昔、我々が若い頃、オードリー・ヘップバーンの「ティファニーで朝食を」(Breakfast at Tifanny’s, 1961)という映画があったが、私のは「昼食」で、シャンペンなどと、そんなロマンティックなものではない。ティファニーというのは言うまでも無く、ニューヨーク、マンハッタンのど真ん中、五番街と57丁目の角にある有名な宝石店のこと。今は世界中、特に日本などの百貨店の一角に見られる、その名の宝石店の本店のことであるが、私の「マーサズ・ヴィニヤード」も、「昼食」も、そんな派手なものではなく、ハンバーガーと缶ビールという簡単なものであった。しかし、それが私にとっては本当に心温まるものであった。
先ず、「マーサズ・ヴィニヤード」とは一体何なのか。それは、マサチューセッツ州のすぐ沖合いにある島のことである。マサチューセッツ州南部から東の大西洋に向かって半島が突き出ており、50キロほど行った所で、ほぼ直角に北に向かって曲がっている。このカギ形の半島は「ケープ・コッド」と呼ばれ、避暑地で有名である。娘一家も毎年、一、二週間そこで過ごす(但し、私は寝たきりの家内の介護で、いつもお留守番だが)。カギ形の半島の内側は湾をなしており、外側は大西洋に面している。内側には、ボストンから海岸沿いの南にあるプリマスPlymouthもあり、このプリマスに1620年12月にピュリタンたち102名が、メイフラワー号で漂着したことは余りにも有名な史実である。この半島の付け根のところ、外海に面したところにハイヤニス・ポート(Hyannis Port)という小さな町があるが、その町も、そのすぐ沖合いにあるマーサズ・ヴィニヤード島も、私がアメリカに渡った1960年代には、知らないものはいなかった。
私は1962年に留学という形でアメリカに渡ったが、時の大統領ジョン・F・ケネディーの親元の夏の家がハイヤニス・ポートにあり、その向かいの島、マーサズ・ヴィニヤードを含めて、その辺りはケネディー家一族が休暇で集う場所であったからだ。ケネディー大統領をはじめ、ジャクリーン夫人、法務長官を務めた弟ロバート・F・ケネディー、その下の弟で上院議員のエドワード(テッド)・ケネディーなど、当時テレビ・ニュースで殆ど毎日顔を見る人たちが集まるところであった。最近では、マーサズ・ヴィニヤードの島には、オバマ大統領のときに駐日アメリカ大使を務めたカロライン・ケネディー(故ジョン・F・ケネディーの娘)の家もあった。ピュリタンに淵源し、1600年代から長くプロテスタントの文化が支配してきたアメリカへ、カトリックの国々からの移民が始まったのは十九世紀のことで、カトリック移民が多くなると、ローマ法王庁がアメリカを乗っ取るのではないかと、カトリック移民たちは永く疑いの目で見られいたので、カトリックの大統領などは想像することもできなかった。
そのアメリカに、建国(1776年)二百年近く経って、初めてカトリック教徒が大統領に選ばれた。ジョン・F・ケネディーは最初のカトリック大統領であった丈けではなく、アメリカ史上最年少(43歳)の、若い大統領として選ばれ、国民に大きく期待されていたので、休暇中でもその私生活にテレビは付き纏っていた。普通、大統領が余暇を過ごすときには、ゴルフなどをしている姿が放映されるが、青年大統領ケネディーの場合は、故郷の庭で弟たち、友人たちとフットボールをしている姿で写る。あらゆる面で斬新であった。幼い子供連れの一家がヨットで漕ぎ出す場面も、当時のテレビでは見慣れた光景であった。ケネディー一族の休暇の範囲が「ハイヤニス・ポート」と向かいの「マーサズ・ヴィニヤード」という島であり、各局テレビを始め、報道員の波も押し寄せ、アメリカのどこにいてもその様子を知ることができた。
しかし、あれから半世紀以上経ち、ケネディー大統領の暗殺(1963年)も、弟ロバート・F・ケネディーの暗殺(1968年)も、最近のアメリカ人にとっては歴史的事実という第三人称的なものとなってしまっており、自分たちとの関わりを感じていない。私が渡米した1962年、九月にボストンに着いてひと月も経たないときに、キューバ危機(1962年10月)が起こった。当時のソヴィエト連邦のフルシチョフがアメリカの鼻先、カストロのキューバにミサイル基地を建設させ、そこへソ連のミサイルを運び込もうとしたのである。これに対してケネディー大統領は非常事態を宣言し、アメリカの艦隊や空軍が海上封鎖に踏み切り、ソ連の艦隊が引き返さざるを得ない状態にした。私は家内と赤子の長男を日本に残して着いたばかり。第三次大戦が勃発し兼ねない事態に面し、急いで家族のいる日本へ帰る覚悟をした。毎日テレビの報道に釘づけの、緊迫した二週間であった。即ち、これらの世界情勢やケネディー政権は、歴史的な事実というような第三人称的なものでなく、私自身の身にふりかかることとして、この体が覚えている。言い換えるならば、ハイヤニス・ポートもマーサズ・ヴィニヤードも今ではそれ程広く知られた地名ではなくなってしまっている。
