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同窓会だより

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太平洋戦争と私(07)  〜 坂田 健太郎 〜

2020-08-26 11:18:48 | 太平洋戦争と私
今田様

父の周囲の人々の考えは、むしろ東京転勤は死のリスクが増えることと考えていました。 当時満洲は中立国で"日本"ではないという理由で、平和でした。物資も不足していませんで した。
父の「幸運」というよりは、当時は父の「不運」と考えられた訳です。 ところが、ソ連軍の侵入の結果、父の後任者はソ連軍に抑留されて、シベリアへの途中で自動車事故で亡くなられました。 
父は”予想通り”に3月10日に東京で大空襲にやられました。父と叔父(深川区、本所区)の三人とも自宅は焼失してしまいましたが、幸い無事でした。

客船(大阪商船の「黒龍丸」)の運行は辛うじてありましたが、米軍の潜水艦による攻撃を警戒して対外的には出帆は極秘で、電話で出港を通知がきたら1時間以内で乗船できるところに待機しなくてはなりませんでした。航路も、夜間は潜水艦魚雷攻撃を逃れるために、朝鮮半島沿岸近いところを迂回する始末です。魚雷攻撃を受けても乗船客の一部を救助ができるように考えてのことでしょう。 
おかげで「大連ヤマトホテル」(今でも建物は残っている)で優雅な1週間のホテルライフを過ごしました。

太平洋戦争と私(06)  〜 今田 寛 〜

2020-08-24 12:41:51 | 太平洋戦争と私
今回は、私の戦時中の思い出ではありません。これはまた別途。稲垣君(住所不明)と清水君、ことシミキン(故人)に関わる戦争がらみの話です。

実は私はいま、現役時代に長く住んだ上ヶ原の家の片づけをしていますが、 その中で添付のような手紙が出てきました。いつどういういきさつで頂いた手紙かは定かでありま せんが稲垣君からの手紙です。多分昭和53年に『最後の満洲 錦州終戦前後』という本が出版され ていますが、以下のような理由で、その本に関連しての手紙だと思います。

稲垣君は満州からの引揚者で、私の家内の家族と同じ上陸用舟艇で、中国大陸から苦労して引き上げてきました。添付の彼の文には、終戦後の満州での苦労と、引き上げの苦労が端的に表われているのではないでしょうか。私の家内も決して当時のことを語りたがりません。子どもの心に刻み込まれた大きな傷のようです。それにともない (今時怒られるかもしれませんが) 拭いようのない人種偏見が残っているようです。私の家内の父親と稲垣君の父親は、 錦州市の引き上げ団の団長と副団長だったようで、昭和21年6月に引き上げてきました。彼の文から、複雑な思いが伝わってきます。
 
   

一方シミキンの方ですが、彼は長く神戸栄光教会(関学誕生の母体)で聖歌隊を指揮していましたが、私の義理の兄(北村宗次)が同教会の牧師を長くしていた関係もあって、彼の葬儀には出席しました。その時の牧師の話で初めて知ったことですが、彼は神戸の空襲から避難している最中に危険な状態になり、お母さんが彼の体の上に被さって彼を守り、お母さんは亡 くなったということでした。誰か聞いた人がいるかもしれませんが、我々の仲間の中にも、人にしゃべりたくない、思い出したくもない戦争経験をもつ人がいるのかもしれません。よくも当時の大人は、あんなアホウなことを始めたものですね。

                  今田 寛

太平洋戦争と私(03)  〜 長久 愛根 〜

2020-08-22 15:41:12 | 太平洋戦争と私
(前文)
パソコンもない、ファックスもないというので、長久愛根君は近況連絡リレーに参加していませんでしたが、 このほど手書きの「国民学校時代の思い出」送ってくれました。「大変努力して書きました」とありましたが 苦労の跡が見受けられます。それをワープロで書き換えたものを送ります。文中に出てくる長久君の父上は、 言わずと知れた長久牧師です。なお彼は、皆さんの近況報告が見ることができないのが残念、何とかならない かと電話で嘆いていましたが、彼はスマホをもっていてラインというのもやっていると言ってました。 
                  今田寛
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「国民学校時代(1941年から1947年)の思い出」
                  長久愛根
国民学校一年生から二年生の途中まで、山口市後河原のきれいな「一の坂川」の近くで生活しました。
水泳はできないが楽しく遊んだきれいな小さな川でした。上流には有名な国宝の「瑠璃光寺五重塔」があります。
本年4月懐かしい山口へ久しぶりに旅することになって いましたが残念ながらコロナのせいで中止することになりました。

