4 空襲の恐怖と敗戦後の解放感
1944(昭和19)年の秋頃だったろうか、自宅から電車で30~40分程離れ た大阪市内への米軍の夜間爆撃が激しさを増すようになった。さらに、白昼の空襲も増えた。晴れた日に、大阪から神戸に向けて飛ぶ米国空軍の大編隊を見て、美しいと思ったこともあった。
そのうちに、都心部や工業地帯だけではなく、郊外を走る阪急電鉄の車両が米軍戦闘機から機銃掃射を受けるようになった ( 乗客は車両の下に避難 した ) 。 その余波で、箕面村が米軍機の機銃掃射を受けるという事件が起きた。ある晴れた 日の午後、私は下校して自宅までの15分ほどの帰途を辿っていた。田畑を通り過ぎ、 左右に住宅が立ち並ぶ歩道を歩いていると、突如バリバリという物凄い銃撃音とともに、飛行機の低空飛行を思わせる唸るような音が聞こえて来たので、私は咄嗟に右側の家の植え込みに転がり込んだ。その後数分たって何事も起こらなかったので、私は 植え込みから這い出て帰途に就いた。米軍の戦闘機が、大阪市の空襲に参加した帰途 に「行きがけの駄賃」とばかりに無目的にこの村を銃撃したらしかった。この日の夕方になって、電車の駅に近い村の大通りで機関銃の弾丸が何発か見つかったという話が聞こえてきた。
日本国内が空襲に晒されるぐらいだから、外地の戦闘状況も日に日に思わしくなくなっていた。 4年生になって大人の新聞を読むようになっていた私は、海軍航空隊の主戦場が「ブーゲンビル沖 →比島沖→台湾沖」と移動して日本の近海に迫りつつあることを知り、次第に絶望的になって行った。その頃、「勝利の日まで」という ラジオ歌謡をよく聴くようになった。私は、その歌詞も曲もかなり気に入っていたの だが、ラジオからこの曲が流れて来るたびに、「こういう曲が放送されるのは、日本 の勝利が遠のいているからだろう」と思って、淋しい気持ちになるのだった。
この年(昭和19年)の暮れ頃だったろうか、大阪市内への夜間爆撃が激しさを増 し、ほとんど毎晩のように箕面村にも強烈な爆裂音が聞こえて来るようになった。危険を感じた我が家では、空襲警報の発令とともに、庭に掘った防空壕に逃げ込むことになった。空襲は結構長時間にわたったので、壕の中に畳を持ち込んで、その上でゴロ寝をするようにもなった。”怖がり“の私は、この毎晩の空襲に気力を喪失し、いつの間にか「日本を守るために海軍に入る」などという健気な志は雲散霧消してしまい、 ただただ空襲が終わるのを祈るばかりだった。 このような閉鎖的な状況が続いて、5年生になった私が太平洋戦争勃発後 4年目の 夏休みを迎えた頃、39歳になっていた私の父が招集されて入隊した。父は健康だったが、短軀で超近眼だったので徴兵検査では丙種だったし、年齢からしても招集はないと思っていたので、ショックだった。快晴の夏空の下、父がいない家の中で私の心は暗かった。 その夏休みの半ばが終わった8月15日の正午、昭和天皇のラジオ放送を聴くために私は母や姉と一緒に防空壕へ入った。私たちは毎晩のように防空壕へ逃げ込んでいたので、空襲情報を聴くためにラジオ受信機を壕の中に持ち込んでいたのである。そのラジオから聞こえてきた天皇の声はカン高くて聞き取りにくかったが、それが降伏宣言だということは理解できた。その瞬間、私は畳の上に背中を押しつけて大きく伸 びをした。「もう空襲はない。父も帰って来る」と思って、嬉しかったのだ。この瞬間の喜びの気持ちは、いつまでも忘れることがない(非国民?)。
この時、負けるはずがない日本が負けたので悔しくて涙を流した、という人がいたと聞くが、4年前の日米開戦時に「こんな大国アメリカに負けたらたいへんだ」と恐 れ戦いた私には、そのような感情は起きなかった。それから何日かたつうちに、降伏後の日本が私の心配したような過酷な運命に陥ることなく、進駐軍によって平和裡に統治される、という見通しが広まり、私はますます安堵の気持ちを強くした。 9月1日、私たちは「箕面国民学校」が再改称した「箕面小学校」に登校し、二学期を迎えた。敗戦で価値観が一変した、という大人が多かったようだが、前記のように偏った軍国主義教育を受けていなかった私たち箕面小学校の生徒には、そんな感慨 は起きなかった。この学校には、戦時中「軍国主義」を鼓吹し、戦後一転して「民主主義」を唱えて赤旗を振るような先生はいなかったから、戦後私たちが先生不信に陥ることもなかった。有名な教科書の“黒塗り”はやらされたが、先生に対する信頼感 があったので、「敗戦だから、このぐらいのことはしょうがない」と思っていた。 このように、学校生活の大本は変わらなかったが、変化した部分もあった。まず国旗・国歌・御真影という三点セットがなくなり、それにつれて堅苦しい式典が激減した。また戦時中、4年生以上に「武道」という科目が設けられ、竹刀の素振りのよう な退屈な動作を課せられていたのだが、その科目が廃止された。そのほか、進駐軍の影響で野球が大人気になり、私たちは放課後校庭で野球を楽しむようになった。その 結果、「体育」の授業に野球が取り入れられるようになり ( 時々だったが ) 、私たちを喜ばせてくれた。 食料やその他の物資不足は急激には解消されなかったが、戦時中の重苦しいムード が一掃され、私たち小学生にはただただ明るい解放感溢れる楽しい戦後の日々の到来だった。
おわり