あさねぼう

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準西国稲毛三十三所観音霊場縁起

2020-04-28 16:25:28 | 日記
武州橘樹郡稲毛(現在の神奈川県川崎市宮前区)に山田平七という人がおりました。神仏にすがって十余年にわたってわずらっている痰咳の病を癒そうとしましたが、宝暦4年(1754)8月14日から、観音さまの称名をはじめました。ところが翌年(1755)4月19日の夜、富士浅間から歌の題を授けられた吉夢をみたので、この年から6年間、毎年7月1日には富士山へ参詣しました。また宝暦5年(1755)の7月には、母親と一緒に西国へ参り、熊野に参詣して、 無事に帰国できましたら、三十三体の観音さまを建立します。 と誓い、西国三十三ヵ所を巡拝して帰り、平(たいら)の薬王庵に観音さま建立のことを誓願し、また、宝暦8年(1758)3月には秩父の観音霊場を巡礼して西国堂に古仏・新仏が集められているのを拝みました。しかし、三十三体の観音さまを創ることはなかなか容易なことではありません。

宝暦13年(1763)3月には、もう生きているうちには観音さま建立の誓いは果たせない、観音建立は生まれかわってから後にしたいと薬王庵へ参り願書を取り下げようとさえ思いつめるにいたりました。しかし、この3月8日は父の十三回忌に当たるので、せめて父の遺骨を背負って、再び西国巡礼したいと考えましたが、病気が重くなったのでこれもできません。そこで西国三十三ヵ所になぞらえ、近郷に三十三体の観音さまを導きたまえと平の熊野権現に祈願しました。こうして山田平七は三十四首の御詠歌をつくり、納経の礼をうつこと数度に及び、宝暦13年(1763)12月8日からは百ヵ日の日参巡拝を行いましたが、明和3年(1766)11月11日に死去、薬王庵の山田家墓地に葬られました。

戒名は「源応道本居士」
おほ空をしづがのきばの破れより つくづくみれば月澄みにけり
世の中の鏡とみればわが姿 仏ともみえおにともみゆる
など、居士の歌には、仏に徹して生きた居士の心境を知ることができます。

稲毛領について
稲毛領の名のおこりは古く、鎌倉時代に、桓武天皇の十三代の子孫・小山田別当有重は、武州小山田(現在の東京都南多摩郡忠生村)に関城を構えていましたが、その嫡男・稲毛三郎重成は北条時政の娘をめとり、菅生(現在地は不明)に桝形山城を築き、武蔵国橘樹郡の北東の五十七ヵ村、四万八千石を支配し、稲毛領と称したのがはじまりと考えられています。

本観音霊場は、十二年に一度、午年の四月中に二十日間前後を期間として御開帳され、巡拝が行われます。

この観音霊場は、江戸時代の宝暦4年(1754)に、観音さまへの信仰が篤かった武州橘樹郡稲毛領平(現:川崎市宮前区平)の山田平七翁が西国三十三観音霊場を巡拝して帰り、西国三十三体の観音さまを近郷に導きたまえと発願し、西国観音霊場になぞらえ、近郷の寺院三十三箇所の観音さまに、天下泰平・国土安全・五穀成就・万民快楽等の人々の幸せを祈念する霊場として生まれたのが始まりです。



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