goo blog サービス終了のお知らせ 

同窓会だより

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

太平洋戦争と私(続)  〜 坂田 健太郎 〜

2020-10-18 10:03:48 | 太平洋戦争と私
五十嵐さんから、朝ドラ「エール」に豊橋の空襲のシーンが出ていたというメールをいただきました。

このメールで思い出したことがあります。

空襲の後で、祖父の手にある「空襲予告ビラ」を見てビックリしました。
全部で2枚の1枚には「ルーズベルト大統領」のポートレートと「親愛なる日本国民に告げる。日本の軍閥に反対しよう。」という意味のメッセージがプリントされ、他の1枚には飛行中のB29の写真と「1945年6月20日以降には東海地方の都市を攻撃する。(大略)」という空襲予告がプリントされていました。

1945年6月19日から20日からピタリとあっています。何故今までになく空襲警報が出たら軍隊をはじめ市民達が逃げ出していたのかということが、こんなビラが撒かれていたからだと、遅まきながら思い知らされました。

祖父は日清戦争時代の職業軍人ですからすぐに憲兵隊へ持って行ったのでしょう。


太平洋戦争と私(14)  〜 坂田 健太郎 〜

2020-09-27 09:13:46 | 太平洋戦争と私
父は塗料会社に勤務のサラリーマン。就職難の時代に卒業しました。私は子供の時から、父の転勤にくっついて、住居を転々としました。神戸~大阪~朝鮮・京城(ソウル)~中国・上海~豊橋~中国・奉天(瀋陽)~豊橋~尼崎と移転しました。小学校だけでも4校に転校し、豊橋、満洲、豊橋、尼崎と、延べ4校に通いました。

実は父は徴兵検査に「丙種合格」でした。合格とは名ばかりで、五体満足の身体では「不合格」扱いです。父の兄弟は全て兵役にはつきませんでした。祖母は男が三人揃って兵隊にとられなくてさぞ肩身が狭かったでしょう。父の死後手帳を見つけて、会社が軍需会社でしたから、会社から「徴兵免除申請」を軍に出していたことを知りました。父は会社では「一番遅く」頭を丸坊主にして、「一番早く」毛髪を伸ばしたようです。

上海は東京を遥かに超える都市でした。そのかわり水道の蛇口から黄色い水が出てきます。そのままでは使えないので、水を大きな浄水器で濾していました。上海のガーデンブリッジでは英国の衛兵交代が行われ、バグパイプを演奏するスコットランドのスカートを着た兵隊を見ることが子供にとっては楽しみでした。英国租界ではターバンを巻いたインド人の兵隊が交差点で交通整理をしていました。
上海の生活は外国の始まりでした。日本では見ることができない天然色のディズニーの漫画「白雪姫」を上海で見た記憶があります。父から聞いた話では大人たちは「風と共に去りぬ」を上海で見たということです。
上海時代は住友本社の支配人邸でボウリングをして遊びました。Jazzなるものは上海で浴びるように聞きました。父はJazzのレコードを相当に持っていたと思います。
最初に上海で家を見に行ったとき、台所に大砲の弾が当たって大きな穴が開いていたのを覚えています。

上海の次は豊橋です。市立狭間国民学校へ入学しました。

数ヶ月で満洲の日本人学校である高千穂在満国民学校へ転校しました。
内地の学校とは教科書も確か違っていました。(私の記憶では)
小学校にはプールがありません。その代わり冬にはブルドーザーが運動場にアイススケート場を作ってくれました。私はおかげで泳げません。その代わりスケートは滑れるようになりました。当時満洲は日ソ不可侵条約のおかげで、中立国でした。
父は東京へ転勤命令を受けていました。わざわざ爆撃に会いに行くような人事異動に、気の毒がられていました。

