あさねぼう

記録のように・備忘録のように、時間をみつけ、思いつくまま、気ままにブログをしたい。

青木 文教

2020-10-17 18:27:25 | 日記
青木 文教(あおき ぶんきょう、 1886年(明治19年)9月28日 - 1956年(昭和31年)11月7日)は、日本のチベット研究者で僧侶。チベット=西本願寺間の交換留学生としてチベットのラサ市に派遣され、ダライ・ラマ13世の教学顧問を務めた。

雪山獅子旗
浄土真宗本願寺派末寺正福寺(現在の滋賀県高島市)の生まれ。旧名・仏教大学(現・龍谷大学)在学時の1910年(明治43年)、西本願寺法主・大谷光瑞の命でインドで仏教遺跡調査、1911年(明治44年)、ロンドンで教育事情調査に従事する。同年、清国のチベット進軍を逃れてインドのダージリンに亡命していたダライ・ラマ13世に謁見し、学僧ツァワ・ティトゥーを日本への留学生として同行する。
1912年(大正元年)にインドにて再度ダライ・ラマ13世に謁見し、「トゥプテン・ギャンツォ」のチベット名を与えられ、チベットへの入国を許され、ラサ入りを果たす。
多田等観とともにラサに滞在したが、多田等観がセラ寺で修行生活を送ったのに対し、青木文教はラサの街に居住し、特技の写真撮影の腕を活かして多くの当時のチベットの風景・文物を記録した。またチベット仏教を研究し、主にチベットの市井で多くのチベット仏教に関する文物を収集した。また、文法学や歴史学などを学ぶ傍ら、ダライラマ13世の教学顧問として近代化のための助言を行った。
雪山獅子旗のデザインもする。また今に言うバックパッカー的な存在だったとも伝う矢島保治郎が当時のチベットの軍事顧問であったとして共にデザインへ関与した説もある[要出典]。
1915年(大正4年)に学院での学びを終え、ダライラマ13世よりサンビリクト(別名パンディタ)の学位を受ける。そして、文教がチベットを離れる最後の一夜はダライ・ラマ13世と就寝したなど、深く現地に溶け込んだ。
1916年(大正5年)帰国。翌1917年(大正6年)に河口慧海の持ち帰ったチベット大蔵経の所有権をめぐり、青木文教と慧海との間で論争が起きる(大正の玉手箱事件)。

1941年(昭和16年)から終戦まで外務省調査部嘱託職員としてチベット問題研究に従事。戦後の1950年(昭和25年)、東京大学文学部チベット語講師に就任。

マズローの法則

2020-10-17 16:30:26 | 日記
マズローの法則で提唱されている5段階の欲求について、1つずつ見ていきましょう。

1. 生理的欲求

ピラミッドの一番下の段にあたる、最も基本的な欲求が「生理的欲求」です。生理的欲求は、生命活動を維持するために不可欠な、必要最低限の欲求を指します。いわゆる「3大欲求」(食欲・睡眠欲・性欲)のほか、呼吸をしたい、排せつをしたい、水を飲みたいなどの欲求も、生理的欲求に該当します。

私たちがより高次の欲求に進むためには、まずはこの生理的欲求が満たされていることが大前提となります。たとえば、いくら映画が観たいと思っていても、トイレを我慢していてはそれどころでなくなってしまうはずです。また、いくら勉強したいと思っても、腹ペコの状態ではまともに集中できないでしょう。

生理的欲求は、欲求のピラミッドにおける土台であり、いち生物としての人間がまず最初に抱く、欲求の出発点なのです。

2. 安全の欲求

生理的欲求が満たされたら、次に問題になるのは「安全の欲求」です。安全の欲求とは、身体的に安全で、かつ経済的にも安定した環境で暮らしたいという欲求を指します。

たとえば、紛争地域など、いつ殺されてしまうかわからない環境に置かれたら、今すぐ逃げ出したいと思いますよね。また、経済的に不安定で明日の生活さえままならなかったり、病気でいつも体調が悪かったりしても、生活の快適さは損なわれてしまいます。

このように、いつ生活が脅かされるかわからない不安定な状態を脱し、少しでも秩序のある、安心できる環境で暮らしたいという欲求が、安全の欲求と呼ばれるものなのです。

3. 社会的欲求

社会的欲求とは、家族や組織など、何らかの社会集団に所属して安心感を得たいという欲求を指します。所属と愛の欲求と呼ばれることもあります。

生理的欲求・安全の欲求が満たされていたとしても、話し相手がなく、自分を受け入れてくれる人もいないような孤独な生活では、とても寂しい思いをするはず。こうした「どこにも所属していない」という寂しさこそが、まさに社会的欲求が充足していない状態にあたります。私たちが健やかに日々を暮らしていくためには、物質的満足だけでなく、自分を受け入れてくれる親密な他者の存在が不可欠である、ということですね。

