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同窓会だより

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太平洋戦争と私( 10 )  〜 巽 健一 ③ 〜

2020-09-07 11:36:46 | 太平洋戦争と私
4 空襲の恐怖と敗戦後の解放感

1944(昭和19)年の秋頃だったろうか、自宅から電車で30~40分程離れ た大阪市内への米軍の夜間爆撃が激しさを増すようになった。さらに、白昼の空襲も増えた。晴れた日に、大阪から神戸に向けて飛ぶ米国空軍の大編隊を見て、美しいと思ったこともあった。

そのうちに、都心部や工業地帯だけではなく、郊外を走る阪急電鉄の車両が米軍戦闘機から機銃掃射を受けるようになった ( 乗客は車両の下に避難 した ) 。 その余波で、箕面村が米軍機の機銃掃射を受けるという事件が起きた。ある晴れた 日の午後、私は下校して自宅までの15分ほどの帰途を辿っていた。田畑を通り過ぎ、 左右に住宅が立ち並ぶ歩道を歩いていると、突如バリバリという物凄い銃撃音とともに、飛行機の低空飛行を思わせる唸るような音が聞こえて来たので、私は咄嗟に右側の家の植え込みに転がり込んだ。その後数分たって何事も起こらなかったので、私は 植え込みから這い出て帰途に就いた。米軍の戦闘機が、大阪市の空襲に参加した帰途 に「行きがけの駄賃」とばかりに無目的にこの村を銃撃したらしかった。この日の夕方になって、電車の駅に近い村の大通りで機関銃の弾丸が何発か見つかったという話が聞こえてきた。 

日本国内が空襲に晒されるぐらいだから、外地の戦闘状況も日に日に思わしくなくなっていた。 4年生になって大人の新聞を読むようになっていた私は、海軍航空隊の主戦場が「ブーゲンビル沖 →比島沖→台湾沖」と移動して日本の近海に迫りつつあることを知り、次第に絶望的になって行った。その頃、「勝利の日まで」という ラジオ歌謡をよく聴くようになった。私は、その歌詞も曲もかなり気に入っていたの だが、ラジオからこの曲が流れて来るたびに、「こういう曲が放送されるのは、日本 の勝利が遠のいているからだろう」と思って、淋しい気持ちになるのだった。

この年(昭和19年)の暮れ頃だったろうか、大阪市内への夜間爆撃が激しさを増 し、ほとんど毎晩のように箕面村にも強烈な爆裂音が聞こえて来るようになった。危険を感じた我が家では、空襲警報の発令とともに、庭に掘った防空壕に逃げ込むことになった。空襲は結構長時間にわたったので、壕の中に畳を持ち込んで、その上でゴロ寝をするようにもなった。”怖がり“の私は、この毎晩の空襲に気力を喪失し、いつの間にか「日本を守るために海軍に入る」などという健気な志は雲散霧消してしまい、 ただただ空襲が終わるのを祈るばかりだった。 このような閉鎖的な状況が続いて、5年生になった私が太平洋戦争勃発後 4年目の 夏休みを迎えた頃、39歳になっていた私の父が招集されて入隊した。父は健康だったが、短軀で超近眼だったので徴兵検査では丙種だったし、年齢からしても招集はないと思っていたので、ショックだった。快晴の夏空の下、父がいない家の中で私の心は暗かった。 その夏休みの半ばが終わった8月15日の正午、昭和天皇のラジオ放送を聴くために私は母や姉と一緒に防空壕へ入った。私たちは毎晩のように防空壕へ逃げ込んでいたので、空襲情報を聴くためにラジオ受信機を壕の中に持ち込んでいたのである。そのラジオから聞こえてきた天皇の声はカン高くて聞き取りにくかったが、それが降伏宣言だということは理解できた。その瞬間、私は畳の上に背中を押しつけて大きく伸 びをした。「もう空襲はない。父も帰って来る」と思って、嬉しかったのだ。この瞬間の喜びの気持ちは、いつまでも忘れることがない(非国民?)。 

