同窓会だより

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一の宮巡拝⑪ 淡路国一の宮伊弉諾神宮  〜 奈須野 昭夫 〜

2020-10-26 15:05:54 | 巡礼
伊弉諾神宮
 通 称   :いずくさん
 所在地   :〒656-1521
        兵庫県津名郡一宮町多賀740
 最寄りバス停:津名港バスターミナル


主祭神
 伊弉諾大神(イザナギノオオカミ)
  伊弉諾大神は、伊弉冉大神と共に神世七代の最後に出現した神です。国生みをはじめとするすべての神功を無告げた後、御子神の天照大神に國土統治を託し、伊弉冉大御神と夫婦になって、最初に生み出した島・淡路島に隠棲したと言われています。
伊弉冉大神が配祀されています。

伊弉諾神宮は、淡路島北部の播磨灘に面した一宮町に鎮座しています。淡路島は、伊弉諾大神・伊弉冉大神による国生みで最初に作りだされた神話の地です。伊弉諾大神は、ここの多賀の地に幽宮を設けて鎮座し、余生を送ったとされています。伊弉諾神宮はその宮跡を神陵として創始しました。

伊弉諾神宮と伊勢神宮内宮は同一緯度即ち北緯34度27分23秒に鎮座しています。
この二つの宮を結んだ線の中心点に「飛鳥の宮」がありました。この符合は偶然ではないと思います。



県道に面して大鳥居が建てられて、ここより真直ぐに伸びる参道の先に神池があります、この神橋を渡ると檜皮葺きの表神門が有ります。本殿は伊弉諾大神の神陵地に建っています。1879年(明治12年)までは、神陵の前方に本殿が建てられていましたが、1882あります。この神橋を渡ると檜皮葺きの表神門が有ります。本殿は伊弉諾大神の神陵地に建っています。



1879年(明治12年)までは、神陵の前方に本殿が建てられていましたが、1882年(明治15年)に御陵丘を覆うように基壇を二重いに巡らせて現在地に移築されました。
拝殿は、入母屋造りで、背後に中門・幣殿と三間社流造りの本殿が有ります。完成は1883年(明治16年)です。

大鳥居は高さ27尺の石造でしたが平成7年1月17日の阪神淡路大震災で倒壊しました。
同年11月に氏子篤志家の奉納で型式を改めて再建されました。
ご皇室の始祖伸として朝廷の尊崇厚く、坂上田村麻呂の末裔田村家が下向して祭祀を司るなど高い格式を持って奉斎されています。

拝殿の右手に「2本の楠木が根元で一つになっている御神木(夫婦大楠)があり、」子宝安産の信仰を集めています。高さ約30m、樹齢約900年と伝えられています。根元に「岩楠社が祀られています。



神池の前に「香木伝来記念碑」が建っています。淡路島には、595年(推古天皇3年)に。日本で最初に沈水(じん)(香木)が漂着したと伝えられています。一宮町は線香の生産量が日本全国の70%を占めています。(パルシェ香りの館があります。)

神社ゆかりのひとびと
 鈴木重胤:江戸時代の国学者
 現北淡町仁井の庄屋の子に生まれた幕末の国学者です。
 伊弉諾神宮に保管されています六曲半双屏風「幽宮賦(かくりのみやをうたふ)」は鈴木重胤の遺墨です。重胤は若い時から皇学を志して、平田篤胤・大國隆正に入門、広い学識と宗教的情熱を持ち「延喜式祝詞講義」、「日本書記伝」を遺しています。
幽宮賦「天つ神 命依さして 二柱 御祖の神に くらげなす 国をかため ただよ
える 国をつくれと 神随」と始まっている歌からも鈴木重胤の情熱を感じます。