4. 承認欲求

何らかの社会集団に所属し、社会的欲求が満たされていたとしても、まだ次のレベルの欲求が現れます。「承認欲求」です。承認欲求は、単に集団に所属するだけでなく、所属する集団の中で高く評価されたい、自分の能力を認められたい、という欲求です。

学校に通っていれば社会的欲求は満たされますが、学校で友だちがいなかったり、いじめを受けていたりすれば、承認の欲求が満たされないためにとても悲しい思いをしてしまいますよね。仕事で実績を評価されたいと望むことや、SNSで自分の投稿に「いいね!」をつけてほしいと思う気持ちなども、承認の欲求に該当するものです。

承認の欲求は、さらに「低位の承認欲求」と「高位の承認欲求」に分類されます。

「低位の承認欲求」とは、他人に注目されたり、賞賛されたりすることを求める欲求のこと。いわば「誰かに褒められたい」という気持ちにあたります。承認欲求と聞いて私たちが真っ先に思い浮かべるようなタイプの欲求がこれです。自分で作った料理をSNSに投稿するのは、他人からの「いいね!」が欲しいという「低位の承認欲求」の一例と言えるでしょう。

一方、「高位の承認欲求」では、他人にどう見られるかではなく、自分が自分を承認できるかどうかが問題になります。SNSに投稿するためではなく、あくまで自分のなかの喜びや達成感にしたがって料理を楽しんでいるような状態です。「高位の承認欲求」は、他者依存的な評価軸から自立し、あくまで自分の中で立てた基準や目標にしたがった欲求というわけですね。

5. 自己実現の欲求

以上1~4のすべての欲求が満たされると、最後に残るのが「自己実現の欲求」です。自己実現の欲求とは、自分にしかできないことを成し遂げたい、自分らしく生きていきたいという欲求を指します。

「歌手になりたい」「起業したい」「北欧に暮らしたい」など、多くの人は何らかの「理想的自己イメージ」(夢)をもっているはず。そして、その「理想的自己イメージ」と現在の自分が一致していないときは、少しでも理想に近づきたいという欲求が生まれることになります。

たとえば、いくら会社で仕事ぶりが評価され、承認欲求が満たされているとしても、その人が本当は「歌手になりたい」という夢を捨てきれずにいるのだとしたら。どうでしょうか。理想と現実のギャップに悩み、どこか満足しきれないものを感じてしまうでしょう。

私たちの欲求が完全に満たされるには、社会的に成功するだけでなく、「理想的自己イメージ」との同一化を目指す=自己実現を果たす必要があるのです。

6つ目の欲求もある?

前章まで、人間の欲求は「生理的欲求」~「自己実現の欲求」までの5段階に区分されると解説してきました。しかし、実は、後年のマズローはさらにもう1段階、高次元な欲求をピラミッドに付け加えていたのです。その6つめの段階とは、「自己超越の欲求」と呼ばれるもの。

自己超越の欲求とは、「社会をより良いものにしたい」「世界の貧困問題をなくしたい」など、自分のエゴを超えたレベルでの理念を実現したいという欲求です。一見自己実現の欲求と似ていますが、両者は根本的に異なります。自己実現の欲求は「理想的な自分になりたい」と自分へベクトルが向いていましたが、自己超越の欲求は、他者や社会など、自分の外にあるものに対する貢献が志向されているのです。

たとえば、よくセレブや富豪が熱心に慈善活動をしたり、大規模な寄付をしたりしているのは、自己超越の欲求の発露とみることができます。2019年には、ハリウッド俳優であるレオナルド・ディカプリオ氏の環境保護団体が、大規模な火災が起きたアマゾン熱帯雨林を保護するため、5億3,000万円相当のお金を寄付した、というニュースが話題となりました。ディカプリオ氏の例に限らず、特にアメリカやヨーロッパの富裕者は、このような大規模な寄付をさかんに行なっています。

寄付や慈善活動と聞くと、ひねくれた人は「どうせ偽善だろう」と疑いの目を向けることがあります。しかし、ディカプリオ氏はすでに十分に豊かな暮らしをし、社会的にも十分に承認され、一流俳優としての自己実現さえ果たしているのですから、今さらお金や名誉を動機として寄付をするとは考えにくいですよね。5段階の欲求をすべてコンプリートしたディカプリオ氏は、最後の第6段階である「自己超越」の欲求に突き動かされ、世界のことを憂う純粋な思いから慈善活動を行なっているのだろう、と考える方が、マズローの法則的には適切な解釈ではないでしょうか。