あさねぼう

記録のように・備忘録のように、時間をみつけ、思いつくまま、気ままにブログをしたい。

シュメール人

2020-10-21 13:42:32 | 日記
前3000年代頃、メソポタミアで都市文明を最初に生み出した。民族系統不明であるがウル、ラガシュなどの都市国家を建設、青銅器・楔形文字の使用、ジッグラトやシュメール法典などの文化を発展させた。

メソポタミア文明の中で
 民族系統は不明だが、メソポタミア地方南部(ティグリス・ユーフラテス川下流)で都市を形成し、メソポタミア文明の基礎を築いた民族。紀元前4000年紀(前3000年代)の終わり頃、メソポタミア地方南部の平野部で、麦類やナツメヤシの栽培、牛や羊、山羊、豚などの飼育を行い、キシュ、ウル、ウルク、ラガシュなどの最初の都市国家を生み出した。その民族系統は不明で、前4000年紀前半にメソポタミア南部に移動してきたと考えられている。
シュメール人の都市文明
 前3000年紀に栄えたシュメール人の残した都市遺跡として最大のものがウルクである。ウルクは城壁に囲まれ、公共建築物をもち、約230ヘクタールの居住地をもっていた。ウルクに次いで繁栄したウルの遺跡からは王墓が発見され、またシュメール人の風貌とその社会を伝える「ウルの軍旗」といわれる遺物も出土している。またウルなどの都市には、巨大な神殿であるジッグラト(聖塔)が建造されている。 → シュメール文化
シュメール人の文字と神話
 またシュメール人は、楔形文字を生み出し、最古の神話「ギルガメシュ叙事詩」を残しており、最近では多数出土した粘土板でシュメール法典の存在が注目されている。彼らの文化は、メソポタミア文明の最初の段階であるシュメール文化と総称される。楔形文字はその後もオリエント世界の諸民族の言語を書き表す文字として共通の文字とされ、アケメネス朝ペルシアまで続いた。シュメール法典は古バビロニア王国のハンムラビ法典に継承された。またシュメール人の神話は、その後のオリエントの諸民族に影響を与え、ユダヤ教の旧約聖書を通じてキリスト教にも引き継がれており、例えば、旧約聖書の「ノアの箱舟」(大洪水)の話の原型はギルガメッシュ神話に見ることができる。

シュメール人の謎
 シュメール人は、彼らの残した都市、楔形文字、青銅器など、その後のメソポタミア、オリエントに大きな影響を残した。しかし後にこの地方で支配的になるセム語とはちがう言語(日本語にちかい膠着語に属する)を用いていた。自らは黒髪人と称していたらしいが、「ウルの軍旗」などの残された遺跡、遺物に描かれたシュメール人は、目が異様に大きく、独特の風貌が見られる。現在は民族としてはまったく残っていないので、「謎の民族」とされているが、その歴史は彼らの残した楔形文字の解読が進んだ結果、明らかになってきた。その王たちの交替は「シュメール王名表」(「シュメール王朝表」ともいう)に記され、その中の王ギルガメシュを主人公とした英雄叙事詩も残されている。シュメール人は民族としては姿を消したが、その文化は後々にも生きていたと言える。
注意 シュメルかシュメールか:『シュメル-人類最古の文明』(小林登志子著、中公新書2005年刊)によると、原音に近い表記は「シュメル」であるが、日本で「シュメール」と表記するようになったのは、第二次世界大戦中に「高天原はバビロニアにあった」とか、天皇のことを「すめらみこと」というが、それは「シュメルのみこと」であるといった俗説が横行していたので、シュメル学の先達の中原与茂九郎(京大名誉教授)が混同されないように音引きを入れて表記したという。<『シュメル-人類最古の文明』(小林登志子著、中公新書2006年刊)はしがき>
シュメール人のその後
 シュメール人は一時バビロニア北部に起こったアッカド人に制圧された後、ウル第3王朝を復興させたが、前1800年頃にはアムル人の古バビロニアに征服された。以後、メソポタミアの主力はアッカド人やアムル人などセム語族系の民族となり、シュメール人はその中に埋没して消えてしまったが、楔形文字やジッグラト、法律などの文化は新バビロニアの時代まで生き続けていく。<小林登美子『五〇〇〇年前の日常-シュメル人たちの物語』2007 新潮選書 p.166>

エトルリア人

2020-10-20 18:55:12 | 日記
前8~6世紀、イタリア中部を支配した系統不明の民族。鉄器を使用し、独自の文化を発達させ、一時ローマも支配した。前3世紀にはローマに敗れ、イタリアに吸収された。