この時、負けるはずがない日本が負けたので悔しくて涙を流した、という人がいたと聞くが、4年前の日米開戦時に「こんな大国アメリカに負けたらたいへんだ」と恐 れ戦いた私には、そのような感情は起きなかった。それから何日かたつうちに、降伏後の日本が私の心配したような過酷な運命に陥ることなく、進駐軍によって平和裡に統治される、という見通しが広まり、私はますます安堵の気持ちを強くした。 9月1日、私たちは「箕面国民学校」が再改称した「箕面小学校」に登校し、二学期を迎えた。敗戦で価値観が一変した、という大人が多かったようだが、前記のように偏った軍国主義教育を受けていなかった私たち箕面小学校の生徒には、そんな感慨 は起きなかった。この学校には、戦時中「軍国主義」を鼓吹し、戦後一転して「民主主義」を唱えて赤旗を振るような先生はいなかったから、戦後私たちが先生不信に陥ることもなかった。有名な教科書の“黒塗り”はやらされたが、先生に対する信頼感 があったので、「敗戦だから、このぐらいのことはしょうがない」と思っていた。 このように、学校生活の大本は変わらなかったが、変化した部分もあった。まず国旗・国歌・御真影という三点セットがなくなり、それにつれて堅苦しい式典が激減した。また戦時中、4年生以上に「武道」という科目が設けられ、竹刀の素振りのよう な退屈な動作を課せられていたのだが、その科目が廃止された。そのほか、進駐軍の影響で野球が大人気になり、私たちは放課後校庭で野球を楽しむようになった。その 結果、「体育」の授業に野球が取り入れられるようになり ( 時々だったが ) 、私たちを喜ばせてくれた。 食料やその他の物資不足は急激には解消されなかったが、戦時中の重苦しいムード が一掃され、私たち小学生にはただただ明るい解放感溢れる楽しい戦後の日々の到来だった。 

                                 おわり

太平洋戦争と私 ( 10 )   〜 巽 健一 ② 〜

2020-09-06 10:58:11 | 太平洋戦争と私
3 日本の戦時体制に対する反感と「海軍志望」

日本にとって戦勢日に日に不利になるにつれて、新聞の地方版に毎日掲載される当該地域出身兵士の「戦死者通知欄」に、村内や近隣町村の若者の顔写真が載る件数が増えて行った。そして、それらの写真の軍装はあまり立派ではなかった。その反面一 面を飾っていた昭和天皇や陸海軍将帥たちの勲章で満艦飾となったきらびやかな軍装写真は、当時の厳しい戦況にふさわしいとはいえないものだった。私はそれを見るたびに、前線でたくさんの将兵が苦戦しているのに、こんな呑気なことで日本が守れるのかと、子供ながらに反感を覚えるのだった。

当時、子供向きの忠君愛国の軍記物語が出まわっており(児童用図書が姿を消してもこの種の図書は入手できた)、私もよく読んだ。それを読みながらいつも不思議に思ったのは、物語の中で天皇(たとえば後醍醐天皇)が偉いとされているのだが、ど ういう活動をしている存在なのかが具体的に描かれていないことだった。よって私は、 本当に偉いのは善戦健闘した楠木正成や新田義貞であって、後醍醐天皇ではないので はないか、という疑いを抱くようになった。これは、表面的に目立ちやすい軍事的活動と見えにくい政治活動のちがいが分からない、子供らしい疑念なのだが、とにかくそういう想いが昭和天皇にも投影して ( 大人になった私は昭和天皇を賢明な人物だと思うようになったのだが )、天皇や側近の将帥たちのいささか虚飾的な軍装写真に反感を抱いたのだ。

私が4年生になった頃(昭和19年頃)、何かに苛立つたのか、自宅の庭で「天皇なんて何や ! 」と大声の大阪弁で怒鳴ったことがあった。すると、直ぐに母親が飛んで来て「そんなこと言ったら憲兵隊に引っ張られる」と言ったので、怖くなり、その後はその種の言動を慎むようになった。

このように、私は子供ながらに当時の日本の戦時体制に何とはなしに疑念を抱き、 やはりアメリカには負けるのではないかと恐れ戦いていた。そんな私には、「天皇陛下のために戦う」とか「神国日本のために戦う」といった観念は皆無で、ひたすら「 日本が負けたら大変だ」という心配ばかりしていた。そしてその延長線上で、自分が 大人になったら日本を守るために戦わなければならない、と思うようになっていた。 具体的には、近所のお兄さんたちのように海軍兵学校を受験しようと思った。私が海 軍を目指したのは、太平洋戦争の主役が海軍だったのと、陸軍よりスマートだとい う漠たるイメージがあったからだろう。