考えれば、ケネディー家は悲劇の一家である。ケネディー大統領の両親ジョーゼフとローズ・ケネディーはボストンの富豪、父ジョーゼフはアメリカの駐英大使も務めたが、長男のジョーゼフ・ジュニアーは第二次大戦、ヨーロッパ戦線で空軍爆撃機手として戦死した。次男ジョンは政界に乗り出し、大統領にまで昇り詰めるが、三年目(1963年)に南部テキサス州のダラスで暗殺され、三男ロバートは兄の後を受けて、後に大統領選挙に出馬し(1968年)、全米各州での予備選挙で勝利し、秋の選挙で共和党候補のニクソンを凌駕しうる民主党候補と目されていた矢先、M.L・キング牧師暗殺の数ヵ月後に凶弾に倒れた。辛うじて四男のテッド・ケネディーだけが、上院議員の重鎮として、生涯を全うしたが、悲劇はそこでは終わらず、次の世代にも及んだ。大統領の息子ジョン・F・ケネディー・ジュニアーは、父の死(1963)から数十年後(1999)に、上記のマーサズ・ヴィニヤードの沖合い、自分で操縦していた自家用機の墜落で、同乗の妻とその妹と共に死没した。ジョーゼフとローズ・ケネディーは、この孫の死を経験する以前に亡くなってはいたが、存命中、夫婦して、有望な息子たち三人を、次々と非業の死に奪われた彼ら夫婦の悲しみは汲み尽くし難い。ケネディー兄弟の四男テッド・ケネディー上院議員は、兄たち三人の非業の死のみならず、若い甥、ジョン・ジュニアーまでも事故死で葬らねばならず、また、自分は非業の死を免れたといえ、脳腫瘍で逝かねばならぬ現実に直面し、ケネディー家には何かの「呪い」があるのかと吐露したと言われている。私がマーサズ・ヴィニヤードに連れて行ってもらったのは、このジョン・ジュニアーの不運な飛行との平行線上のことである。
五人家族の私たち一家には、このアメリカに親戚は全然ない。三人の子供のうち、次男を1990年の交通事故で亡くしたので、今は五十代の長男と娘だけになった。しかし、カトリックの神父として働いている長男には家族はない。家内が寝たきりの病人なので、頼れるのは娘の家族だけであるが、娘の家族には育ち盛りの二人の孫娘がいて、娘は子育てで忙しい。そういうわけで、私は家内の介護に全てを懸けている。ところが、幸いなことに娘婿のダン君がとても親切で、我々のために娘家族の家の裏に、病人を考えて設計された家を建ててくれた。我々はそこへ三年前に引越してきた。隣接しているので、孫娘たちが食事を隣から運んでくれる。
写真 1)娘の家と私の家
ブッキラボウで無愛想だが、人には親切な娘婿ダン君が、先日、彼の自家用機でマーサズ・ヴィニヤードへ連れて行ってくれるという。毎日介護に掛りっきりの私を、無理やりに連れ出してくれたのである。娘と二人の孫娘たちが、家内の病床に付きっ切りでいるから、安心して「飛んで来い」というのである。
飛行場は自家用機やcorporate jet(重役たちの出張に用いる会社所有の飛行機)のみが発着する所で、多くのエヤーラインや一般乗客で賑わう空港ではない。車で飛行場に着き、ダン君の格納庫を開けて、専用の牽引機で飛行機を引っ張り出す。そして乗って来た車を格納庫に納めて飛行機に乗り込む。乗せてもらったのは、これが初めてではないが、こんな遠乗りは初めてである。娘一家は毎年ベイケイションであちこちへ飛ぶので、乗り慣れているが、いつもお留守番をしている私にとっては珍しい飛行である。その飛行過程が、あのジョン・F・ケネディー・ジュニアーの不運な飛行と全く同じ行程であった。私が空から見たその行程は、地上では何十回もハイウェイを行き来したところなのでよく知っているが、空から見ると全く違っていた。尤も三千メートル上空からなので、町々の細かいものは見えない。地図のように陸地の輪郭しか識別できない。マリーナに出入りするベイケイション・ボートやヨットなども、点のようなもので、むしろそれらが通った海面の白い線の方がはっきり見える。