紀元前8世紀のイタリア半島
 ラテン語ではエトルスキという。イタリア半島の中部、ティベル川北部一帯の地名をエトルリアといい、そこにかつて居住していた人々をエトルリア人(エトルスキ人)という。彼らは系統は不明であるが、イタリア人とは異なり、インド=ヨーロッパ語系ではないと考えられている。ヘロドトスは小アジアのリディアから移住したという説をあげているが、現在では否定され、イタリア半島の先住民族の一つとされている。
ギリシア人との交易
 戦後になって考古学調査が進められた結果、前9世紀ごろ、イタリア中部のエトルリア地方で鉄器文化が始まった(ヴィッラノーヴァ文化)ことが明らかになってきた。この鉄器の原料は、対岸の地中海上のエルバ島で産出したものであった。前8世紀ごろには鉄以外に銅、銀、錫などの金属器が使用され高度な加工技術が発達した。このころからギリシア人が交易のためにエトルリアを訪れるようになり、彼らはイタリア半島南部にネアポリス(現在のナポリ)などの植民市を築いていった。ギリシア人はエトルスキ人からギリシアでは産出しない青銅の原料の錫を手にいれるなど、盛んに交易をおこなったが、それとともにギリシアから麦やオリーブ・葡萄などの農作物栽培技術が伝えられた。
ローマで王政をしく
 エトルリア人は前7世紀末ごろからイタリア中部の現在のトスカナ地方に12の都市国家を建設し、前6世紀まで繁栄したが、統一国家をつくることはなかった。しかし、その勢力を次第に南北に広げてゆき、南はカンパニア地方、北はポー川流域まで及んだ(右図参照)。
 前616年にはエトルリア人のタルクィニウスがティベル川河畔の都市国家ローマに移住して王に選ばれ、王政を行った。その支配は一時ほぼイタリア半島中部全土に及んだ。しかし、ローマでは前6世紀の終わりにエトルリア人の王が追放されて前509年に貴族共和政が成立し、エトルリアはローマとの戦いに敗れて次第に衰退した。その後もたびたびローマとの戦いに敗北し、前264年までにほぼ征服されてしまった。その後は、長い経過のなかでイタリア人との人種の混淆、ラテン文化への同化が進み、エトルスキ文化は全く忘れられてしまった。

エトルリア文明
 エトルリア人の文明はローマ文明が栄える前のイタリア半島で開花した。18世紀になって、彼らの残した大量の美しい絵のある壺や金属器、多彩な壁画を持つ墳墓が次々と発掘され、にわかに注目を集めるようになった。彼らはギリシア文字を用い、遺跡からも史料が多数見つかったが、それはギリシア文字の音だけを借りて彼らの言葉を書き記したもので、その言語はインドヨーロッパ語系ではないらしく、意味は分からなかった。こうして考古学的な資料はたくさんあるのに、どこから来て、どんな社会を作っていたのかが判らないために、「謎の文明」と言われたのだった。

エトルリアの壺
ヴルチ出土のボクシングの場面を描くアンフォラ(ぶどう酒入れ) 知の再発見双書『エトルリア文明』p.92(創元社)
 現在判ってきたことは、「エトルリアの壺」と言われる多数の壺は、どうやらギリシアからの輸入品であったらく、ギリシア文字の使用とともにギリシア文化の強い影響を受けていることである。なお、ローマの北方にあるタルクィニアの町にはエトルリア時代の貴族の墳墓の地下墓室が多数残されており、楽しく歌舞音曲を楽しむ姿とともに、恐ろしい冥界と思われる絵などが残されている。彼らはまた、鳥占いや肝臓占い(動物の肝臓を取り出して吉凶を占う)などを行っていたが、これはアジアに源流があると考えられている。<ジャン・ポール・テュイリエ『エトルリア文明』1994 知の再発見双書37 創元社刊 など>
エトルリア人の言語 エトルリア人の使用した言語は、長く不明とされていたが、用いられていた文字がギリシア文字と同系列であることが判り、現在ではほぼ解読がされている。エトルリア語は「謎の言語」ではなくなりつつある。わかってきたことは、エトルリア語は、本質的にはギリシアのアルファベットで書かれていることで、このアルファベットは「西ギリシア型」とよばれるもので、イタリア半島中部のギリシア植民市キュメから伝わったと考えられている。残されたエトルリア語碑文のアルファベットは、右から左へと読むように書かれ、O(オー)を用いず、UがOを兼ね、また有声子音b、d、gもないなどの特徴がある。<『同上書』p.154>





フェニキア人

2020-10-19 18:25:01 | 日記
東地中海岸で前13世紀ごろから海上貿易に活躍したセム語族の一つ。アルファベットのもととなったフェニキア文字をつくった。地中海世界でカルタゴなどの多くの植民市を建設した。