その頃、学校で父兄の授業参観があり、その後で先生と父兄の個別面談があった。 参観を終えて帰宅した母親が私に、担任の先生との面談の話をした。先生から「巽さん は将来何になりたいと言っていますか?」と訊ねられたので、「海軍兵学校を受験したいと言っています」と答えたら、先生が「巽さんなら合格するでしょう」と言ったとのことだった。いま思うと、それは先生(中年の女の先生)のリップ・サービスに ちがいなかった。海兵はとても難関で、私の周囲の学業優等・身体強健・運動神経抜 群のお兄さんたちが、軒並み不合格となり、当時の旧制高校・高専へと進路を変更し ていた。そして私も、海兵志望といいながら、将来の自信など皆無だった。(学業成績 以前に、海軍で重視されていた体操の「鉄棒」や「跳び箱」が苦手だった。

そんなある日、箕面国民学校の先輩で同級生のY君の兄さんである予科練生徒(海軍飛行予科練習生)が私たちのクラスに来て、先生の許可を得て私たちを近くの神社に連れ出した。彼はとても大柄でカッコよく、ちょっと不良っぽいが、白を基調とするその制服姿は海軍らしくスマートだった。今なら、映画の二枚目アクション・スタ ーというところである。その彼は、拝殿の正面に私たちを整列させて、良く透る声で 一席ブった。話の内容は忘れてしまったが、戦争、海軍、予科練などの話題だった。 そして最後に、「君たちの中に海軍を志望するする者はいるか ? いたら手を挙げろ ! 」と叫んだ。級長だった私は最前列でクラスの指揮を取っていたのだが、海兵志望なので挙手して後ろを振り向くと、彼の弟の Y君をはじめ誰一人として挙手する者はいな かった。それをみてガッカリしたのか、彼は「解散!」と叫んで去って行った。いま考えると、彼は上官に「帰省した機会に母校で海軍や予科練のPRをして来い」と言われていたのかも知れない。

それはともかくとして、箕面村ののんびりした生徒たちには、時局認識にもとずく軍隊志望の気持ちなど皆無だったのだ。そもそも私たちの学校では、式典の際には国旗・国歌・御真影といったワンセットが登場するものの、教室で際立った国家主義的あるいは軍国主義的な教育が行われることはなかった。私は教育勅語の暗記はほとんどできなかったし、歴代天皇の名前は「神武、スイゼイ、アンネイ、イトク」までしか覚えられなかった。級友たちも似たようなものだった。しかし、それで先生から叱られることは一度もなかった。

第一、 クラスの半数を占める農家の子弟には、徴兵検査の年齢に達する前に軍隊の学校に入る、という発想が皆無だった。彼らは国民学校を卒業すると、上級学校に行かずに農業を手伝うのである。よって、中学卒が受験資格となる海兵や甲種予科練、 中学三年修了 ( ? ) が受験資格となる乙種予科練など志望する、というのはあり得 ないことだった。日米開戦時に味わった恐怖感を持ち続けていた私以外に、先輩の檄に応じて挙手する者がいなかったのは、いま考えると当然のことだった。
 