太平洋戦争と私(続)  〜 坂田 健太郎 〜

2020-10-18 10:03:48 | 太平洋戦争と私
五十嵐さんから、朝ドラ「エール」に豊橋の空襲のシーンが出ていたというメールをいただきました。

このメールで思い出したことがあります。

空襲の後で、祖父の手にある「空襲予告ビラ」を見てビックリしました。
全部で2枚の1枚には「ルーズベルト大統領」のポートレートと「親愛なる日本国民に告げる。日本の軍閥に反対しよう。」という意味のメッセージがプリントされ、他の1枚には飛行中のB29の写真と「1945年6月20日以降には東海地方の都市を攻撃する。(大略)」という空襲予告がプリントされていました。

1945年6月19日から20日からピタリとあっています。何故今までになく空襲警報が出たら軍隊をはじめ市民達が逃げ出していたのかということが、こんなビラが撒かれていたからだと、遅まきながら思い知らされました。

祖父は日清戦争時代の職業軍人ですからすぐに憲兵隊へ持って行ったのでしょう。


彼岸花について  〜 奈須野 昭夫 〜

2020-10-10 18:42:30 | 巡礼
2016年にホームページの「巡礼」の項で彼岸花について、友人の横田朗吉氏の写真の協力を得て真赤な彼岸花の咲いている場所について紹介しました。

お彼岸の京都東本願寺の大法要も規模縮小・時間制限があり今回は不参加といたしました。そこで池田市内の散策に出かけ伝承のある場所へと出かけました。
その折に池田市の西部を流れている猪名川に架かる「絹延橋」近辺まで足を延ばしました。
この橋は国道176の終わりで、橋を渡ると兵庫県川西市になります。橋を渡らず川に沿って国道173を取って進むと丹波亀岡方面に向かいます。


私は「絹延橋」に向かう池田市内の旧能勢街道を進み、途中で右折して「西光寺」というお寺に入りました。本堂の前に大きな百日紅の木が紅い花をたわわににつけていました。本堂に沿って庫裏に向かうとその入り口に「白い彼岸花の一群生」が咲いていました。



私はこの年まで「白い彼岸花」見たこともなく、文書でも人からも聞いたことはありませんでした。早速写真に収め、絹延橋に向かい、猪名川の土手に向かいました。土手に登る道端に「赤い彼岸花」と「白い彼岸花」を見ました。これも写真に収め帰宅しました。



娘に「白い彼岸花」初めて見た。あの花形は似ているが彼岸花かな?と話すと「白いのもオレンジ色のもあるよ!」とこともなげに言います。そしてインターネットのコピーをくれました。それによる内容を要約しますと次のようです。
秋の田畑や墓地に真赤に燃えるように咲く花と同じく白い彼岸花が咲いている場合があります。白い彼岸花は赤い彼岸花の仲間の1種で「シロバナマンジュシャゲ」という種類なのです。
白い彼岸花の学名は「Lycoris albiflora」、属名はヒガンバナ科ヒガンバナ属と言います。白い彼岸花は「シロバナマンジュシャゲ」という名前のほかに、学名から取った「アルビフロラ」ともよばれます。

「根の特徴」
彼岸花は多年球根植物で種をつくらず球根だけで増えてゆきます。この球根には毒性物質があります。彼岸花の球根の毒性は、食べると即死するほどの強さはないが、嘔吐、下痢を引き起こします。

赤い彼岸花と白い彼岸花の違い 
 
違い①生息地は九州
 彼岸花は日本全国に生息しているのと違って、白い彼岸花は主に九州に自生しています。九州では群生して咲いていることもありますが、関東地方で白い彼岸花を見かけることは、とても珍しいことです。
彼岸花は中国から渡来して日本で咲くようになったと言われています。

違い②
 赤い彼岸花は原種ですが、白い彼岸花は交配種で、この点が大きな違いです。
白い彼岸花は、赤い彼岸花と黄色い彼岸花のショウキズイセンを交配してできたものと言われています。
赤色と黄色を交配して白色になるのは不思議ですが、これは遺伝子の白化変種と言われ、植物の花の色の遺伝子にはこのような変異が表れることが多いのです。