帰国には大連から”黒龍丸”に乗船しました。関釜連絡船が潜水艦に撃沈された後のことで、子供にとっては何ら危険を感じていないのだから、呑気な話です。
出帆日時も秘密で電話を受けてから1時間かそこらで船に集まれという命令を受けていたそうです。出帆と同時に救命具をつけてデッキに全員集合という慌しさです。
最近クルーズ船に乗ったことがあります。避難訓練に集まり説明を受ける時にこのことを思い出しました。

父は東京へ転勤と同時に家族は豊橋へ疎開しました。日本内地はそれまでの満洲の情勢とは違って、全く”戦争中”でした。神戸港で上陸しましたが、初めての昼食のスパゲッティのあまりの不味さにビックリ。子供の記憶では、電車がビルの中から出てくるのに驚きました。阪急電車の三宮駅です。

豊橋では、母方の祖父が在郷軍人の関係で、軍人を饗応するのが度々ありました。父が来ていてるとき祖父に誘われて海軍軍人の宴席に出て、家族に「海軍将校の話では、燃料不足のため軍艦も動かないので、我々は陸上でぶらぶらしている。もう戦争は負けだ。」という話をしていた記憶がおぼろげにあります。

1945年6月20日、父が本社へ移動中に立ち寄った豊橋にいた夜空襲を受け、焼け出されました。いつもと違う雰囲気に父が家族を起こして防空壕に入れました。「おかしい。軍隊が逃げ出している。逃げろ」という父の声。途端にザザーという至近弾の音。慌てて外へ飛び出すと、駅が直撃弾を受けて真っ赤に燃えていました。駅の方向へ逃げるつもりでいましたから道を変えて、北へコースを変えたところ、直前に焼夷弾が落ちてきました。また左へコースを変えて進むと前途に着弾。転々と変えた行先にも着弾するので、飯田線の車庫横の崖ををよじ登り、線路を横断して畑へ逃げ込むと、やや気持ちが落ち着きました。今でも新幹線で豊橋を通過する時にあの辺へ逃げたなあと思い出します。戦争中は一面畑だったところが、その後建物が建って、今は市街地になっています。

学校も大部分が焼けて、時々集まって、授業も受けることなく終戦を迎えました。電気も無く、いわゆる”玉音放送”なるものを聞いていない身には、悔しいという感情も起きませんでした。爆撃も無くなって嬉しいと思ったのが意外でした。豊橋駅へ向かう途中で、強制労働にかりたてられた朝鮮人のグループが大喜びしていた姿が印象的でした。駅では「こんな旅行証明書は要りません」と言われました。

敗戦の翌々日1945年8月17日、豊橋で列車に乗り出発。途中名古屋付近で焼けている工場を見た記憶があります。やがて大阪駅に到着。大きな鉄傘のある阪急梅田駅から塚口へ。阪急電車は結構な速度で走り、十三駅の近くにあった武田薬品の工場を見て、その威容に驚いた記憶があります。

父の神道塗料本社工場は尼崎市にありました。その独身寮に転がり込み、その1室に家族6人が住みました。


太平洋戦争と私 (13)  〜 原 淳 〜

2020-09-10 09:47:32 | 太平洋戦争と私
私と太平洋戦争 巽君、大林君、今田君 三氏の話は大変面白く読ませて戴きました。それで僕の 経験との関連で少しばかり書いてみたのでご覧ください。

 まず巽君の話ですが、僕の父親は戦時中は軍籍(軍需工場へ出向していた)があったが陸幼や海兵は勧めませんでした。従兄弟が予科練に行っていたがもう乗る飛行機もなく地上訓練ばかりで体罰も大変だったと聞きました。後年、上司となっ た昭和25年東大法卒の仁の思い出話に連帯責任だと言って小隊が並べられて教官が尻を精神注入棒と称するバットで殴るので痛くて便所でかがむ事も難しいほどだったそうです。多分これなど父親は知っていたのでしょう。

