同窓会だより

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

太平洋戦争と私(08)  〜 廣島 義夫 〜

2020-08-28 10:46:48 | 太平洋戦争と私
廣島義夫の「大東亜戦争(太平洋戦争)の思い出」です。

阪急沿線・箕面線の桜井に住んでいましたが、一つ目は、五十嵐さんも言われていましたが、小学校の帰り道で、戦闘機の機銃掃射を浴びたことです。蛍池飛行場(現・伊丹空港)に近かったので、国民学校の帰り道で低空飛行の敵機に、たぶん冗談半分で撃たれたのでしょう。見上げると、若い子どものような顔が覗き込んでいました。怖くなって通りすがりの家に逃げ込むと、 そこの小母さんが、可哀相にと言ってジュースを飲ませて下さったのが忘れられません。

二つ目は大阪の大空襲です。夜、桜井の自宅の二階から、大阪の空が真っ赤になっていて驚きました。そして翌日の朝には、阪急電車の桜井駅に、見たことも無いほど多くの数の、疲れ果てた顔をした人たちが続々と降りて来ていました。 三つ目は、国道171号線=当時の産業道路沿いにたくさん掘られた横穴です。そこには敵の攻撃を避けるために、蛍池飛行場から戦闘機が何十機も持ち込まれていました。一つの穴に1機ずつ戦闘機が入れてあり、そこにはまだ若い空軍兵が一人ずつ配 置されていました。子供心に、冷やかし半分に遊びに行きましたが、旧制中学校の4~5年生ぐらいのお兄さんが虚ろな顔をして座っていて、口をきくことも出来ませんでした。

やはり、大東亜戦争には暗い記憶しかありませんね。

近況報告(続)  〜 大林 浩 〜

2020-08-27 09:35:43 | 報告
広島様 

お便り有難うございました。京都は懐かしいですね。何時か又訪れることができればと念願しています。

所で、私たちの住んでいる Morristownのことですが、ここはニューヨーク郊外、車で45分ぐらい、通勤圏内の住宅都市です。私たち夫婦は、 娘一家の隣に建ててくれた別館に住んでいますが、娘婿はニューヨークで事業をしており、毎日車で通っています。

毎日猛暑に襲われている日本全国の様子がこちらの TV Japan というチャンネルで報じられていますが、如何でしょうか。こちらでも、夏八月ですから、確かに暑いことは暑いのですが、猛暑とは言えません。家内の病状故に 年中温度は調節されていますので、家の中に居るかぎり暑さは感じません。

私たちが まだ前の家、私たちが四十年以上住んでいた家に居りましたころ、五十嵐さんご夫妻がニューヨークに来られ、お目に掛かり、ほんの数時間でしたが、楽しく有意義なときを持ちました。
今はもう少しニューヨークに近い、娘の家のほうに移ってきました ので、もし広島さんご夫妻がニューヨークへ観光旅行ででもいらっしゃることがあれば、喜んで出かけます。

私は今にでも京都へ行きたいのですが、寝たきりの家内の傍を離れることはできません。また何時か広島様にお目にかかれることができればと思っております。

                      大林 浩

近況報告(続)  〜 廣島 義夫 〜

2020-08-27 09:24:39 | 報告
廣島義夫です。

大林さん、有り難うございました。
北白川界隈だけでなく、京 都の街は コロナの影響で観光客もゼロに近く、大変静かになっています。街の人々は、 これが本 当の京都や、これで良いんだと言っています。ただ今年の夏は8月になって、も のすご く暑く、80半ばの私たちにはやりきれません。
Morristownがどんな所か知らないので すが、地図でみた限りでは南部なので暑いのでしょうね。奥様が大変でしょう が、精一杯 ケアしてあげて下さい。

ご夫妻そろってお元気で・・・、お祈りしています。

太平洋戦争と私(07)  〜 坂田 健太郎 〜

2020-08-26 11:18:48 | 太平洋戦争と私
今田様

父の周囲の人々の考えは、むしろ東京転勤は死のリスクが増えることと考えていました。 当時満洲は中立国で"日本"ではないという理由で、平和でした。物資も不足していませんで した。
父の「幸運」というよりは、当時は父の「不運」と考えられた訳です。 ところが、ソ連軍の侵入の結果、父の後任者はソ連軍に抑留されて、シベリアへの途中で自動車事故で亡くなられました。 
父は”予想通り”に3月10日に東京で大空襲にやられました。父と叔父(深川区、本所区)の三人とも自宅は焼失してしまいましたが、幸い無事でした。

客船(大阪商船の「黒龍丸」)の運行は辛うじてありましたが、米軍の潜水艦による攻撃を警戒して対外的には出帆は極秘で、電話で出港を通知がきたら1時間以内で乗船できるところに待機しなくてはなりませんでした。航路も、夜間は潜水艦魚雷攻撃を逃れるために、朝鮮半島沿岸近いところを迂回する始末です。魚雷攻撃を受けても乗船客の一部を救助ができるように考えてのことでしょう。 
おかげで「大連ヤマトホテル」(今でも建物は残っている)で優雅な1週間のホテルライフを過ごしました。

太平洋戦争と私(06)  〜 今田 寛 〜

2020-08-24 12:41:51 | 太平洋戦争と私
今回は、私の戦時中の思い出ではありません。これはまた別途。稲垣君(住所不明)と清水君、ことシミキン(故人)に関わる戦争がらみの話です。

実は私はいま、現役時代に長く住んだ上ヶ原の家の片づけをしていますが、 その中で添付のような手紙が出てきました。いつどういういきさつで頂いた手紙かは定かでありま せんが稲垣君からの手紙です。多分昭和53年に『最後の満洲 錦州終戦前後』という本が出版され ていますが、以下のような理由で、その本に関連しての手紙だと思います。

稲垣君は満州からの引揚者で、私の家内の家族と同じ上陸用舟艇で、中国大陸から苦労して引き上げてきました。添付の彼の文には、終戦後の満州での苦労と、引き上げの苦労が端的に表われているのではないでしょうか。私の家内も決して当時のことを語りたがりません。子どもの心に刻み込まれた大きな傷のようです。それにともない (今時怒られるかもしれませんが) 拭いようのない人種偏見が残っているようです。私の家内の父親と稲垣君の父親は、 錦州市の引き上げ団の団長と副団長だったようで、昭和21年6月に引き上げてきました。彼の文から、複雑な思いが伝わってきます。
 
   

一方シミキンの方ですが、彼は長く神戸栄光教会(関学誕生の母体)で聖歌隊を指揮していましたが、私の義理の兄(北村宗次)が同教会の牧師を長くしていた関係もあって、彼の葬儀には出席しました。その時の牧師の話で初めて知ったことですが、彼は神戸の空襲から避難している最中に危険な状態になり、お母さんが彼の体の上に被さって彼を守り、お母さんは亡 くなったということでした。誰か聞いた人がいるかもしれませんが、我々の仲間の中にも、人にしゃべりたくない、思い出したくもない戦争経験をもつ人がいるのかもしれません。よくも当時の大人は、あんなアホウなことを始めたものですね。

                  今田 寛