(前文)
パソコンもない、ファックスもないというので、長久愛根君は近況連絡リレーに参加していませんでしたが、 このほど手書きの「国民学校時代の思い出」送ってくれました。「大変努力して書きました」とありましたが 苦労の跡が見受けられます。それをワープロで書き換えたものを送ります。文中に出てくる長久君の父上は、 言わずと知れた長久牧師です。なお彼は、皆さんの近況報告が見ることができないのが残念、何とかならない かと電話で嘆いていましたが、彼はスマホをもっていてラインというのもやっていると言ってました。
今田寛
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「国民学校時代(1941年から1947年)の思い出」
長久愛根
国民学校一年生から二年生の途中まで、山口市後河原のきれいな「一の坂川」の近くで生活しました。
水泳はできないが楽しく遊んだきれいな小さな川でした。上流には有名な国宝の「瑠璃光寺五重塔」があります。
本年4月懐かしい山口へ久しぶりに旅することになって いましたが残念ながらコロナのせいで中止することになりました。
国民学校二年生の途中から父親の職務の関係で西宮市に住むことになりました。その時に父親に陸軍招集、中国への通知が来ました。そこで住居は母親の故郷、三重県内城田村に代 わりました。そして内城田村国民学校に転校しました。 非常に楽しい時を過ごすことになりました。都会から来た男にみんな一目をおいていました。 私は調子にのって毎年6年生まで級長に任命され、大変楽しく過ごしました。当時喧嘩で一 番強いと言われていた同級生のY君を或る時殴り倒し、私が一番強い男となりました。 しかし父親が居ない生活が大変寂しい状況でした。父親は中国で陸軍少尉として活躍しながら息子の私のことが大変気になって非常に多くの手紙が来ました。その一部を紹介させて
いただきます。
(一)「とうちゃんが しゅっぱつするとき ひろしままで見おくってくれて ありがとうあれから大きな船にしなに来ました せんそうにまけたしなの人は かはいそうなせいかつをしてゐます それでも小さいこどもが大きなにもつをかついで よくはたらいてゐるのはかんしんです よっちゃん(愛(ヨシ)根(ネ))もよくおてつだいをして 又よくべんきょうをして 下さい とうちゃんもげんきで よいてがらをたてたいとおもってゐます」
(二)「このあいだ 中国(ゴク)のけうかいの にちえう學校に行ってきました。ちょうどクリス マスのおいはひがあって子供達(タチ)がじょうずに うたをうたってゐました。とうちゃんが英語(エイゴ) でお話をしましたらけふかいの先生がそれを中国語でみんなに話してくれました。 けうは雨がふってゐます。こちらはまだ雪はありません」
(三)「今日は支那事変きねんの日です 山口にゐた頃 毎日たくさんの兵隊さんをえきまで おくったのをおぼえてゐるでせう もうあれから六年になります そして今では日本軍は支那 だけでなく南洋ビルマ 北はアリュウシャンまで廣はんゐにわたって戦争しては勝ってゐます これからまだ長くつづきます よっちゃんもからだをぢょうぶにして よい兵隊になってください」
当時私は予科練を目ざしていました。
父からの手紙はこれで終って再び三重時代の私の行動の一部を申し上げます。 住宅のすぐ横が大変綺麗な宮川です。夏は毎日泳ぎました。 そして魚取り、鮎(アユ)、鰻(ウナギ)、蟹(カニ)、鯎(ウグイ)、 鮠(ハエ)等々を大変楽しくやりました。又肉類は自分で飼っていた鶏、兎を自分で処理し、味しくいたゞきました。現在カラオケで必ず唄っている歌「旅姿三人男」はこの時に唄っていたのです。 大変楽しく過ごした国民学校時代の宮川へ帰り度いと願っている日々です。その願っている時は32年先108歳の時です。遺言「墓は要らない、遺灰は国民学校時代に戯れた綺麗な宮川に散灰骨するように」と。
「愛に根ざして楽しんで笑って八十六歳 そして美しい百八歳へ」
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