違い③白い彼岸花は弱い
 白い彼岸花は赤い彼岸花と比べると繁殖力が弱いというところも大きな違いです。
赤い彼岸花はとても強いのでどんどん増殖して、あちこちでよく見かけますが、白色は弱くて数も少ないので、めったに見られない珍しい彼岸花と言われているわけです。
いわゆるよく見かける赤い彼岸花は秋に茎を延ばし、先端に花を一輪咲かせます。花が咲き終わったら、晩秋から冬にかけて葉が出ます。

彼岸花の名前の由来や意味。

彼岸花は、非常に多くの別名を持っていることも特徴です。1000種類以上の別名を持つと言われています。これは昔から人々の生活に身近な花であったという証と思われます。

*「彼岸花(ひがんばな)」
 呼び名としては一番なじみのある名前で、その開花期が由来です。
花が咲く時期が丁度秋のお彼岸の頃なので「彼岸に咲く花と言う意味から命名されたものと思われます。

*「曼殊沙華(まんじゅしゃげ・まんじゅしゃか)」
 曼殊沙華は、宗教が由来の名前と思われます。曼殊沙華は仏教の法華経に出てきます天界の花のことです。サンスクリット語で「まんじゅしゃか」は「赤」という意味があり、彼岸花が赤いことから、サンスクリット語で「赤」を意味する曼殊沙華と言う言葉が名前の由来になったっものと思われます。

*「死人花(しびとばな)・地獄花(じごくはな)」
 死人花(しびとばな)・地獄花(じごくばな)は、死のイメージが由来です。彼岸花は田畑の畦道のほかに墓地でも多く見かけます。又秋の彼岸が来るとあちらこちらで咲き出します。このように「死」のイメージが強いことから死人花・地獄花と言う不吉な名前が付いた由来とされています。

*「毒花(どくばな)・痺れ花(しびればな)」
 毒花(どくばな)・痺れ花(しびればな)は毒性をもつことが由来です。彼岸花の球根には、毒があります。そこでこのはなを食べるといけないという忠告の意味を含めて、毒花・痺れ花という名前がつきました、

*「狐花(きつねばな)・狐の松明(きつねのたいまつ)」
 狐花(きつねばな)・狐の松明(きつねのたいまつ)は、花の形が由来と思われます。彼岸花の長いしべはキツネの髭のようにもみえます。昔から、キツネやタヌキは人をだますという言い伝えもあるので、魔訶不可思議な雰囲気のある彼岸花にキツネのイメージが重なったものと思われます。

*「葉見ず花見ず(はみずはなみず)」
 葉見ず花見ず(はみずはなみず)は、植物としての特徴が由来です。彼岸花の花が咲く頃は未だ葉がでていません。葉がでるのは花が咲き終わった後です。そこで葉と花を一緒に見ることがないことを意味する「葉見ず花見ず」という名前が付けられましたのです。

*「その他に在る別名」
 雷花(かみなりばな)、剃刀花(かみそりばな)、捨子花(すてごばな)、天蓋花(てんがいばな)などがあります。また地方によって「大分県(いっときごろし)」、「鳥取県(うまのしたまがり)」等の珍しい呼び名もあります。

■花言葉の由来
 赤い彼岸花の花言葉は、「華やかないみあいのもの」と「逆にマイナーないみあいのものの」と両方があります。「情熱・再会」は赤い色の印象からの花言葉で、「独立」は1本の茎をのばして真直ぐに咲く様子からの花言葉でしょう。その反対に「諦め・悲しい思い出」は彼岸花そのものの不吉なイメージからの花言葉と言えます。