 なお、学制は今田君の指摘の通り国民学校令は昭和16年4月1日施行同22年3月31日廃止です。 大林君の話。ご父君が戦後失職された話は身につまされました。実は、僕の父親は 軍籍の儘軍需工場に出向していましたが、戦後、工場整理中の昭和21年1月マ ッカーサー司令部の命令で公職追放(一切の公職及び一定以上のの資本金の企業)に指定され失職しました。一時は静岡へ帰って百姓をすることも考えていたようですが、50歳近くもなっていたのでそれも諦めましたが結局定職に就くことなく亡くなりました。 

 今田君の話。高木国民学校では「甲東国民学校は不良が多いから近寄るな」と 先生が 指示していたので僕たちは近寄りませんでしたよ。だから、貴兄の話で初めて高木か ら行った奴がいたと聞かされた次第。それから、高木では対面びんたはありませんで したが、若い男性教師には良く殴られました。今思えば先生もいつ召集されるか分か らない時代ですから、いらいらした気持ちで子供に接しているとつい手が出たのでし ょう。

中学部一年の時、4組の僕たちがドアの内側と外側で扉を押しあっていたら森本君がドアで指を挟まれたことがあって、そこへ来られた庄ノ先生が怒鳴りながら両手をぶるぶる震わせておられたとき、僕はもう殴られるんじゃないかと観念し たこと がありました。昔の教師は女性と年配の方を除いて、極く普通に児童を殴っていたように思いますね。

 最後に、貴兄が大東亜戦争について「よくも当時の大人たち はあんなアホウなことを始めたものですね」と書かれたことについては僕も同感ですが、昭和16年米国からチャイナからの撤退要求などを提示されたハルノートをまともに受けて戦争など始めなくても、「チャイナの領域はどこだ」とか実行期限も指定されていないのだから、遷延する手段はいくつもあった筈で即開戦に至ったのは残念です。近頃は 米国側からの反省も出て来てハーバート・フーバー元大統領の回顧録「裏切られた自由」 (2017/7日本語版発刊)やハミルトン・フィッシュ元下院議員「ルーズベルトの開戦責任」(2014/9日本語版発刊)などを読むと、日本が逸って真珠湾攻撃などしなくても良かったとつくずく思いますよ。

                              原 淳

太平洋戦争と私(12)(私の戦争体験)  〜 佐々木 伸尚 〜

2020-09-09 10:20:39 | 太平洋戦争と私
私が幼児期から関西学院を卒業して名古屋に就職するまで生活していた,西宮の夙川の自宅は幸いにして,戦災にあわなかった。そのお陰で,子供の時のアルバムが今も残っている。生まれてすぐのころからのスナップ写真が貼ってある。その中に,幼稚園のお遊戯会でお遊戯をしている一枚がある。 広瀬中佐の軍国歌謡で,私も含めて,7人の男の子が写っている。

そのうちの5人は,1945年8月6日の西宮大空襲で,亡くなった。そしてもう一人も大学生の時に自死したと聞いた覚えがある。つまり,その写真に写っている7人の男の子の内,私だけが生き残ったのだ。私が通っていた幼稚園は「白蓮幼稚園」という名の仏教系の幼稚園だった。「びゃくれん」と いう名が難しく,ふざけて「ばくだんようちえん」などと言っていた。その幼稚園は阪急夙川駅の東 2Kmくらいのところにあった。そこを500Kg爆弾が直撃したのだ。空襲のあくる日,爆撃の後を見 に行った。南郷山の南はずれの小高い所にあった幼稚園は円い池のようになっていた。 

戦争のことで思い出す最初のことは,このことだ。戦争が始まって,しばらくして,私の父は軍属 としてフィリッピンへ出征した。当時中学に入ったばかりの兄を頭に5人兄弟姉妹が母親と一緒に暮らしていた。隣組の人が,近くの空き地の道端に作ってくださった粗末な防空壕が私たち家族の避難場所だった。それより以前,私とすぐ下の妹は,徳島の父親の実家へ縁故疎開した。空襲が激しくな り始め,子供二人だけ生き残っても苦労するだろうと考えた母親は,二人を呼び帰していた。

