あさねぼう

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鈴木朗夫

2020-03-21 11:16:35 | 日記
1987年に56歳で亡くなられた元住友商事・常務の鈴木朗夫氏は、連日遅刻をすることで有名でありながらも、テキパキと八面六臂の仕事のさばきかたをして、超特急で出世するという異彩を放った商社マンである。
遅刻の常習犯で、会社の規律や日本的慣行に徹底的に反抗し、制度と闘いながらも、当時の大手6大商社の中で最年少役員に出世した。
ビジネスマンとしてだけでなく、芸術を愛し、女性を愛し、スペインを ”わが故郷” と呼んだ男。
色の黒い精悍な、日本人離れした風貌を持つ美男子であり、住友商事のオフィスで日中にOL達が見学に訪れるくらいに、日本でも海外でも、女性によくモテたという。 
佐高信 著の ”逆命利君” に記された彼の生きざまは、まさに命に逆らいて君を利するもの。
抜群の企画力、折衝力、語学力と自己の美学をもち、屈従と非合理が支配する陰湿な日本的企業社会に対する果敢な挑戦者であった。ジャン・コクトーに心酔し、自分をムッシュウと呼ばせたこの気障な教養人の誇り高き生と死のドラマは、ぐいぐいと引き寄せられる。

会社の同僚と飲みに行くと、ブランデーを片手に、「レイモンラディゲの ”ドルジェル伯の舞踏会” は最高です。」 と評し、 「ラディゲは20歳で死んだけれども、老衰です。」 と、あふれんばかりの教養で若手社員を煙にまき、オピウム(阿片)という一本3万円もする香水を会社の役員室や自宅にふりまき、高度経済成長期に流行った ”モーレツビジネスマン” を社畜と呼んで軽蔑し、ヨーロッパの自由な文化を愛した。

昭和6年に名古屋市で生まれ、東京大学経済学部を卒業後、住友商事に入社した鈴木は、最後は常務取締役業務本部長だった。世界を舞台にした商戦で、決して卑屈な妥協はせず、外国人バイヤーとも対等にわたりあったタフ・ネゴシエイターであった。
20代後半の頃から、後に住友商事の社長となった伊藤正氏の部下として、常に右腕的存在だったらしい。
猛烈課長・伊藤氏のもとで連日深夜まで働かされる生活に嫌気が差した鈴木氏は、当時はまだ無かったフレックスタイムを住友商事で勝手に実践し、毎日遅れて会社に出社し、たいていは昼頃出社していながら、就業規則にある ”遅刻届” に
「靴ひもがうまく結べなかったため」 とか、
「深夜に会社の将来を考えていたら眠れなくなったため」 とか、好き勝手な理由を書いては提出していたそうだ。

ある日、住商の人事担当役員から呼び出しを喰らい、連日の遅刻をとがめられると、
「何か問題がありますか?」 と平然と答え、人事担当役員が「問題がありますかどころではない。君は就業規則に違反しているのだ。」 と返すと、「本当ですか。ちっとも知りませんでした。就業規則のどの条文に反しているのでしょうか。遅刻をしたら ”遅刻届”を出すように書いてあるので、私はきちんと毎日、提出しているのです。むしろ私は表彰されるのかと思っておりました。」と答えたそうだ。

住商の就業規則には、遅刻がいけないとはどこにも書いて無かったのである。 

ところが仕事は抜群に出来て、鉄鋼部門で日本の鉄鋼製品を海外に売りさばいたものだから、上司の伊藤正はいつも人事・総務から鈴木をかばい、鈴木の主張に次第に耳を傾けるようになる。
「鉄鋼貿易部はいつも夜10時過ぎまで仕事をするのだから、朝は9時半はじまりにしよう。」 というのを上司・伊藤は積極的に指示して人事にかけあったという。翌朝ムリして早く来ても、いい仕事は出来ないという理由でのフレックス制の採用である。日本企業で最初のフレックス制度を住商が採用したのは、まさに鈴木のおかげである。
そんなことがあって、9時半始まりになっても、鈴木は早くて10時過ぎ、たいていは昼から出社したという。「それはそれ、これはこれ」 なのである。
鈴木の書く英文ビジネスレターは簡潔で、要点を押さえてあり、若手社員の書く英文ビジネスレターを徹底的に赤字で添削してはしごいたという。鈴木の書いたレターを、三菱商事が、これぞ商社マンの書く模範的なレターだといって商業英語のテキストに入れたとか、外務省のテキストにも採択されたという話もあるくらいである。
上司の伊藤が米国住友商事の社長として、先発の三菱商事や三井物産、丸紅を猛追し、売り上げを4倍にまで広げた陰には、鈴木がいたという。
鈴木は、「フォーチュン500社作戦」 を実行し、アメリカの経済紙、フォーチュンに掲載されている大企業500社に全部コンタクトを取り、住商と取引をはじめるよう思いついたという。その中には既に住商と取引をしている会社もあれば、無い会社もある。
アメリカの上位500社と取引を始めれば、上位の三菱商事や三井物産も視野に入る、というわけである。その甲斐あって、米国住友商事は飛躍的に売上高、利益を伸ばしたそうだ。
そんなくらいだから、会社側の信望も厚く、ヨーロッパを愛する彼は、自分で勝手に出張をこしらえて、パリやスペインに1カ月から3カ月も短期駐在をしては、仕事を適当に切り上げては悠久の欧州大陸を放浪したという。パリの街角では、地下鉄のホームで眼が合ったパリジェンヌをナンパしたという逸話も残っている。
自分より若く亡くなった鈴木朗夫の葬儀の席で伊藤正・元社長はこう弔辞を述べたという。
 「君は若い頃から異彩を放っていました。凡そサラリーマン的でない人間で、自分は会社に時間を売っているのではない、仕事を売っているのだと言って、出社時間も必ずしも正確でなく、いささか私をてこずらせたものですが、君の持つ企画力、折衝力、語学力は抜群のものであり、短期間のうちに鋼材輸出のすばらしい担当者として鉄鋼メーカーの人々からも絶大なる信用を受けられ、住商に鈴木ありとの名声をかちとられたのであります。」
鈴木の葬儀には、キューバやフィリピンの駐日大使夫妻も参列していたという。いかにも国際人らしい鈴木の生き方だった。

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