父は塗料会社に勤務のサラリーマン。就職難の時代に卒業しました。私は子供の時から、父の転勤にくっついて、住居を転々としました。神戸~大阪~朝鮮・京城(ソウル)~中国・上海~豊橋~中国・奉天(瀋陽)~豊橋~尼崎と移転しました。小学校だけでも4校に転校し、豊橋、満洲、豊橋、尼崎と、延べ4校に通いました。
実は父は徴兵検査に「丙種合格」でした。合格とは名ばかりで、五体満足の身体では「不合格」扱いです。父の兄弟は全て兵役にはつきませんでした。祖母は男が三人揃って兵隊にとられなくてさぞ肩身が狭かったでしょう。父の死後手帳を見つけて、会社が軍需会社でしたから、会社から「徴兵免除申請」を軍に出していたことを知りました。父は会社では「一番遅く」頭を丸坊主にして、「一番早く」毛髪を伸ばしたようです。
上海は東京を遥かに超える都市でした。そのかわり水道の蛇口から黄色い水が出てきます。そのままでは使えないので、水を大きな浄水器で濾していました。上海のガーデンブリッジでは英国の衛兵交代が行われ、バグパイプを演奏するスコットランドのスカートを着た兵隊を見ることが子供にとっては楽しみでした。英国租界ではターバンを巻いたインド人の兵隊が交差点で交通整理をしていました。
上海の生活は外国の始まりでした。日本では見ることができない天然色のディズニーの漫画「白雪姫」を上海で見た記憶があります。父から聞いた話では大人たちは「風と共に去りぬ」を上海で見たということです。
上海時代は住友本社の支配人邸でボウリングをして遊びました。Jazzなるものは上海で浴びるように聞きました。父はJazzのレコードを相当に持っていたと思います。
最初に上海で家を見に行ったとき、台所に大砲の弾が当たって大きな穴が開いていたのを覚えています。
上海の次は豊橋です。市立狭間国民学校へ入学しました。
数ヶ月で満洲の日本人学校である高千穂在満国民学校へ転校しました。
内地の学校とは教科書も確か違っていました。(私の記憶では)
小学校にはプールがありません。その代わり冬にはブルドーザーが運動場にアイススケート場を作ってくれました。私はおかげで泳げません。その代わりスケートは滑れるようになりました。当時満洲は日ソ不可侵条約のおかげで、中立国でした。
父は東京へ転勤命令を受けていました。わざわざ爆撃に会いに行くような人事異動に、気の毒がられていました。
帰国には大連から”黒龍丸”に乗船しました。関釜連絡船が潜水艦に撃沈された後のことで、子供にとっては何ら危険を感じていないのだから、呑気な話です。
出帆日時も秘密で電話を受けてから1時間かそこらで船に集まれという命令を受けていたそうです。出帆と同時に救命具をつけてデッキに全員集合という慌しさです。
最近クルーズ船に乗ったことがあります。避難訓練に集まり説明を受ける時にこのことを思い出しました。
父は東京へ転勤と同時に家族は豊橋へ疎開しました。日本内地はそれまでの満洲の情勢とは違って、全く”戦争中”でした。神戸港で上陸しましたが、初めての昼食のスパゲッティのあまりの不味さにビックリ。子供の記憶では、電車がビルの中から出てくるのに驚きました。阪急電車の三宮駅です。
豊橋では、母方の祖父が在郷軍人の関係で、軍人を饗応するのが度々ありました。父が来ていてるとき祖父に誘われて海軍軍人の宴席に出て、家族に「海軍将校の話では、燃料不足のため軍艦も動かないので、我々は陸上でぶらぶらしている。もう戦争は負けだ。」という話をしていた記憶がおぼろげにあります。
1945年6月20日、父が本社へ移動中に立ち寄った豊橋にいた夜空襲を受け、焼け出されました。いつもと違う雰囲気に父が家族を起こして防空壕に入れました。「おかしい。軍隊が逃げ出している。逃げろ」という父の声。途端にザザーという至近弾の音。慌てて外へ飛び出すと、駅が直撃弾を受けて真っ赤に燃えていました。駅の方向へ逃げるつもりでいましたから道を変えて、北へコースを変えたところ、直前に焼夷弾が落ちてきました。また左へコースを変えて進むと前途に着弾。転々と変えた行先にも着弾するので、飯田線の車庫横の崖ををよじ登り、線路を横断して畑へ逃げ込むと、やや気持ちが落ち着きました。今でも新幹線で豊橋を通過する時にあの辺へ逃げたなあと思い出します。戦争中は一面畑だったところが、その後建物が建って、今は市街地になっています。
学校も大部分が焼けて、時々集まって、授業も受けることなく終戦を迎えました。電気も無く、いわゆる”玉音放送”なるものを聞いていない身には、悔しいという感情も起きませんでした。爆撃も無くなって嬉しいと思ったのが意外でした。豊橋駅へ向かう途中で、強制労働にかりたてられた朝鮮人のグループが大喜びしていた姿が印象的でした。駅では「こんな旅行証明書は要りません」と言われました。
敗戦の翌々日1945年8月17日、豊橋で列車に乗り出発。途中名古屋付近で焼けている工場を見た記憶があります。やがて大阪駅に到着。大きな鉄傘のある阪急梅田駅から塚口へ。阪急電車は結構な速度で走り、十三駅の近くにあった武田薬品の工場を見て、その威容に驚いた記憶があります。
父の神道塗料本社工場は尼崎市にありました。その独身寮に転がり込み、その1室に家族6人が住みました。