それ以後は,母親と二人の妹と弟を防空壕の中に入れ,両側の入口近くに兄と私とが周囲の状況を 見ながら,健気にも壕を守っていた。 B29が4百機も来襲した西宮大空襲の夜は,ひゅるひゅると 爆弾の落ちる音がして,壕の両方の入り口から突き飛ばされるように,兄と私は壕の中に押し込まれ た覚えがある。空襲が一段落し,帰宅してみると玄関先に電車のレールが1mほど飛んできていた。 不発弾の油脂焼夷弾も落ちていた。

父は,戦後1年もしないうちに,無事復員してきた。敗戦でもといた会社は無くなり,生活能力旺盛な父は,色んな事をして,家計を支えてくれた。教育制度改定で,中学校も義務教育になり,当初の中学校はかつての高等科と同様に,小学校に併設されることにり,以前の中学校は高等学校になった。で,私立の中学校だけが新入生を募集していた。で,私は,関西学院新制中学校を受験して, 無事合格したというわけだった。その時,父親が出した条件は,「授業料,交通費,教科書代は出してやる。小遣いは無し」という厳しいものだった。


**************************************************************************************


(追記)   大林 浩
 佐々木さんの文章を読んでいて、「広瀬中佐の軍国歌謡...」のくだりにくると、私の脳裏に旋律が湧き、「。。。杉野はいずこ、杉野はいずこ。。。」と歌の一部がよみがえってきました。
70年も、80年も前に歌った歌ですのに、旋律は脳裏に残っているものですね。
     


太平洋戦争と私(11 )  〜 今田 寛 〜

2020-09-08 10:54:07 | 太平洋戦争と私
「私の国民学校時代」

 巽君の長文の戦時中の思い出、楽しく感心しながら読ませてもらいました。「恐るべき 巽少年」の感をもちました。国民学校時代にあれだけいろいろ物事を真面目に考えていたこ と、 そしてそれをよく記憶していることは驚きでした。ただ終戦の年の9月1日から国民学校が小学校に名称変更したというくだりは、私の記憶とは異なります。小学校に戻ったのは、 我々が卒業した直後の4月からだったように覚えていますが?

以下、ごく普通の国民学校時代の記憶の断片です。

1.
 私の国民学校は、関学のお膝元、甲東国民学校である。戦争が始まった直後、アメリカ帰りの従兄と父親が、「あんな大きな、豊かな国と戦争して勝てるわけがない」 と話しているのを聞いた。それ以来、勇ましい戦闘機や戦艦の絵を描ながらも、常に底 辺にこの言葉が残っており、多少冷めた思いで国民学校時代を過ごした覚えがある。勿 論、 親からは、聞いたことは決して口外するなと釘はさされていたが。(巽君は、自分自身でアメリカの地図を見て、こんな国に勝てるわけがないと思ったというから驚きである)。

2.
 しかしその父も明治の人である。終戦の日の日記には、玉音放送の全文を、一字一 句丹念に筆記した後に、「敗戦である。敗れたのである。無念ならざるものがあろうか。 しかし問題は解決した。希望は沛然として我胸中に漲った。正常に復したのだ。・・・」 と無念と喜びを表している。クリスチャン・ホームでありながら、戦時中の我が家には 神棚があった。時代には逆らえなかったのだろう。正常への復帰の喜びがよくわかる。

3.
 私の手元には国民学校時代の通信簿が残っている。その中の身体検査の結果によると、私の身長と体重は、1年生から6年生までに、それぞれ15センチと7キロしか伸びていない。今の小学生男子の6年生と1年生の平均身長、体重の差は、それぞれ 28.4センチ、17.4キロ(2005年統計)であるから、私の成長不全は歴然である。それでも母親は子供の将来を案じたのであろう、毎週一回、父は大きな容器を手に塚口の 岡崎牧場に牛乳を求めて通った。よくついていったが、寒い凍てついた朝のあの寒さは忘れられない。内燃物不足もあったろうが、昔の冬は寒かった。その牛乳のおかげか、 骨がしっかりできたのだろう。数日前、初めて骨密度を測ってもらったら、骨年齢 71歳と出た。両親に感謝である。

