・・・

吉備と「新羅」の係わりが・・・(2)

2019-12-06 09:05:11 | 日記
 昨日「新羅」について書いたのですが、では、我々の住む「吉備国」も「新羅国」というより朝鮮半島と深く係ったと云い伝われております。少々これ又私論ですが書いてみます。
 
 昨日見て来たように「朝鮮」と「倭」とは「鉄」を仲立ちとして「ヤマト」に倭の政権が出来るまでは「筑紫と出雲」が日本の中心的な位置にあったことは、記紀などの文献からも、イザナギの禊した「ツクシノアハギハラ」やスサノウの大蛇退治の物語からも伺われ、確かです。
 そのおこぼれ的な位置にあったのが「我 吉備の国」です。その証拠となるのが同じ町内にある「高松」の高塚遺跡からも出土しております。

  

 銅鐸や貨泉です。2000年前に既にこの地方に多くの朝鮮半島や中国から渡来した人々がいた証拠です。
 さらに、此の地区はかっては「賀陽郡」と呼ばれていたのですが、当時、朝鮮の「金官加羅国」からの人々がこの地方に渡来した人々が住んでいたと云うことから「加夜<カヤ>」と呼ばれていたのが、後の世になって「賀陽」に変わったと言い伝えられています。これもこの地方が朝鮮半島と深い関係にあったことを窺わせるに十分なる言い伝えだと思います。 また、高塚遺跡のある場所の近くに「原古才<ハラコサイ>」と云う字名のついた所がありますが、この<ハラコサイ>は、元々古い朝鮮語で、「船着き場、湊、上陸する場所」などの意味があり、朝鮮から舟が着いて、そこから上陸した場所だ」と云う意味があるのだと古老の人が話しています。それもまた、この地方と朝鮮との深いつながりを感じさせるものの一つであることは確かです。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