                              つづく

太平洋戦争と私 ( 10 )  〜 巽 健一 ①〜

2020-09-05 15:03:41 | 太平洋戦争と私
1日米開戦 

1941(昭和16)年12月8日の早暁、日本海軍の真珠湾奇襲攻撃によって太平洋戦争がはじまった。この日、大阪府豊能郡箕面村(現・箕面市)の村立箕面国民学校1年生だった私は、1時間目が終わって10分間の休憩時間に校庭で遊んでいたのだが、いつまでたっても2時間目の鐘が鳴らないので不思議に思っていた。すると、 突然拡声器からアナウンスがあった。日本とアメリカが戦争を始めたので、今日は授 業は中止で全員帰宅せよ、というのである。 そこで帰宅した私は、地球儀で日本とアメリカを見較べ、小さな島国・日本に対してあまりにも巨大なアメリカの国土を見て、「こんな大国を相手にして勝てるはずがないのでは?」と思って恐ろしくなった。 4年後にこの私の直観が的中するのだが、 それは少年ゆえの「無知」によるものだったかも知れない。僅か半世紀前まで帆船( 後に蒸気船)と騎兵で世界を支配していた大英帝国は、日本とほぼ同等の小さな島国である。それがその後戦車や飛行機の時代になり、石油と鉱物資源を国内に埋蔵した大陸国家(アメリカ、ソ連など)が優勢になったために、私の直観がたまたま的中したに過ぎない。 そんなことも知らない私は、とにかく「日本が負けたらどうなるのか」とひたすら心配だった。その日、私は電車で隣の駅近くの親戚の家にお使いに行った。すると、 その家の伯母さんが「健ちゃん嬉しいでしょう。戦争がはじまって」と言ったので驚いた。私はそれを聞いて、「この人は何を言ってるんだ。僕がこんなに心配している のに」と思ったが、黙っていた。日中戦争が引き続いていた当時、大人たちは戦争に 対して「不感症」になっていたのだろうか。

2 戦時中の耐乏生活

太平洋戦争の緒戦の勝利は目覚ましかったが、その後間もなく日本軍は次第に退勢に陥り、それにつれて国内の物資不足が著しくなった。食料の配給が滞り、お菓子類などお目にかかることがなくなった。その頃購読していた子供新聞で、子供読者が投稿した「長き夜に戸棚探せど何もなし」という俳句(川柳?)を読んで、身につまされたことを、今も覚えている。
私が住んでいた箕面村はもともと純農村だったが、大正時代に大実業家・小林一三 氏が阪急電鉄(当初は箕面有馬有軌鉄道)を創業し、宝塚線から枝分かれした箕面線 を村内に敷設してその駅周辺で住宅地を開発したため、当時の村民構成は農民とホワイトカラーが半々だった。戦時下で食料不足に悩んだのが、私たち新住民であるホワイトカラー族だった。そこで箕面村役場は、村有林を新住民に開放し、自力で開墾すれば農地として貸与する、という方針を打ち出した。私が住んでいた町内会ではそれを受けて、日曜日に男たち(大阪市内の商店主、大企業のサラリーマン、医師、教師など)が慣れない斧やトンガを使って樹木を切り倒し、農地を拓いた。私たち子供も、 掘り出された木の根っこを廃棄場所まで運んだりして働いた。
農地が整備されると、農作業を担当するのは女房族だった。彼女らは荒れ地でも育つ薩摩芋の栽培に励んだ。薩摩芋は素人でもつくれる代わりに、毎日のように水分を補給する必要があった。大阪・高麗橋で育って “船場の嬢(いと)はん” を自称していた私の母も、モンペをはいて天秤棒を担ぎ、毎日のように自宅から15分ほど離れ た丘陵地帯にある芋畑に通って、丘の上の小川から水を汲んで畑に撒いた。これは結構重労働なので、私もよく手伝った。
結局、当時の食卓は、配給米などは無きに等しく、主食は薩摩芋、副食は薩摩芋の蔓といった、自家産品で賄う始末だった。しかし、文句は言えない。食糧の自給ができたことについては、箕面村当局の英断に感謝すべきだろう。私の記憶では,芋の蔓は結構美味しかった。しかし、米の代わりに時折り配給されるコーリャン製のパンの 不味さには辟易し、子供心に「勘弁してくれ」と思ったものである。
物資の不足は、食糧だけではなかった。ある日運動靴が破れて使えなくなったので、 近くの履物屋で新しい運動靴を買おうとしたら、ゴム不足で兎の皮でつくった代用品 の運動靴しかないという。止むを得ずそれを買うと、雨で直ぐに駄目になり、その後 はその店で売っていた藁草履を買って、冬でも裸足でそれを履いて過ごした。そのほ か、戦前あった児童用図書・雑誌やレコードなどの文化財の類が姿を消したのは言う までもない。 
                          つづく

