
『史上最大の作戦』(The Longest Day)は、1962年のアメリカ映画。モノクロ。20世紀フォックスが製作・配給。第二次世界大戦における連合国軍のノルマンディー上陸作戦(全体の作戦名はオーヴァーロード作戦)の詳細を描いたコーネリアス・ライアンによるノンフィクション「The Longest Day」(邦題「史上最大の作戦」)を原作に製作された戦争映画である。
20世紀FOXの大プロデューサーダリル・F・ザナックが心血を注いで製作した作品。アメリカからジョン・ウェインやヘンリー・フォンダらが参加した他、英仏独からも豪華キャストを迎え、製作費1,200万ドル(当時のレートで43億円)の巨費[注釈 1]を投じた。なお当時20世紀FOXは『クレオパトラ』の製作で財政上の問題を抱えて会社が倒産寸前までいったが、この映画の世界的な大ヒットで再建したと言われている[注釈 2]。
原題を直訳すれば『一番長い日』であるが、当時20世紀FOX日本支社の広報を務めていた水野晴郎が『史上最大の作戦』と改題した。
音楽はモーリス・ジャールが担当した。主題歌は、この映画に出演もしている歌手ポール・アンカが撮影中に作詞・作曲[注釈 3]し、ミッチ・ミラー(英語版)が行進曲風に編曲して自身の楽団・合唱団が演奏している。
アカデミー賞では5部門でノミネートされ、そのうち撮影賞、特殊効果賞を受賞した。
後年、本作のフィルムにコンピュータで着色した「カラー版」も製作されているが、軍服や徴章、勲章などの着色に誤りがある。
1944年6月4日未明セーヌ河の湾曲部にあるドイツ西部軍B師団司令部で、司令官ロンメル元帥は家族の許へ帰ろうとしていた。連合軍の大陸侵入作戦を知らないわけではなかったがここ数週間は悪天候だし防御は完璧だった。同じ南部イングランドで300万近い連合軍を指揮するアイゼンハワー最高司令官は上陸作戦の日--D・DAYを決定しょうとしていた。遅い月の出と夜明け直後の干潮という絶対条件の揃うのは6月5~7日の3日間だが、英仏海峡は大しけが続いていた。5日は取り消され延期するとなれば19日か7月まで待たねばならない。最高首脳部会議は気象部員からの詳細な報告に基づき6日をD・DAYと最終決定した。フランスのレジスタンス向けの暗号放送は盗聴されたがヴェルレーヌの“秋の歌”が上陸作戦の開始を告げるものであることは覚えられなかった。5000雙からなる大船団はノルマンディへ南下し午前零時15分、米軍空挺部隊の降下から上陸作戦の火蓋は切られた。5時半の海上からの攻撃開始を西部軍総司令部が知ったのはその30分前、情婦エヴァの側にあったヒトラーやヘルリンゲンの自宅にいたロンメルが知ったのは5時間後だった。防御陣地は判断を誤った作戦会議のために殆ど無用の長物と化したが、激浪に苦しめられてきた連合軍を海辺に釘づけにして多大な損害を与えた。しかし物量を誇る連合軍は内陸深く侵入し上陸舟艇はノルマンディの海を覆った。“上陸作戦の最初の24時間は決定的なものになるだろう--この日こそ連合軍にとっても我々にとっても一番長い日になるだろう”とロンメルに言わせた6月6日は史上最大の作戦をもった連合軍の圧倒的な勝利に終わり、ナチス・ドイツが崩壊し去る運命の日になった。
20世紀FOXの大プロデューサーダリル・F・ザナックが心血を注いで製作した作品。アメリカからジョン・ウェインやヘンリー・フォンダらが参加した他、英仏独からも豪華キャストを迎え、製作費1,200万ドル(当時のレートで43億円)の巨費[注釈 1]を投じた。なお当時20世紀FOXは『クレオパトラ』の製作で財政上の問題を抱えて会社が倒産寸前までいったが、この映画の世界的な大ヒットで再建したと言われている[注釈 2]。
原題を直訳すれば『一番長い日』であるが、当時20世紀FOX日本支社の広報を務めていた水野晴郎が『史上最大の作戦』と改題した。
音楽はモーリス・ジャールが担当した。主題歌は、この映画に出演もしている歌手ポール・アンカが撮影中に作詞・作曲[注釈 3]し、ミッチ・ミラー(英語版)が行進曲風に編曲して自身の楽団・合唱団が演奏している。
アカデミー賞では5部門でノミネートされ、そのうち撮影賞、特殊効果賞を受賞した。
後年、本作のフィルムにコンピュータで着色した「カラー版」も製作されているが、軍服や徴章、勲章などの着色に誤りがある。
1944年6月4日未明セーヌ河の湾曲部にあるドイツ西部軍B師団司令部で、司令官ロンメル元帥は家族の許へ帰ろうとしていた。連合軍の大陸侵入作戦を知らないわけではなかったがここ数週間は悪天候だし防御は完璧だった。同じ南部イングランドで300万近い連合軍を指揮するアイゼンハワー最高司令官は上陸作戦の日--D・DAYを決定しょうとしていた。遅い月の出と夜明け直後の干潮という絶対条件の揃うのは6月5~7日の3日間だが、英仏海峡は大しけが続いていた。5日は取り消され延期するとなれば19日か7月まで待たねばならない。最高首脳部会議は気象部員からの詳細な報告に基づき6日をD・DAYと最終決定した。フランスのレジスタンス向けの暗号放送は盗聴されたがヴェルレーヌの“秋の歌”が上陸作戦の開始を告げるものであることは覚えられなかった。5000雙からなる大船団はノルマンディへ南下し午前零時15分、米軍空挺部隊の降下から上陸作戦の火蓋は切られた。5時半の海上からの攻撃開始を西部軍総司令部が知ったのはその30分前、情婦エヴァの側にあったヒトラーやヘルリンゲンの自宅にいたロンメルが知ったのは5時間後だった。防御陣地は判断を誤った作戦会議のために殆ど無用の長物と化したが、激浪に苦しめられてきた連合軍を海辺に釘づけにして多大な損害を与えた。しかし物量を誇る連合軍は内陸深く侵入し上陸舟艇はノルマンディの海を覆った。“上陸作戦の最初の24時間は決定的なものになるだろう--この日こそ連合軍にとっても我々にとっても一番長い日になるだろう”とロンメルに言わせた6月6日は史上最大の作戦をもった連合軍の圧倒的な勝利に終わり、ナチス・ドイツが崩壊し去る運命の日になった。
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