 国民学校二年生の途中から父親の職務の関係で西宮市に住むことになりました。その時に父親に陸軍招集、中国への通知が来ました。そこで住居は母親の故郷、三重県内城田村に代 わりました。そして内城田村国民学校に転校しました。 非常に楽しい時を過ごすことになりました。都会から来た男にみんな一目をおいていました。 私は調子にのって毎年6年生まで級長に任命され、大変楽しく過ごしました。当時喧嘩で一 番強いと言われていた同級生のY君を或る時殴り倒し、私が一番強い男となりました。 しかし父親が居ない生活が大変寂しい状況でした。父親は中国で陸軍少尉として活躍しながら息子の私のことが大変気になって非常に多くの手紙が来ました。その一部を紹介させて
いただきます。

(一)「とうちゃんが しゅっぱつするとき ひろしままで見おくってくれて ありがとうあれから大きな船にしなに来ました せんそうにまけたしなの人は かはいそうなせいかつをしてゐます それでも小さいこどもが大きなにもつをかついで よくはたらいてゐるのはかんしんです よっちゃん(愛(ヨシ)根(ネ))もよくおてつだいをして 又よくべんきょうをして 下さい とうちゃんもげんきで よいてがらをたてたいとおもってゐます」

(二)「このあいだ 中国(ゴク)のけうかいの にちえう學校に行ってきました。ちょうどクリス マスのおいはひがあって子供達(タチ)がじょうずに うたをうたってゐました。とうちゃんが英語(エイゴ) でお話をしましたらけふかいの先生がそれを中国語でみんなに話してくれました。 けうは雨がふってゐます。こちらはまだ雪はありません」 

(三)「今日は支那事変きねんの日です 山口にゐた頃 毎日たくさんの兵隊さんをえきまで おくったのをおぼえてゐるでせう もうあれから六年になります そして今では日本軍は支那 だけでなく南洋ビルマ 北はアリュウシャンまで廣はんゐにわたって戦争しては勝ってゐます これからまだ長くつづきます よっちゃんもからだをぢょうぶにして よい兵隊になってください」

当時私は予科練を目ざしていました。
父からの手紙はこれで終って再び三重時代の私の行動の一部を申し上げます。 住宅のすぐ横が大変綺麗な宮川です。夏は毎日泳ぎました。 そして魚取り、鮎(アユ)、鰻(ウナギ)、蟹(カニ)、鯎(ウグイ)、 鮠(ハエ)等々を大変楽しくやりました。又肉類は自分で飼っていた鶏、兎を自分で処理し、味しくいたゞきました。現在カラオケで必ず唄っている歌「旅姿三人男」はこの時に唄っていたのです。 大変楽しく過ごした国民学校時代の宮川へ帰り度いと願っている日々です。その願っている時は32年先108歳の時です。遺言「墓は要らない、遺灰は国民学校時代に戯れた綺麗な宮川に散灰骨するように」と。
「愛に根ざして楽しんで笑って八十六歳 そして美しい百八歳へ」
* ☆ ☆ ☆ ☆

太平洋戦争と私(05) 〜 原 淳 〜

2020-08-22 15:16:16 | 太平洋戦争と私
坂田さん

豊橋の方が浜松の艦砲射撃より遅かったのですね。ところで、僕は長くなるので書きませんでしたが僕が袋井を離れたのは19年11月末、その翌12月の初めに東南海大地震が 起きて僕が通っていた国民学校の校舎は母親の通っていたころと同じ古い木造だったので 敢え無く崩壊し、担任の先生は下敷きになり殉職、同級生も多数が亡くなりました。僕は父親の勘(情報?)で艦砲射撃を逃げたつもりが地震に間一髪で逢わずに済みました。後年、新三菱に入社したとき指導員になった仁はその頃、名古屋一中生で勤労動員で三菱航 空機のゼロ戦工場で勤務中だった由。この地震で工場が全壊し「これで戦争は負けた」と 仲間で言い合っていて教師にひどく叱られたと言っていました。豊橋も地震で被害があったのじゃないですか?

僕が入学した難波国民学校よりも立花は古い伝統校だと聞いていました。市役所もその頃 は立花にあったと記憶しています。

                   原 淳

太平洋戦争と私(04) 〜 坂田健太郎 〜

2020-08-22 15:09:59 | 太平洋戦争と私
原淳様

坂田健太郎です。

近くに疎開していたことが分かり、驚きです。 昭和19年3月に父の転勤で満洲から東京へ転居、 東京は空襲の危険があり、父は東京へ、家族は母の実家のあった豊橋へ疎開しました。

豊橋も昭和20年6月にB29に爆撃されました。 豊橋は愛知県第2の都市でしたがほとんど全市が焼けました。

終戦の翌日豊橋から尼崎へ転居し、記憶ははっきりしませんが秋に尼崎市立立花小(当時は国民学校)へ転校しました。

                 坂田健太郎