白い彼岸花の花言葉は「また逢う日を楽しみに」という花言葉は、彼岸花は花さくときには葉が無く、葉が出るときには花が無いというすれ違いの意味を持ちます。

「白い彼岸花」の群生地をご紹介しておきます。
*石川県金沢市の香林寺
 「願掛け寺」としても著名です。例年9月下旬~10月には白い彼岸花が咲くことで有名です。お寺の庭園一面に咲く白い彼岸花は、日本最大級の規模で参拝客が訪れます。
*福岡県築上町の不老長寿山 正光寺
*奈良県明日香村・国営飛鳥歴史公園
 ここの白い彼岸花は自生のものではなく植えられたものですが、関西で沢山の群生が見られる場所として有名です。

「結び」
 高校時代から「生物学」関係のことは受験勉強の科目選択に入れておらず、年を経て、益々勉強することをなおざりにしてきた欠陥知識を知らされました。残る人生はもう少ないと思いますが、幸い学んでいる放送大学を足がかりに「植物学」も視野に入れて学んでみようと思いました。

近況報告(続)小磯良平の八千草 薫  〜門脇 敏郎 〜

2020-10-10 16:15:34 | 報告
コロナ禍のもと、明るい楽しい話として、近況報告リレーが活発に継続されることを願い、その話題提供の一つにでもなればと思い、宝塚と私、なる駄文の投稿を続けています。先日の駄文については、五十嵐 さんの方から添付していただいた、小磯良平の八千草薫の写真、これが断然光っております。
此の絵画の存在は新聞で知りましたが、その時の写真は小さくて、こんなものかと感じる程度でした。 五十嵐さんから添付してもらったものは、大きくて全体像がはっきり理解できます。

彼女は単にキレイだけではなく、人間として裡に大きなフアイトというか、信念のようなものを 秘めているように感じさせました。心も美しいので晩年の彼女はいつまでも上品で綺麗な顔をしていると言われてい ますが、それだけでは無いような何かを持っていたと思います。 私のような凡人は、いくら憧れても足元へも寄りつかない雰囲気を持っています。それを見抜き、表現した小磯良平も素晴らしい画家だと改めて感じました。

この写真を見て、甲斐淳吉先生の愛弟子である同窓生の皆さんは、如何感じられたでしょうか。 同窓会も開きにくい今日、お互いの会話が続いていくネタの一つにでもなればと思いますので、 同窓会も開きにくい今日、お互いの会話が続いていくネタの一つにでもなればと思いますので、 八千草 薫 の写真の感想、率直なご意見等々、この近況報告リレーに投稿していただければ有難いと念じておりま す。

近況報告(続)  〜 五十嵐 恵 〜

2020-10-10 16:01:04 | 報告
関西学院中学部第1回生の皆様

先日来、小磯良平 《婦人像》 が話題になっていますが、この絵について神戸市小磯記念美術館の「美術館だより 52」に表紙作品紹介として掲載されていましたので、そのまま送ります。

  小磯 良平《婦人像》1956年 油彩キャンバス 45.7×37.9 cm 2019年度新収蔵

斜め下方にまなざしを向けた内省的な表情を見せる女性。モノトーンの色調の中に唇とカメオの紅色が際立つ。本作は25歳の八千草薫を描いたものである。週刊朝日(1956年2月5日号)の表紙画ではじめて八千草をモデルに制作した小磯良平は、その後、もう一度描きたいと八千草の自宅を訪ね、本作を描いた。
普段着で応じたという八千草は、この絵には「本当の自分」が描かれていると語っている。 モデルの清楚な雰囲気に合った白一色の額縁に収められて、本作は八千草が亡くなるまで自宅の居間に飾られていた。
自身の没後は美術館へお返ししたいと常々語られていたとのことで、2020年ご寄贈いただくこととなった。

以上ですが、4月10日~7月12日には《婦人像》受贈記念として小磯記念美術館に展示され、ご覧になった方もおられるでしょう。
本日10月10日現在も小磯美術館の展示室3に飾ってあります。
展示のタイトルは「小磯良平作品選Ⅲ」で、会期は10月3日~12月13日です。
(Ⅲはローマ数字の3です)