8/14今田君から「私と太平洋戦争」の提案があったがあまりに昔のことなので思い出すのに時間がかかったけれど、何とかまとめてみました。 昭和16年4月僕は尼崎市立難波国民学校に入学したが、児童数3千人という 大きな学校で1年生だけで10組あった。
後年、中学部に入学したら山崎君 (愛称ヤマシュン)と野村君(愛称ノンタク)両君が「僕らも難波国民学校にいたよ」と言われたが若し両君の消息をご存知の向きがあればご教示ください。
ここに在学中の昭和19年には学童疎開が始まり、4月僕は母親の実家であった静岡県の浜松市の東の袋井という処に縁故疎開することになった。母親の実家には2歳年長の従兄弟が居て学校から帰ると二人で釣竿をもって夕方までフナ釣りで遊んでいたので、うさぎこそ居なかったが真田先生がお好きだっ た「ふるさと」の唱歌は僕の袋井生活を思い出させる。ここでの学校生活は学童勤労奉仕ばかりで、春は田植えの手伝い、そのあと田の草取りで蛭に食いつかれてびっくりしたり、秋はイナゴ取りなどで勉強などした記憶は全くない。 そのうち遠州灘にアメリカ兵が上陸してくるという噂が広がり学校でも毎日鉄棒の支柱に括りつけた藁人形を竿竹の竹槍で突き刺す練習が始まった。更に浜松が米軍の艦砲射撃にやられるという噂(事実、20年初めからやられた)が出て、昭和19年11月に西宮市立高木国民学校へ転校した。
ところが昭和2 0年初めには省線(現JR)西宮駅北側一帯にあった集落(ゴミ集めの人が多かった)が焼夷弾攻撃に会い火炎に吹上げられた焼けただれた新聞紙や雑誌の束が数キロ離れた高木国民学校校庭にもドンドン落ちてきて危険になったので、 一月末に氷上郡柏原町へ再度疎開した。
ここでは空襲こそなかったが学童勤労奉仕で松の根を掘り出して松根油(松の根を乾溜してオクタン価が高い航空燃料を取り出すもの)の原料作りをさせられたのはきつかった。直径30センチくらいの松でも直径数メートル掘らなければならなかったので朝から晩までショベルを使って大格闘した。今でも“松根油”と聞いただけであの辛かった重労働 を思い出す。
しかし、それも間もなく8/15の敗戦で終わり父親が迎えに来てくれたので20日頃までには西宮へ帰ったと記憶している。 西宮へ帰っても未だ暑かったので、海水浴に行こうと思って西宮北口の自宅から歩いて甲子園浜へ出かけたら、甲子園線は爆撃の痕が物凄くレールが至る所 でひん曲がって跳ね上がり、甲子園球場もスタンド下のガラスは木っ端微塵に壊れていた。更に、浜辺は油脂焼夷弾の燃え滓で砂浜も水の中もベトベトでとても泳ぐどころの話ではなかった。この後は戦後の食糧難の時代になるが疎開話はこの辺で。
原 淳