4.
 皆さんも書いておられるように、私も、警戒警報で帰宅の途中に、甲東園駅あたりで機銃掃射を受けた覚えがある。しかしもっと驚いたのは、その後、学校へ戻ると、 私の席の前の床に銃弾がグッサリ刺っていたことである。あのまま学校におれば、銃弾 は私の頭をかすめていたか、あるいは貫通していたかも。その銃弾跡を残す木造校舎も 今はなくなった。古い記憶のよすがが、一つまた一つときえてゆく。

5.
 終戦の年の7月17日になって、2歳下の弟と2人で、京都府峰山町の知り合いの家に縁故疎開をした。そこには京都の国民学校が集団疎開してきていて、幅を利かせていた。「・・やし」という語尾の女のような話し方とともに、数をたのみに都会人風を 吹かせていた京都人に対する妙な偏見が刷り込まれた。疎開中に、川西航空機の工場 (現阪神競馬場)が爆撃され、甲東園の我が家も「半壊」の状態になった。この空襲を聞いたときには、これで兄弟3人(兄は、高知高校に居た)が取り残されたかと涙したが、無事の知らせに再び涙した。敗戦の放送を聞いた峰山の人たちは、アメリカ人のことを、口が耳まで割けた人食い鬼と信じて、占領を恐れていた。しかし子どもの頃から 関学の宣教師を知っていた私には、その怖がりようがおかしかった。戦争が終わった のに父親が迎えに来てくれたのは8月も26日になってからだった。遅い迎えを恨めしく 思ったが、大人の世界は大変だったのだろう。

6.
 疎開中のことで忘れられないことがある。或る時、小指大のフィンガービスケット が配給された。弟と久々の甘さに感激して食べたが、これを甲東園にいる弟に食べさ せ たいと思い、6本入りの小包を作り2人で郵便局から送った。後でわかったことだ が、 結局これは着かなかったらしい。しかし、たった6本のビスケットがまるで宝石のように思われた時代である。この健気な兄弟愛、今思い出しても涙が出る。

7. 
 これは戦後になってからかもしれないが、或る時、隣の高木国民学校の連中が何人か甲東国民学校にやってきた。当時は学校の縄張り意識が強かったもので、彼らが南門 を出るのを待って、タダでは返すなとばかりに後を追いかけ脅しをかけた。敵も承知で 逃げおおせたわけだが、南門まで戻ってくると、藤本といういやらしい教師が仁王立 ちで待っていた。そして追っかけた者を校庭の真ん中に向かい合わせに立たせ、対向ビンタをやらされた。その時の相手が、確か、栗山君 ( 彼は大社町の学校が軍に一部接収 されたので甲東国民学校に転校してきていた ) だったと思うのだが、後日彼にそのこと を言うと覚えはないという。いずれにしても、あの対向ビンタは、お互い「手加減しよ うな」と申し合わせていても段々エスカレートするので、自分で手を下さずに行う実に卑劣な体罰である。ましてや友達を殴れというのだからひどい話だ。高木国民学校とい えば、原君の母校らしいが、その時、逃げた中にいなかったことを願う。

8. 
 最後に、甲東国民学校昭和22年卒の仲間が、卒業60周年を記念してオンデマンド出版した、『思い出で綴る 激動の国民学校生』(2007)を紹介したい。これは、 我々が持ち寄った戦時中の思い出を、元新聞記者の仲間の一人が時代背景をバックに巧みに編集した時代史的物語であり名著だと思う。新聞にも紹介され結構広く読まれた評判の良い本である。同書の表紙と、私の戦時中のお習字の写真を添付する。




 それにしても、一括りで関学新制中学一期生といっても、実に多様な戦中体験の持主が 集まっていたことに驚かされる。