フェニキア人はセム語系であるが、単一の民族と言うより、東地中海岸の現在のレバノンのあたりを拠点に地中海方面に海上貿易に従事していた集団であった。古くは前15~前14世紀頃に始まるウガリトもフェニキア人つくった都市らしいが、前12世紀に「海の民」の攻撃によって滅ぼされたと考えられる。ウガリト以外のフェニキアの都市シドンやティルスは、むしろ海の民の活動に刺激され、前11世紀にさらに活発に地中海交易に乗り出し、前9~8世紀は地中海の各地に植民市を建設した。

フェニキア人

(引用)そもそもフェニキア人という名称自体、彼らが自らを指して呼んだものではない。ホメロスの作品に見られるように、ギリシア人が、東方(オリエント)から主に通商を目的として西方(ギリシア世界)にやってきた人々を「フェニキア人」と呼んだのである。「フォイニクス」つまりギリシア語でフェニキア人を表す言葉の意味は、彼らの特産品でもあった赤紫の染料に由来すると言われる。<佐藤育子「フェニキアの台頭」『通商国家カルタゴ』攻防の世界史 2009 講談社 後、2016 講談社学術文庫 p.37>
参考 青銅器時代のカナン人から鉄器時代のフェニキア人へ
(引用)青銅器時代のカナン人を母体としつつ、新しくこの地に到来した「海の民」との接触により影響を受け、またイスラエル人との軋轢のなかで、海の彼方へと積極的に乗り出していく、いや乗り出して行かざるをえなかった人々、つまりカナン人からフェニキア人への変容が感じられる。領土の縮小やそれにともなう人口圧など様々な条件が重なったことは当然であろうが、この時期のオリエントの大国の沈黙も、彼らの海外発展にとって有利に働いたに違いない。<佐藤育子『同上書』 p.38>

東地中海世界の新たな動き
 前12世紀の海の民の侵入にともなって小アジアのヒッタイト帝国と、エジプトの新王国の二大国が滅亡したことによって、東地中海世界でその両国に支配されていたフェニキア人、イスラエル人が自立することができた。フェニキア人は前11世紀中頃、アルファベットの元となるフェニキア文字を考案、イスラエル人(ヘブライ人、ユダヤ人と同じ)は一神教宗教を創始するなど、いずれも重要な役割を果たした。
アルファベットの考案
 彼らは活発な交易活動に便利なように、後のアルファベットのもとになる線状文字であるフェニキア文字を作り出した。この文字体系はすでに、前2000年紀中ごろのカナーンおよびシナイ半島に始まったが、その段階では象形文字的要素が強く残る線状文字であった。この初期のアルファベットは文字数も27個から30個と多く、文字を書く方向も右から左、左から右、あるいは行ごとに交互に書く牛耕式とまちまちで一定せず、さらには縦書きさえあった。それをフェニキア人は、前11世紀の中ごろ、文字数22個の子音文字からなり、右から左への横書きという北西セム語の線状アルファベットとしてのフェニキアを文字完成させた。<佐藤育子『同上書』 p.41>
 フェニキア人の作ったアルファベットは、子音を表すだけであったので、後にギリシア人が母音を加えて、現在のようなアルファベットになった。この完成された形のアルファベットは、フェニキア人の交易活動の広がりと共に、地中海世界に広がっていった。(ただし、アルファベットの伝搬者ではあったが、彼ら自身が書き記した文献資料は発見されていない。)

フェニキア人の興亡
 前1200年頃の海の民の侵入によって、青銅器文明段階の都市ウガリトが滅ぼされたため、フェニキア人は東地中海海岸を南に移り、ビュブロス、シドン、ティルス(テュロス)やベリュトス(現在のベイルート)などに都市を築き、地中海の貿易活動に進出するようになった。彼らの輸出品は特産であるレバノン杉といわれる杉材で、中東では森林が少なかったため、エジプトなどでも貴重な建築材としてフェニキア人の主要な交易品となった。レバノン杉は現在のレバノン国旗の図柄に描かれている。フェニキア人はさらに地中海各地に交易の基地を設け、特に銀や錫などの鉱物資源を獲得し、本国にもたらすようになり、それらの基地は次第にフェニキア人の植民市とされるようになっていった。
 フェニキア人の諸都市でははじめはシドンが有力であったが、次第にティルスが優位となって行き、前11世紀後半には地中海での交易活動もティルスを中心に展開されるようになった。前820年のキプロス島キティオンへの植民市建設に始まり、前9~8世紀はフェニキア人の地中海に於ける活動が最も盛んであったが、前8世紀後半になるとアッシリア帝国が地中海東岸にまで及び、フェニキアの諸都市もその支配下に入った。
カルタゴの建設
 ティルスを母市として北アフリカの現在のチュニジアに建設されたのがカルタゴである。カルタゴは伝承では前814年に建設したと伝えられているが、ティルスから大量のフェニキア人がカルタゴに殖民した背景には、そのころのアッシリア帝国の圧迫があったことが考えられる。他に、イベリア半島のカディス、バルセロナなどもフェニキア人が築いたとされている。一部はジブラルタルを超えてアフリカ西岸にも進出した。前8世紀になると、同じように地中海での植民活動を積極的に展開し始めたギリシア人との抗争が始まった。 → 地中海世界