太平洋戦争と私(09)   〜 大林 浩 〜

2020-09-03 10:57:47 | 太平洋戦争と私
同級の皆さんも憶えて居られるように、太平洋戦争勃発の速報は、我々が国民学校一 年生の12月のこと、それがどんな事態なのかを理解するほどの年齢に達していなかっ たが、12月8日か9日の朝刊の一面記事に、「九軍神」として、真珠湾攻撃で散った海 軍将校たち九人の写真が大きく載っていたのを今でも憶えている。大きな見出しだけ で、下の記事を読める年齢ではなかった。当時私は大阪西成区の千本国民学校に通っ ていた。戦時と言っても、暫くは平穏な毎日であった。校舎も校庭も広く、プールな ども植え込みに囲まれていた。我々生徒の家は各家の前に青桐が立ち並び、申し訳の ような小さいな庭が玄関先と隣の家との間にあった、当時でいえば洒落た二階建てで はあったが、長屋住まいに毛の生えた程度の住まいで、勿論家に風呂は無く、専ら銭 湯通いであった。そんな地域にしては、とても設備の整った学校であった。校門の近 くには二宮金次郎の像が立っており、広い校庭の一角に『奉安殿』という恭々しい建 物があって、始業式などが在る毎に、校長先生が扉を開けて、うやうやしく巻き物を 取り出し、大きな講堂に整揃いした全校生徒に『教育勅語』などを読んだものであ る。「朕思うに、、、」と、今でも耳に残っている。

我々の裏長屋のような住まいから表通りに出ると、学校の横の通りに小さな駄菓子屋 があって、毎日通ったものである。ある日その通りに外国の兵士が数人、一人の日本 軍憲兵に連れられてやって来た。確かに彼らの服装はよれよれであったり、千切れた りしてはいたが、別に繋がれているようではなく、むしろ外の空気を吸わせるために 歩かせている様子であった。私が外人を見たのはそれが初めて、戦時中のことであ る。駄菓子屋といえども、大人の日用品も備わっていたので、憲兵がその外国兵たち に何かを買ってやっていたようだ。まだ戦局が良かった昭和 17年ごろだったのか、彼 らは捕虜として大阪西成区のどこかに収容されていたのだろう。米兵か、英兵か、 
どちらにしても、私には初めて見る欧米人であった。それも、触りこそしなかった が、目の前で、近々と。

戦局が芳しく無くなる頃のこと、まだ空襲など始まってはいなかったが、千本国民学 校が集団疎開を口にするころ、突然我々は西宮、甲子園口へ引越しすることになっ た。私にとっては嬉しいことであった。確か三年生のとき、今度は自宅に風呂が付い ている。上甲子園国民学校へ、クラスの皆からジロジロ見られる転校生となった。こ の環境の変化が一体何を意味していたのか、私は知らなかったが、父にとっては人生 の転機であった。父は長年大阪市土木局の技師として、地下鉄や下水道暗渠の延長工 事に携わって来たが、土木技師ということで、当時浜甲子園に築かれていた日本海軍 の飛行場整備などを請け負っていた会社が引き抜きに来た。三十歳後半、八歳の私と 二歳の弟、二児の父親として、それを好機と捉え、転職した。マンネリになりかけて いた市役所の、技師としては下役の仕事より、当時最先端の海軍の仕事とあって、父 は飛びついたのであろう。お陰で、ほんの束の間ではあったが、物資不足になってい た当時に、海軍飛行士に与えられる贅沢な物資、砂糖やチョコレートなどにありつい た。しかし、そんな時期はあぶくのように、すぐに消えた。戦局の悪化どころか、空 襲が始まり、誇りとしていた飛行場の故に、却って我々は危険な標的となり、小学生 の我々数人が飛行場近くで、艦載機P51の機銃掃射に遭い、命を失う危険もあった。 日本海軍の飛行機は、敵機を迎え撃つどころか、警報と共に反対の方向に向かって飛び立って行った。これ以上戦闘機を失いたくないと思ってのことだったのだろうか。 予科練などを夢見ていた少年だった私はがっかりしたものだ。

父が転機と捉えた会社も終戦と共に解体するのだが、それより一足先、昭和二十年の 五月に、広島の陸軍連隊本部に即刻出頭と赤紙が届いた。四十歳にもなろう父の召集 である。本土防衛の為だったのだろうか。(その侭広島におれば、原爆にやられていたであろうが、幸い尾道へ移され、岡山の部隊で終戦を迎えた。)父が居なくなっても空襲は続く。母は四歳の弟と赤子の妹を連れて逃げるのが精一杯。私の仕事は、い つも用意されていたカバンと、仏壇の中から位牌をかき集めるズタ袋を持って庭先の防空壕に駆け込むことであった。幸い私たちの家は焼かれなかったが、西宮も広範囲にやられた。