地上でその行程を行くのには、ニュージャーシー州からニューヨークを通り抜けて、横向けの長方形の形をしたコネティカット州を海岸沿いの高速を何時間も走らねばならない。それからロード・アイランド州を通り抜けてマサチューセッツ州に入る。やっとマサチューセッツ州のあのケープ・コッド半島に到着しても、マーサズ・ヴィニヤードの島へは、そこからフェリーで渡らなければならない。それら全過程を考えると恐らく一日仕事であろう。それをダン君の飛行機は一時間そこそこで飛ぶ。我々はニュージャーシーのモリスタウン(Morristown)の飛行場から飛び立ったが、ジョン・F・ケネディー・ジュニアーの飛行は同じニュージャーシー州でも別の飛行場から飛び立っている。残りは全く同じの行程でマーサズ・ヴィニヤードに着いている。ジョン・ジュニアーは1999年の7月に、ケネディー一族の従兄弟の結婚式に出席する為に、彼の妻キャロリンと、その妹ローレン・ビセットを乗せてハイヤニス・ポートに向かっていた。私たちの飛行と全く同じ航路をとって、先ずマーサズ・ヴィニヤードに向かい、そちらの管制塔が到着を確認している。しかし、その後のこと。そこから比較的短い飛行でハイヤニス・ポートに向かう途中、ジョン・ジュニアーの飛行機はレーダーから消えた。彼らの飛行が夜であったこと、そしてジョン・ジュニアーの飛行経験が浅かったことが原因ではないかと思われる。ジョン・ジュニアーはその年の四月にパイパー・サラトガPiper Saratoga機を購入したばかり。そして七月に遭難しているのである。
娘婿ダン君は、もう十年以上前にシラスCirrusという単発プロペラ機を購入しており、飛行時間も飛行距離も十年以上。フロリダへは毎年往復するし、大陸横断でカリフォルニヤへも飛んでいる。ハリケーン災害で苦しんでいたカリブ海のハイチ国へも、ボランティアで、救援物資を運んで何往復もしたこともあり、経験豊富である。幸い私は安心して飛ぶことができた。ダン君の隣に座った。目の前には多くの計器があり、私にはそれらが何なのか全然わからない。助手席なので、操縦桿もあったが、恐ろしくて触れなかった。いろいろ説明してくれていたが、飛行のことや計器の詳しい専門知識で何のことやらさっぱり分からない。
写真3)ダン君のCirrus 機
写真4)マーサズ・ヴィニヤードでダン君と昼食
コネティカットの海岸線に沿って飛んでいると、ダン君は高度を下げて、大きな河口のあたりを旋回し、下に見えるのが「コネティカット・リバー」(Connecticut River)だと指摘してくれた。その辺りが我々にとって特別な意味を持つ場所であるということを娘から聞いて知っていたからであろう。コネティカット州の中間どころにあるこの川はニュー・イングランドでは恐らく一、二の大きな河である。その河口から数キロ遡ったところに入り江があり、その入り江の奥に今もキャムプ場がある。私が米国での最初の一年をボストンで過ごし、二年目にはフィラデルフィアへ移るという夏休みを、そのキャムプのカウンセラーとして過ごしていた。1963年の夏のことである。日本に残してきた家内と赤子の長男を呼び寄せた。八月にニューヨークのアイドル・ワイルド空港(現在のケネディー空港)に着いても、ノースウェスト航空は遅れたので夜中であった。直接夜中にキャムプ場に連れてきたので、家内にとっても、一才になっていた長男にとっても、最初に見たアメリカは、コネティカットの田舎のキャムプ場であった。そういうわけで彼らの脳裏に残るアメリカの景色は、林に囲まれ、入り江の水に面した、のどかなキャムプ場である。
それだけではない。長男も次男も小学生になり、夏のキャムプに参加できる年齢になると、毎夏そのキャムプへ連れていった。こうしてそのキャムプやその近くの町々、コネティカッ・リバーが、アメリカでの私たちの「心のふるさと」となっていったのである。そして、次男が25歳で事故死をした時に、彼にとって最もふさわしい場所、このコネティカット・リバーの河口から乗り出して、大西洋の水に彼の灰を託したのである。ダン君はそれを知っていて、低空飛行をし、私を暫くの思いに耽らせてくれたのである。
オードリー・ヘップバーンの「ティファニーで朝食を」はロマンティック・コメディーであったが、私の「マーサズ・ヴィニヤードで昼食を」はダン君の思いやりと、私の、悲しいが懐かしい、思い出のひと時であった。
写真5)コネティカット・リバーの河口と外海。何マイルか船で乗り出したので、今飛んでいる辺りが次男の灰を託した場所であろう。