アケメネス朝ペルシアの支配
 前6世紀前半には新バビロニア王国のネブカドネザル2世がティルスを13年にわたって包囲し、攻略した。しかし、新バビロニアの支配は永続せず、前6世紀後半からはアケメネス朝ペルシア帝国の支配に代わった。その王キュロス2世は征服地に対し比較的寛容であったので、フェニキア人の諸都市もその保護の元で地中海交易を継続した。
ペルシア戦争
 フェニキア人は前6世紀後半からのアケメネス朝ペルシアの時代には、その保護を受けて地中海貿易で活躍し、ペルシア帝国に海軍力を提供した。ペルシアと結びながら、ギリシア人やローマ人との間で商業支配をめぐって抗争することになる。ペルシア戦争も、ギリシア人とフェニキア人の対立という一面がある。フェニキア人の国カルタゴは、前480年のサラミスの海戦と同じ年にシチリア島のギリシア人と戦い敗れている(ヒメラの戦い)。
フェニキア人国家の消滅
 前4世紀には、マケドニアのアレクサンドロス大王は東方遠征の途次、地中海東岸のフェニキア人諸都市がペルシア帝国と結ぶことを恐れ、自ら征服活動を展開、多くの都市は戦わずに降伏、ティルスのみは抵抗したが前332年に陥落した。アレクサンドロスによってペルシア帝国が滅ぼされ、大王死後は、幾つかのヘレニズム国家に分割されたが、フェニキア人の諸都市はその一つセレウコス朝シリアが支配することとなり、かつての繁栄を失っていった。
 カルタゴは西地中海を支配する通商国家として存続していたが、イタリア半島中部の都市国家ローマが次第に有力となると、特にシチリア島をめぐって両者の利害は対立するようになり、前3世紀になると両者の抗争はポエニ戦争(前264~前146年、ローマ人がフェニキア人をポエニと呼んだことからきている)となって激突した。結局カルタゴはその戦いに敗れ、西地中海におけるフェニキア人の国家は消滅する。
 前63年にセレウコス朝シリアが滅亡したことにより、フェニキア人諸都市はローマの属州に組み込まれることとなった。こうして前1世紀までにローマ帝国が地中海を「われらの海」として支配するに至り、フェニキア人の存在もその世界に呑み込まれてしまうこととなった。
参考 フェニキア人のアフリカ周航?
 航海術に巧みであったフェニキア人は、前600年頃にはエジプト王ネコの命令でフェニキア人がアフリカ海岸を探検、また前6世紀後半にはカルタゴ人がアイルランドに達したとされている。<『新編西洋史辞典』創元社 フェニキア人の項>
 フェニキア人は、さらにアフリカ大陸を初めて周航したともされている(2005年の歴史能力検定・世界史1級問題)。
 この「フェニキア人のアフリカ周航」の出典はヘロドトスの『歴史』巻4、24節にある。そこにはエジプトのネコス王(ネコ2世 前610~595 とされている)が、ナイル河からアラビア湾に運河を造ろうとして失敗した後、フェニキア人に「リビア(アフリカのこと)」の地を東廻りで航海し北の海(地中海)を経てエジプトに戻ることを命じたことが記されている。
(引用)さてフェニキア人たちは紅海から出発して南の海(アラビア海)を航行していった。そして秋になれば、ちょうどそのとき航行していたリビアの地点に接岸して穀物の種子を蒔き、刈り入れの時まで待機したのである。そして穀物を刈り入れると船を出すとというふうにして二年を経、三年目に「ヘラクレスの柱」(ジブラルタル海峡のこと)を迂回してエジプトに帰着したのであった。そして彼らは――余人は知らず私(ヘロドトス)には信じ難いことではあるが――リビアを航行中、いつも太陽は右手にあった、と報告したのであった。<ヘロドトス/松平千秋訳『歴史』中 岩波文庫 p.28>
 航行中太陽が常に右手にあったと言うことは、南半球を東から西に航海したことになる。これがフェニキア人が「アフリカ大陸を初めて周航したといわれる」ことの根拠である。しかし、ヘロドトス自身、「信じ難い」と言っているし、その記事に続けてカルタゴ人がリビア(アフリカ)回航を試みて失敗したカルタゴの「ハンノの航海」についても触れている。ハンノの航海はポリビオスの歴史書によれば西回りで「アフリカ西岸に到達」したのであって、周航に成功したわけではない。したがってフェニキア人のアフリカ就航はあくまで伝説と捉えるのが正しいだろう。
Episode カルタゴ人の「ハンノの航海」
 カルタゴの提督で航海家のハンノは前500年頃、60隻の50櫂船を指揮して約3万人もの男女と共に「ヘラクレスの柱」と言われたジブラルタル海峡を越えて西アフリカに向かい、現在のカメルーンあたりに到達したという。この話を伝えるのはギリシア人の歴史家ポリビオスがフェニキア語で書かれたハンノの航海報告を写し取り、そのギリシア語訳が後世に伝えられたためであるが、登場する地名は現在のどこに当たるか推定困難なものが多く、この航海記の信憑性を認めない意見もある。<『世界史を読む事典』朝日新聞社 ハンノの航海、およびハンノの項>