さて、父の転機だが、それが、あぶくのように消えてしまったのは明らかだが、そし て、終戦と共に日本の多くの人が人生のタガを外されたのだが、父の場合、それが取 り返しの付かない状態となった。大阪市の条例で、依願退職をした者は市へ復職出来 ないことになっていた。市の役職にある者が徴兵された場合は戦後復職できたのだが、父は依願退職していたのだ。昭和の18年、太平洋戦争の戦局が苦しくなっていることが報じられる最中に、後へは戻れない職を捨てるほど、外部の仕事に将来性があると、父は本当に思っていたのだろうか。日本が戦争に勝つとでも思っていたのであろうかと、今にして考えさせられている。当時、勿論、「一億一心」「頑張りましょ う、勝つ迄は」と、日本が負けるなど、口に出そうものなら、売国奴と見なされる。 そして子供であった我々は「勝つ」としか思っていなかったが、大人の多くは、口に出さなくても、もう勝てないと思っていたに違いない。父は大阪市の役職へは戻れず、戦後の何百万の失業者の一人となってしまったのである。そして、76歳で亡くな るまで、二度と定職にあり付くことが出来なかったのである。誰の人生にも転機はやってくる。しかし、それをどう捉えるかで人生が変わる。勿論自分の判断力ばかりではなく、時勢や社会の動きに翻弄されることもある。転機の波に乗って人生を好転させる場合も、必ずしも自分の判断力の正しさばかりではない。単にラッキーであったということもある。逆に裏目に出て、私の父のように破局に突き落とされる場合もあ る。

幸い、私の父は、技師時代からも趣味で油絵をやっており、戦時中政府の戦意高揚のための絵画募集があり、入選して、天王寺美術館に展示されるほどであった。そして、戦後は大阪御堂筋の画商に言われるままに「売れる絵」を描いて、即ち、自分の描きたい芸術作品ではなく、普通の風景 画をかいて、細々と生計を立て、四人の子供を育てた。そして、晩年、子供たちが巣立って行ったのち、やっと自分が描きたい芸術作品を制作することが出来るようになり、その幾つかが京都の美術館に展示された。彼が亡くなる寸前に神戸の病院の窓から見た神戸港の絵、未完成のままに残された絵は、現役時代の私の研究室の大切な風景画であった。


                          大 林  浩

太平洋戦争と私(08)  〜 廣島 義夫 〜

2020-08-28 10:46:48 | 太平洋戦争と私
廣島義夫の「大東亜戦争(太平洋戦争)の思い出」です。

阪急沿線・箕面線の桜井に住んでいましたが、一つ目は、五十嵐さんも言われていましたが、小学校の帰り道で、戦闘機の機銃掃射を浴びたことです。蛍池飛行場(現・伊丹空港)に近かったので、国民学校の帰り道で低空飛行の敵機に、たぶん冗談半分で撃たれたのでしょう。見上げると、若い子どものような顔が覗き込んでいました。怖くなって通りすがりの家に逃げ込むと、 そこの小母さんが、可哀相にと言ってジュースを飲ませて下さったのが忘れられません。

二つ目は大阪の大空襲です。夜、桜井の自宅の二階から、大阪の空が真っ赤になっていて驚きました。そして翌日の朝には、阪急電車の桜井駅に、見たことも無いほど多くの数の、疲れ果てた顔をした人たちが続々と降りて来ていました。 三つ目は、国道171号線=当時の産業道路沿いにたくさん掘られた横穴です。そこには敵の攻撃を避けるために、蛍池飛行場から戦闘機が何十機も持ち込まれていました。一つの穴に1機ずつ戦闘機が入れてあり、そこにはまだ若い空軍兵が一人ずつ配 置されていました。子供心に、冷やかし半分に遊びに行きましたが、旧制中学校の4~5年生ぐらいのお兄さんが虚ろな顔をして座っていて、口をきくことも出来ませんでした。

やはり、大東亜戦争には暗い記憶しかありませんね。