「グレートヒマラヤトレイル」

2020-10-18 18:23:37 | 日記
「遥かなる天空の道」

ヒマラヤを東西に貫く世界で最も過酷なトレイル。世界5位の高峰マカルーを望み、3つの6000mの峠を越え、無人の氷河を行く。誰も見たことのないエベレストの光景も!

世界で最も高い所に刻まれた一本の道「グレートヒマラヤトレイル」8000mを超える山々を望み1700kmにわたってネパールを横断する世界でも最難関の縦走路。標高8463mのマカルーを望み、エベレスト山群の展望台までのトレッキングに2人の山岳カメラマンが挑む。酸素の少ない6000mの峠を3つ越え、強風が吹き荒れる40kmもの氷河地帯を進み、数々の困難を乗り越えて目にしたヒマラヤの巨峰の圧倒的な光景!


青木 文教

2020-10-17 18:27:25 | 日記
青木 文教(あおき ぶんきょう、 1886年(明治19年)9月28日 - 1956年(昭和31年)11月7日)は、日本のチベット研究者で僧侶。チベット=西本願寺間の交換留学生としてチベットのラサ市に派遣され、ダライ・ラマ13世の教学顧問を務めた。

雪山獅子旗
浄土真宗本願寺派末寺正福寺(現在の滋賀県高島市)の生まれ。旧名・仏教大学(現・龍谷大学)在学時の1910年(明治43年)、西本願寺法主・大谷光瑞の命でインドで仏教遺跡調査、1911年(明治44年)、ロンドンで教育事情調査に従事する。同年、清国のチベット進軍を逃れてインドのダージリンに亡命していたダライ・ラマ13世に謁見し、学僧ツァワ・ティトゥーを日本への留学生として同行する。
1912年(大正元年)にインドにて再度ダライ・ラマ13世に謁見し、「トゥプテン・ギャンツォ」のチベット名を与えられ、チベットへの入国を許され、ラサ入りを果たす。
多田等観とともにラサに滞在したが、多田等観がセラ寺で修行生活を送ったのに対し、青木文教はラサの街に居住し、特技の写真撮影の腕を活かして多くの当時のチベットの風景・文物を記録した。またチベット仏教を研究し、主にチベットの市井で多くのチベット仏教に関する文物を収集した。また、文法学や歴史学などを学ぶ傍ら、ダライラマ13世の教学顧問として近代化のための助言を行った。
雪山獅子旗のデザインもする。また今に言うバックパッカー的な存在だったとも伝う矢島保治郎が当時のチベットの軍事顧問であったとして共にデザインへ関与した説もある[要出典]。
1915年(大正4年)に学院での学びを終え、ダライラマ13世よりサンビリクト(別名パンディタ)の学位を受ける。そして、文教がチベットを離れる最後の一夜はダライ・ラマ13世と就寝したなど、深く現地に溶け込んだ。
1916年(大正5年)帰国。翌1917年(大正6年)に河口慧海の持ち帰ったチベット大蔵経の所有権をめぐり、青木文教と慧海との間で論争が起きる(大正の玉手箱事件)。

1941年(昭和16年)から終戦まで外務省調査部嘱託職員としてチベット問題研究に従事。戦後の1950年(昭和25年)、東京大学文学部チベット語講師に就任。